14.「普通」の慈善活動(5)
『さむ……』
白い吐息が夜空に溶けるのを、アナは両手で腕を抱きながら見守った。
王都へと帰還して数刻。
相変わらず影のように張り付いていたエルマも、今は、バルドの寝かしつけのため、続きの部屋に引っ込んでいる。
完全に一人になりたいと思ったアナは、迎賓館のバルコニーから、星を見ていた。
故郷の村から、あるいはロドリゴ候の屋敷から見上げたものより、夜空に散らばる光は随分とまばらに思える。
恐らく、ルーデンの王城や城下町で煌々と灯される明りが、星の輝きをくすませているのだろう。
それほどに、ここは大きな国なのだ。
なんとなく手すりに寄り掛かったアナだったが、不意にそれがすり減っているのに気付き、苦笑を浮かべた。
あの奇妙な侍女に、背後から突き飛ばされた際に、咄嗟に握りしめた部分だ。
(……いや、笑いごとじゃないんだけど)
四階から突き飛ばされたら、普通無事ではいられない。
それを、アナの持ち前の反射神経で踏みとどまり、なんとか事なきを得たのだ。
心臓が止まるかと思ったが、エルマに言わせれば、緊張に耐性を付け、すぐに平静を取り戻せるようになるのが目的だという。
『アナ様は、感情の起伏が激しくていらっしゃるようですから。それ自体は美点ですが、やはり王妃たるもの、泰然と己を律してみせなくてはなりません。大丈夫、アナ様なら絶対にできますとも』
常に赤子を抱っこしている彼女は、悪びれもせずに告げたものだ。
いや、実際、彼女にとって、これは善意に基づいた、かつ、至って「普通」の鍛錬なのだろう。
律儀に心拍を測り、まめに水を勧めたり励ましたりしながら、彼女はどこまでも真剣な様子で続けるのだ。
『心拍が落ち着くのに約十五秒ですか。ふむ。……ではもう一度』
『ちょ、え……っ』
その後、何度背後を狙われたことだろうか。
それだけでなく、毒矢を吹かれて「避けてみてください」と言われたり、催涙ガスを撒かれて「回避してみてください」と言われたり、いきなり催眠術を掛けられ、「解いてみてください」と言われたり。
その傍らで、女の修めるべき範疇を超えた学問を叩きこまれたり、化学の実験に付き合わされたり。
(……王妃って、なんだっけ……?)
アナの目が一瞬虚ろになる。
ロドリゴの屋敷で、暗殺者としての教育を受けたときですら、こんな高水準のスキルは求められなかった。
(……あいつ、ほんと、なに考えてるんだろ……)
もう何度なぞったか知れない疑問を、アナはつい反芻してしまう。
暗殺者という自分の正体は、とうに見抜かれている。
それでもエルマが騎士団にアナを突き出さないのは、簡単に御せると判断したからだし、利用価値を感じているからだ。
(……いや、違う。そうじゃないんだ)
アナはぷるぷると首を振った。
むしろ、それならまだ理解できる。
他国の暗殺者を駒に貶め、良いように利用するというのは、いかにも貴族連中が好みそうなやり口だ。
だが、エルマの場合はそうではない。
彼女はいつも甲斐甲斐しくアナの世話を焼き、敬意の籠もった瞳でアナを見つめる。
鍛錬それ自体はかなり過酷だし異常なのに、ちょっとした言葉や仕草に、これ以上ないほどの心配りが感じられる。
その矛盾がアナを戸惑わせるのだ。
(あいつ、すぐに「さすが」って言うよな)
エルマはすぐにアナを褒める。
そしてそのとき、けっして「農民出身のわりには」といった枕詞を使わない。
むしろ、「さすが、長年の鍛錬を感じさせる、粘りのある足腰をお持ちですね」とか、「さすが、太陽のリズムと体が完全に同期していますね」とか、アナがかつて寒村で鍛えてきたあれこれを、しみじみ感嘆したように指摘する。
ロドリゴですら、アナを褒めるときは「流刑地の出でありながら、よくここまで頑張りましたね」という言い方をするのに。
(今日だって、そうだ……)
前代未聞の活躍を見せるエルマとは異なり、自分は、誰にでも扱える道具と知識を使って対処しただけなのに、エルマは、それこそを褒め称える。
特に今日、食べられる雑草を披露したときは、「まさに血肉を伴った知識……魂を震わす衝撃の新事実ですね……!」と、その後もしきりと感動していた。
どうやら、彼女はあの食べられる雑草のことを書物でしか知らず、そこでそれは「毒」と区分されていたらしい。
ほかの植物が異常に成育していたのに、道理でその雑草はちんまりとしたままだったはずである。
『頭でっかちで、お恥ずかしい限りです。引き換えアナ様の知識は、すべてがご経験としっかり結びついていて、素晴らしいですね』
『常人にはなかなかなしえない、貴重なご経験をされてきたのですね』
『大変勉強になります』
そんな言葉を、エルマはどこまでも真剣に呟く。
嫌味でないことは、その真っすぐな瞳と、神妙な表情を見れば、すぐにわかった。
彼女は、本気で、アナに感服しているのだ。
(この、貴族でもない、数年前まで文字も書けなかった、流刑地出身のあたしに)
エルマを前にすると、なんだか自分が、いっぱしの人間のように思えてくる――。
(いけない。なに考えてんだ、あたし)
アナは再び首を振った。
やすやすと騙されてどうする。
しょせんはあの侍女も、ルーデンの人間、それも間違いなく貴族だ。
持てる者。アナの村やエスピアナから金を搾り取り、その富を浴びるようにして暮らしてきた人間。
(罪人の血を引くあたしが、草の根を齧って冬を越えてきた間、青い血の流れるあの子は、日の当たる部屋でのうのうと暮らしてきた。そんなの、不公平じゃないか)
拳を握り、考えを固める。
だというのに、なぜその傍から、エルマの敬意の籠もった眼差しが蘇るのか。
アナは忌々しそうに溜息を吐くと、とうとう手すりを乗り越えた。
滑らかな動きで柱を伝い、するりと地面にたどり着く。
こうした技術も、この数日で見違えるほど上達した。
今なら、暗殺者としてのレベルも底上げされているに違いない。
(暗殺……。ルーデンの王を、殺す……)
芝生に降りた霜を戯れに踏み潰しながら、内心でそう唱える。
これまでなんの疑問も抱かなかったその任務に、今なぜか違和感を覚えていた。
エスピアナを搾取してきたルーデンに一矢報い、心優しきロドリゴ侯爵を悩みから解放する。
それの、なにがおかしい。
自分でもわからない。
貧しかったアナは被害者だ。
救い上げてくれた侯爵は善人で、だからこの行動は正義。
そう思うのに、なにか引っ掛かる。そして、その正体がわからない。
もどかしさは苛立ちとなって、アナの思考を攻撃的なものにした。
(……もしや、あの女に、知らない間に洗脳でもされてんじゃないのか、あたし)
不意にそんな考えが脳裏に閃く。
思えば、エルマと出会ってから、こちらのペースは崩されっぱなしだった。
実際に催眠術を掛けられたこともあるし、アナの知らぬ間に暗示を施されていたとしてもおかしくない。
アナは親指の爪を齧った。
そうとも、相手は卑怯なルーデンの人間だ。
表では親切ごかしても、その実――
「そこでなにをしている」
そのとき、低い声が掛かったので、はっと顔を上げる。
星明りを背負って現れたのは、胸当てを身に付けた精悍な男。
背格好から判断するに、今日の見張りを担当する騎士だった。
(しまった、警護が手薄だからと油断してた)
厳重な警備がなされる迎賓館とはいえ、辺境国出身のアナに割り振られる人員は少ない。
しかも今はちょうど、脱落した候補者が続々と館を離れるとあって、騎士の多くは玄関口に集中しているはずだと、高を括っていたのだ。
それがいけなかった。
だが、皮肉にもエルマの指導のおかげで、こうしたときの度胸はだいぶついたものだ。
アナは、動揺などおくびにも出さず、怯えたように首を竦めてみせた。
「も、申し訳ございません。寝付けなかったため、散歩をと思い外に出ておりました。すぐに戻ります」
「散歩? 室内履きのままで?」
「室内履きのまま? ……いやだ、本当! お恥ずかしいですわ」
いかにも今気付いたふりをしながら、内心で舌打ちする。
男のくせに、よくも女の履物にまで気付けるというものだ。
「ぼんやりしていたからですわね。はしたないところをお見せしました」
「へえ、『ぼんやりしていたから』ですか。てっきり、『部屋から伝い下りてきたから』かと思いましたよ、アナスタシア・ドン・ロドリゴ殿」
名前をはっきり呼ばれて、アナは警戒を強めた。
目の前の男の風貌を改めて検分し、脳内で素早く情報を照合する。
そして、ひそかに息を呑んだ。
黒髪、碧眼、すらりとした男前。
彼は、選考会の場でも何度か見掛けた。
そう、現王以上に有能な王族でありながら、騎士団に身を置く変わり者として、他国でも評判の――
(ルーカス・フォン・ルーデンドルフ)
アナは、警戒レベルを一気に最高値まで跳ね上げた。