13.「普通」の慈善活動(4)
王都へと戻る馬車の中で、真っ先に口を開いたのはデボラであった。
「それにしても、二日目にして候補者が三人にまで絞られてしまうとは。でもこれで、『優勝一歩手前まで残る』というミッションは着々と進行中ですわね。さすがはエルマエル様です。そう思わなくて、イレーネさん?」
狭い車内に、恍惚とした声が響き渡る。
この四人掛けの車両には今、デボラとイレーネ、そしてバルドを抱っこしたエルマが乗っていた。
エルマはアナも誘ったのだが、「疲れたから横になって寝たい」と断られたのだ。
今や王妃筆頭候補に躍り出たアナの要望は受け入れられ、彼女は今、一つ前を行く馬車を、一人で利用しているはずだった。
「なにが着々よ」
水を向けられたイレーネは不満顔だ。
窓枠に頬杖を突いて、ぶすっとしたまま指摘した。
「陛下の良いように、ことを進められてるだけじゃない。カロリーネ嬢を候補に残したのがその証拠よ。さっさとアナ様を王妃に指名して、今日の時点で任務を終了させることもできたのに。結局、すべては陛下のお心ひとつ、掌の上ということだわ。エルマを落とすか残すか――王妃にするか、もね」
「ですが、最終的に、私が明日の選考で逃げ切ればよいだけの話ですし……」
不機嫌な友人を前に、エルマが困ったように眉を下げる。
が、それを聞いたイレーネは、猫のような瞳をますますキッと吊り上げた。
「最終結果だけの話をしているんじゃないの。私はね、経過……ここ最近のあなたたちを見ていられないのよ!」
「あなたたち、とは?」
「あなたとルーカス殿下のことに決まってるでしょう!」
きょとんとする親友に、イレーネはびしっと指を突きつけた。
「いい加減、その鈍さは許されないわよ! だから、私厳選の
「いえあの、ですからこれでも、最大限拝読はしているのですが……」
エルマが眉を下げ、おずおずと反論する。
親友相手に強く出られないエルマを見かねたのか、デボラが割って入った。
「あらぁ、そこでエルマエル様を責めるのはお門違いですわ。単にイレーネさんのチョイスが肌に合わなかったというだけではないかしら。わたくし厳選の、百合の香りも芳しい短編集などでしたら、きっと五臓六腑に染みわたるかのように、内容が刻まれたはずですもの」
「とかなんとか言いつつ、私がエルマに貸した本を読みはじめてるんじゃないわよ!」
「えー。だって、エルマエル様が獲得なさったすべての知識を、わたくしも共有したいのですものぉ」
素早くツッコミを入れるイレーネに、デボラはのんびりと、膝に本を広げながら返す。
読んでいるのは、先日イレーネがエルマに押し付けた「王都の見どころガイドブック」だ。
エストワ庭園の特集に視線を落としながら、デボラは「許されないと言えば」と唇の端を持ち上げた。
「勝手に他人の好意を告げてしまう行為も、あまつさえ、その好意に応えろと迫る行為も、マナー違反ですわねぇ?」
「…………っ」
突然の鋭い一突きに、息を呑む。
たしかに、ルーカスの感情を、本人のあずかり知らぬところでエルマに告げてしまうのも、「こんなに好かれているのだからもっと行動を考えろ」と諭すのも、傲慢な行為ではある。
(でも……っ)
それでも、イレーネはぎゅっと拳を握りしめた。
(大好きな二人が、ぎくしゃくしているのを、これ以上見たくないんだもの……)
イレーネはエルマが好きだ。
ルーカスのことも、友人として好きだ。
そしてその二人が、騒動に巻き込まれながらも、いつもわいわいと息の合ったやりとりを交わす、それを見るのが大好きだった。
エルマと出会ってからのルーカスが、「単なる色男」から脱却し、感情を乱したり、人間味あふれる葛藤を抱えたりする様子を、イレーネは好意的に見守ってきた。
そして監獄に赴いた際には、エルマのほうも、ルーカスを意識しているようだと、たしかに感じられたのに。
「エルマ……あなた、いったいなにを考えているのよ……」
ルーカスの苛立ちは理解できるが、エルマの真意は測れない。
だからつい、イレーネはルーカスの味方をしてしまう。
難しい顔で呟いたイレーネを、エルマはじっと見つめ、やがて静かに切り出した。
「イレーネ。気付かれにくいかもしれませんが――」
彼女は、眠るバルドの頬をそっと撫でると、一語一語を選ぶように告げた。
「実は私、バルたんが生まれてから、かなりオーガニックだとか、品質へのこだわりが強くなったのですよね」
「……いえ、それはもちろん気付いていたけど、なぜここでその話が出るかがさっぱりわからないわ」
ここに来てまで弟の話に終始するか、とイレーネが半眼になる。
エルマは少し焦ったように、身を乗り出した。
「これまでは、力技と言いますか、多少の困難があっても、ねつ造したり洗脳したり科学の力で矯正したり、物理の力で薙ぎ払ったり、そういうことをすればよいのだと思っていたのです。それが『普通』だからと」
「え、ええ、まあ……あなたの育ちからすれば、そうなるわよね」
「でも……生まれてきてくれたこの子には、最高のものを与えたい、本物だけを差し出したい――この半年というもの、そう考えることがとても多くて……。すると、これまでのような力技は、もしや、少しばかり不誠実だったのではないかと、そう思えてきたのです」
切実な声に、イレーネはつい目を見開く。
エルマは、どこまでも真剣だった。
「陛下は、戸籍のことを、『普通』の生活を送るのになにより必要なもの、と仰っていましたね。以前の私なら、『ならば偽造しようか』とか、『強奪しようか』と思ったかもしれません。……ですが、今の私は、それをしたくないのです」
「エルマ……」
「紛い物ではなくて、本物がいいのです。公的に、一点の曇りもなく、社会での存在を認めてほしい。私の家族が聞いたら鼻で笑うかもしれませんし、そのために殿下の機嫌を損ねているのかもしれませんが……でも、譲れないのです」
――いつかバルたんが誰かと愛を育み、結婚するときにはどうするのです? 子を持つときは?
先日ルーカスと口論になったときの、エルマの主張を思い出す。
彼女は、これまでになく必死だったように見えた。
――バルたんは……生まれてくる自分の子どもとも、正式な親子関係を結べないのではありませんか?
囚人の子。
世俗と隔離された監獄で秘密裏に生まれ、複数の「親」に育てられたエルマ。
彼女と「家族」はあんなにも強い絆で結ばれているのに、その関係を公的に保証するものは、なにひとつない。
それは――イレーネたちの想像以上に、エルマに深い葛藤を強いていたのではないだろうか。
そう思い至ってしまえば、もう「バルドのことばかり考えすぎている」などとは非難できない。
姉としてのその心情は、けっして否定されてはいけないものだと思えたから。
それに、きっとルーカスの感情についても、自分が思っていたよりもずっと、エルマはきちんと理解しているのだろうと――そう、感じたから。
「……わかったわよ」
三呼吸ほど置いたあと、様々な感情を飲み込んで、小さく告げる。
眉を寄せながら、それでも頷いてくれた親友に、エルマは明らかにそれとわかるほど、ほっと胸を撫でおろした。
「わかっていただけて、よかったです。……ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ございません」
「いいわよ、もう。心配をかけないエルマなんて、もはやエルマじゃないわ」
「そ、それは面目次第も……」
恐縮して頭を下げるエルマを見て、イレーネはふんと鼻を鳴らす。
エルマもエルマなりに考えがあって、行動しているのだ。
ならば、親友を自認する自分としては、見守るほかないだろう。
「そうと割り切れば、あとは明日の対策よ。最終選考課題はいったいなんなのかしらね? 私の情報筋によると――」
腹を決めてしまえば、あとはもういつものイレーネだ。
先ほどまでの寡黙ぶりから一転、さかんにおしゃべりに興じるようになった同僚を見て、隣のデボラは小さく笑みを浮かべた。
「
後半ぼやきに変わってしまった独白は、車輪の立てる音に紛れてしまい、誰にも聞き取られない。
デボラはエルマの指の動きを真似るように、ガイドブックのページの一部――エストワ庭園の特集を、とんとんと優しく
***
「うん、行きに比べてだいぶ快適。やっぱり、一気に三十台くらい馬車で踏み
一方、先頭を行く馬車には、フェリクスとルーカスの二人が乗り合わせていた。
もっとも、こちらではフェリクスがぺらぺらとしゃべり通すばかりで、ルーカスはずっと沈黙を貫いている。
「いやあ、それにしてもカロリーネ嬢は意外に健闘したよね。手袋持参とか、あんな知恵があったとは。でもやっぱり、大穴はアナスタシア嬢か。そうは思わない? うん、やっぱり僕は好きだなぁ」
「……だったら」
と、フェリクスが間延びした口調でアナに触れたとき、とうとうルーカスが口を開いた。
「アナスタシア・ドン・ロドリゴを、さっさと王妃に指名してしまえばよかったではありませんか。どうせ、カロリーネを娶る気などさらさらないのでしょう?」
声には、隠しきれない険がある。
無表情で告げる異母弟に、フェリクスは「やれやれ」と肩を竦めた。
「そんなことしたら、今日でエルマの任務が完了しちゃうじゃない。もったいない」
「そんな理由で、ふざけた任務を引き延ばさないでください」
「いやいや、最後までなにがあるかわからないのが王政ってものだからさー」
飄々とした様子に、ルーカスは苛立たしげに眉を寄せた。
「義兄上は、いったいなにをお考えなのです?」
「なにをって、そりゃいろいろねー」
「……エルマを、望んでいるのですか?」
地を這うような声。
フェリクスは、しばし窓の外を眺めると、
「……あのさぁ」
やがて、しらけたように切り出した。
さして美しくも醜くもない平凡な容貌には、今はっきりと、ルーカスを馬鹿にする表情が浮かんでいた。
「仮にそうだったとして、君はどうするわけ?」
「ということは、義兄上は――」
「いやだからさ、『僕は』じゃなくて、『君は』どうしたいのかって聞いてるんだけど」
身を乗り出したルーカスを遮り、フェリクスはひらりと掌を翻した。
「君って、ほんとに弟気質だよね。『義兄上はどうするんですか』『義兄上はなにを考えているんですか』って、そればかり。君は空気をよく読むし、どんな相手にも自分を受け入れさせてしまうけど、それって逆に言えば、自分がないってことだ。だから、相手がどう出るかを見てからじゃないと、動けない」
思いも寄らぬ指摘に、ルーカスは言葉を失った。
いつも掴みどころがなく、あまり人を気にしていなさそうな異母兄からの、突然の鋭い言葉。
それは意外にも、ほかの誰の発言よりも、ルーカスの性質を正確に言い当てていたから。
「僕が凡愚な男を装ってきたように、君も周囲を観察して、軽薄な男を演じてきた。常に本気を出さず、本気にならず、しなだれかかってきたものだけを摘まんでね。異国出身の側妃の息子だもの。命だって掛かっていたんだから、君がそうなるのも無理はない。でもね――そんな時代は、とうに終わったんだ」
「…………」
ルーカスの青い瞳が見開かれる。
フェリクスは、自らの
「愚かなるヴェルナーを王に戴き、母親や家臣たちの思惑に振り回される、僕たちの不幸な王子時代は、もう終わった。今や僕が王になったんだ。いや、……君が僕を王にした」
ルーカスが、フェリクスを王にした。
それは事実だ。
監獄で真実が明かされたとき、ルーカスはそれでもフェリクスを王位に押し戻したのだから。
そして気付いた。
あのとき飄々としていたように見えた異母兄は、その実かなり、それを重く受け止めていたのだということに。
「……怒っているのですか?」
「ほら、すぐそうやって人の顔色を見る。……べつに怒っても、感謝してもないよ。まあ、ちょっとどこかでやり返してやろうくらいのことは思ったけど」
小さく笑うと、フェリクスは小首を傾げた。
「ただ、それと、今回エルマを王妃候補にしたことは、なんの関係もない。純粋に、彼女の能力が便利だと思ったからだ。でも、僕がエルマを駒としてしか見ていないからといって、あるいは逆に、僕がエルマを愛していたとして、いったい君になんの影響があるの?」
戸惑うルーカスに、フェリクスはぐっと顔を近付ける。
二人の横顔は、まるで似ていなかった。
それはそうだ、半分どころか、彼らにはまったく血の繋がりがないし、――その性質も大きく異なるのだから。
「自分で手を伸ばすんだよ、ルーカス。欲しいものを、欲しいとも思えない愚か者を、僕は弟にしておく気はない」
平凡であったはずのフェリクスの相貌は、ひどく大人びて見えた。
いかにも、王であり、兄であると言わんばかりの顔つきだった。
彼の横の窓から、外の光景が目に飛び込んでくる。
朝は確かに険しかった、寒村と王都を繋ぐ道は、今、何百もの車輪に踏み慣らされ、すっかり進みやすくなっていた。
(ああ、そうか……)
ルーカスはそのとき、心の底に、なにかがすとんと収まるのを感じた。
やはりフェリクスは、王なのだ。
茨道でも獣道でも、進みたいと思う方向へ切り拓いてゆく。
引き換え、自分はなにをしてきただろう。
ほかの男になびくのかと憤り、思いが伝わらないと嘆き、相手の意向ばかり気にして。
(……あほか)
手に入れすぎぬように、欲さぬようにと、醒めた態度を演じて過ごしてきた十数年。
それでも、自分が本当に欲しいものを感じ取れるくらいの魂は、残してきたはずだ。
そして、それを押し込める必要は、もうどこにもない。
ルーカスは、ちらりと窓の外を見ると、口の端を引き上げた。
「……もう王都も、だいぶ近い。これなら、馬車を引く馬の一頭が減ったって、道中なんら問題ありませんね」
「は?」
怪訝な顔つきになったフェリクスを、ルーカスはまっすぐ見つめた。
「俺自身すっかり忘れかけていましたが、俺は弟で、騎士なんでした」
「うん?」
「道を切り拓くのは、王である義兄上に任せます。……それでもって、要領のいい弟であり騎士の俺は、ちゃっかりその道を利用して、愛しい女のために奔走でもするとしましょう」
これは宣戦布告であり、誓いだ。
考えてみれば、誰かに向かって、エルマのことを「愛しい」と口にしたのはこれが初めてだった。
そして同時に、感謝の言葉でもある。
フェリクスを王と敬い、兄と仰ぐ自分の敬意を、彼は受け取ってくれるだろうか。
「……わーお、なにその身勝手な発言」
「弟なんて『普通』こんなものです。それに……そういう人間が、お嫌いでもないでしょう?」
自信たっぷりに首を傾げてみせれば、フェリクスはやれやれと苦笑を刻む。
ルーカスは、それを肯定とみなした。
「では、俺は用事を思い出したので、一足先に失礼しますよ。馬を一頭お借りします。王たる義兄上は、せいぜい馬車でのんびりお戻りください。それと」
御者台へと移動を開始するため、素早く座席を立ち上がる。
低い天井に手を掛けながら、ルーカスはにやりと背後を振り返った。
「もう少しあなたの弟として、生かしておいてくださいよ。決して失望させやしませんから」
言うが早いか、さっさと扉をくぐってゆく。
考えてみれば、男二人で狭苦しい空間にいても、なんの楽しいこともない。
そんなことにも思い至らず、同じ車内で悶々としていた自分は、心底平静を欠いていたのだと思い知らされた。
「しっつれいなヤツー」
馬車に残されたフェリクスは、壁に背を預けてひとりごちる。
ただし、その口元には、愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「ま、たしかに失望はさせないだろうね。なんたって君は、僕が王の道に踏み入るよりも早く、さっさと騎士の道を切り拓いた男だもの」
なんとはなしに窓に向けた瞳は、そのまま虚空を眺める。
都が近付いてきたことで、これまでただ真っすぐ伸びるだけだった道に、交わる道が現れはじめた。
交差する道と、そこを行き交う馬の図は、なんだか少しチェスにも似ている。
フェリクスは、平らな盤面を思い浮かべながら、静かに目を閉じた。
この身に秘された聖力のせいだろうか。
チェスの盤を読むことも、少々先の未来を予測することも、とても得意だ。
「僕は君を殺さないよ、ルーカス」
しばらく心地よい振動を味わってから、彼はゆるりと目を開けた。
窓枠に頬杖を突き、ぼんやりと外を眺める。
「……でも、君が勝手に死んじゃわないように、気を付けたほうがいいかもねぇ?」
静かな呟きは、誰にも聞き取られることなく、そっと冬の空気に溶けていった。