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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「恋」は難しい

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12.「普通」の慈善活動(3)

「こちら側も、掃除が完了しました」


 訛りのないルーデン語で告げる異国の少女は――アナスタシア・ドン・ロドリゴ。


 ドレスを裂いた布でほっかむりをし、手には、ずっしりと膨らんだ布の塊のようなものを持っている。

 彼女は、それを厳重に袋にしまい込むと、周囲に酒のようなものを振りまき、最後に香水をひと吹きした。


 未だ汚物が残っていたはずの場所なのに、いつの間にかすっかり綺麗になっている。

 もちろん石床のぼこぼことした表面はそのままだったが、そのくぼみに溜まっていた汚水までもが、すべて拭き取られていた。


「ひとまず、汚れを拭きとって、消毒液を撒いただけです。このあと、熱湯で拭いて、仕上げにもう一度消毒させてください。窓は拡張して、日中はなるべく光を入れましょう。寒いのは承知ですが、日光優先です」


 アナは、消毒液を使って己の腕を清め、ほっかむりを外すと、病人たちを見回した。


「下痢や嘔吐の症状がある方。辛いのはわかりますが、必ず決まった場所で排泄、嘔吐してください。症状の重さに応じて、寝床の位置を考えるように。かつ、汚物は必ず決まった手順で処理してください」


 次々と指示を飛ばす様は、実に堂々としている。

 小柄で、容姿も可憐な部類のはずだが、今そこに滲む表情は、疲労からか殺伐としていた。


「看護人がいないのであれば、すべての作業を病人あなたたち自身で完結させるほかありません。吐くだけの体力があればできる衛生管理方法を、この後図解で示しておくので、それを壁に――」

「ねーねー」


 滑らかな口上を遮って、フェリクスが、この場全員の疑問を代弁した。


「君、いつの間に、どうやって、ここを掃除したの? 」


 心の底から不思議そうに問う彼に、アナは「は?」と、すさんだ瞳で応じる。


「そんなの、普通に、高吸水性高分子ポリマーで吸わせただけですけど」

「……ポリマー? え……いや、普通そんなもの持ち歩かないよね? っていうか、身近に無いよね?」

「はあ。無いなら作ればいいんじゃないですか?」


 媚びるべき相手に素っ気なく答えてしまうほどに、そのときのアナは、疲れ切っていた。


 一体自分はなにをしているのだろう。

 もう二十四時間近く、排泄物うんうん嘔吐物げーげーにしか関わっていない。

 エルマが次々披露する異常ぶりに、驚愕したりツッコミを入れたりする気力さえ、もはや残っていなかった。


「作る……?」

「ですから、普通にアクリル酸を網目構造に架橋させて、ポリアクリル酸ナトリウムにした後、顆粒にすればいいんですよ。そのくらいのこともわかりませんか?」


 珍しくフェリクスが顔を引き攣らせているが、アナはそれが異常事態だとも気付かない。

 というより、もう、なにが普通でなにが異常なのか、線引きがわからなくなっていた。


(だりぃ……寝たい……。こちとら、あの女に、一晩中実験に付き合わされてんだよ……)


 バルドにとっての快適さを求めるエルマの情熱には、限りというものがなかった。


 おむつの吸水性をよくしたいと言い出したら、途端にポリマーを開発しだし、完成したかと思ったら、そこからさらに吸水速度や保水性、凝集力や耐候性にまでこだわりはじめる始末。

 途中からは、「いつもバルたんが良好な便をしてくれるとは限りません!」と懊悩しだし、エルマの表現を借りるならCマイナス、いや、D相当の便が採取できる環境まで突撃していった。


 あの劣悪極まる環境、そして過酷な実験に比べれば、この養護院の状況がなんだというのだろう。

 そこに汚物があったとき、とりあえずポリマーを作るというアプローチの、いったいなにがおかしいだろう。


 完全に「普通」を見失った少女は、俄かに湧き出した強い感情(やけくそ)を源泉に、自然とこのフレーズを紡いでいた。


「このくらい、普通じゃないですか」


 フェリクスの瞳が大きく見開かれる。

 背後でエルマが「お見事」と拍手するのを聞き流し、アナはくるりと踵を返した。


「それから」


 向かったのは、勝手口の先。

 先ほどエルマが「普通のオーガニック栽培」で野菜を異常生育させた畑だ。

 そこには、四季を無視した野菜の外、無毒と判断されたらしい野の花までもが、群れとなって咲きほこり、あるいは実を結んでいた。


 ありえないほど青々とした光景を、死んだ魚のような瞳で受け流してから、アナは畑の端にすいと屈みこむ。

 そして、頬やドレスが土まみれになるのも気にせず、腕を伸ばし、棘に覆われた植物を根っこから掘り起こした。


「これ。食べられますし、薬にもなります」


 戻ってきて、病人たちに突き出したのは、寒村であればどこにでも生えている、雑草の一種だった。

 根はぼこぼことこぶ状に膨らみ、いかにも不気味である。


「まさか、そいつが……?」

「冗談だろう、根には毒があるって聞いたぜ」


 あまりにありふれていて、しかも厄介者であるために、名前すら付いていない雑草。

 しかし、アナはきっぱりと続けた。


「本当です。毒があるのは、これとよく似た、もっと棘が太いもののほう。こちらは無毒で、根っこは豆みたいな味がするし、葉の汁には解毒や、消毒の作用があります。ほら」

「…………!」


 棘でこさえてしまった切り傷に、目の前で汁を塗りつけてみせたアナに、病人たちは息を呑む。


「ちなみにこちら、茹でてみました」


 そこに黒衣よろしく、エルマが茹でた根を差し出してくる。

 人々はツッコミも忘れてそれを摘まみ、たしかに豆の味がするのを理解すると、「嘘だろう……」と呟いた。


 つまり――打ち捨てられた寒村にいると思っていた自分たちは、大量の食料と、薬に囲まれていたということになる。


 呆然とする病人たちに、アナはふっと口の端を引き上げる。

 彼らの近くにしゃがみこむと、ぴんとその額を弾いた。


『辛気臭い顔しやがって。病人(づら)は、草の根でも齧ってからしろっての』

「え…………?」

「お大事に、と申し上げました」


 額を押さえて首を傾げる病人たちに、アナはしれっとルーデン語に戻して告げる。

 するとそこに、


「いやあ、見事だねえ」


 間延びした口調で声が掛かった。

 フェリクスである。

 彼は、アナに向かってひとしきり拍手を送ると、愉快そうに小首を傾げた。


「洗浄も調理も、エルマのやり方はエルマにしかできないけど、化学は『再現』できるし、食べられる野草の存在は『伝達』できる」


 狐を思わせる緑の瞳は、いつになく上機嫌だった。


「つまり、……君のやり方の方が、より多くの民を救えるね? アナスタシア・ドン・ロドリゴ」


 アナは、意表を突かれたように目を見開く。

 フェリクスはひとつ頷くと、ぱんと大きく手を打った。


「さて」


 すっかり綺麗になった養護院、そして健康を取り戻しつつある病人たちを、満足そうに眺める。


「この通り、候補者エルマ、およびアナスタシア・ドン・ロドリゴは、それぞれの手法で課題をこなした。ああ、『時間と金をかけて臨む』という策を提案してみせたカロリーネ・フォン・ファイネンのことも、一応は認めておこうかな。そうした方法も、実際は必要なことだし。よって、この三名について、明日の最終選考に進むことを認める」


 きっぱりとした宣言に、アナはぽかんとした。


「え……。あ、はい……」

「さすがでございます、アナ様。私は信じておりました」


 とそこに、エルマが興奮したような拍手を送ってくる。

 眼鏡越しにも上機嫌とわかる彼女は、誇らしげにアナに向かって頷き、それからなぜか、イレーネに向かって、「ほら」と、にっこり微笑んでみせた。


「アナ様の、この清々しい活躍ぶり。これに比べれば、私の慈善活動などいたって『普通』。いえ、カスに等しいというものです」


 いや、微笑みというより、親が我が子の活躍を自慢するかのようなドヤ顔、と言ったほうが正しいだろうか。

 イレーネを筆頭とした周囲は、「さすがにそれは……」といった様子で顔を引き攣らせたが、たしかにアナが意外な活躍を見せたことは事実だったので、反論を控えた。

 エルマがあまりに無邪気に喜ぶので、なにも言えなくなった、という側面もある。


 ほかの候補者たちのうち、カロリーネは大はしゃぎし、商家の娘は悔しそうにしたものの、しかし最後には納得したように頷く。

 そしてアナはと言えば、


「最終選考……」


 ぼんやりと呟き、ついでぎょっとしたように小さく叫んだ。


『最終選考!?』


 そうだ、目先の汚物処理にすっかり没頭していたけれど、自分は選考会の場に臨んでいたのだ。

 これこそが望んでいた展開で――ここは内心でガッツポーズでも決めるべき瞬間ではないか。


 しかも今、自分はフェリクス直々に声を掛けられた。

 これはつまり接近の機会が巡ってきたということで、ますますロドリゴ侯爵の野望実現の日が近付いてきたということである。


 そこまで考えて、アナは、エルマへの負けん気を燃やすあまり、途中から養父のことすら意識しなくなっていた自分に気付いた。

 髪飾りや靴を愛でるのが日々の習慣だというのに、今朝はそれすらも忘れていた。

 エルマとの「修行」で汚れてはいけないと、昨夜からしまいっぱなしだったのだ。


(……なにやってんだ、あたし)


 アナは己の阿呆さ加減にばつの悪さを覚え、無意識に視線をそらす。

 そのときちょうど、視界に裏庭の畑――そこにぽつんと咲いた、可憐な白い花が映り込んできたので、彼女は気を引き締めた。


 鈴蘭に似た白い花。

 かつてロドリゴが自分に贈ってくれた花だ。

 多くの人間にとっては雑草でしかないが、アナにとってはなにより大事な花だった。


 同じ香りを閉じ込めた髪飾りは、身に着けるとまるで、養父がすぐ傍で見守ってくれているような感覚を抱く。

 なのにそれを忘れていた自分を、その白い花は責め立てているかのようだった。


(あたしがこの場にいるのは、ロドリゴ様のため。あたしがこうして生きているのは、ロドリゴ様のおかげ……)


 それが、真実であり、前提。

 アナは周囲に気付かれぬよう、小さく頭を振った。


(明日の選考で、本当にあたしが王妃になれるかもしれない。ううん、その前に、今日にでも、枕問いがあって、王のねやに呼ばれるかもしれない。きちんと、備えなきゃ……)


 例えば、すぐに短剣を取り出せるように。

 あるいは、ワイングラスにでも毒薬を落とせるように。

 あの異常な侍女に気取られぬようにこなすとなると、相当なハードルだ。


 だが――それをするために、自分はこの場にやってきた。

 侯爵にこの身を役立ててもらうために、生きてきたのだから。


 自分のすぐ傍で同僚と笑い合っているはずのエルマの姿が、なぜだか遠くに感じる。

 アナは静かに視線を逸らすと、密かに拳を握った。

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