11.「普通」の慈善活動(2)
(二日目にして、実質ここが最終関門のようなものだな。どの令嬢も真っ青になって突っ立っている)
護衛騎士として、ともに養護院にやってきたルーカスは、少し離れた場所からじっと選考会の様子を見守っていた。
大陸中から選び抜かれた女性たち。
中でも抜きんでた芸と度胸を誇る十名の候補者たちのほとんどが、今、呆然と立ち尽くすのが見えた。
それはそうだろう。
ここにいる多くは、上流階級で大切に育てられてきた箱入り娘。
貧困を書物で知ることはあっても、心を挫くような寒さや、膿を流して呻く病人とは無縁だったはずだから。
だが、例外もいるにはいる。
この中では身分の低い商家の娘や、辺境国育ちの娘、伯爵家のカロリーネと――そして、エルマだ。
(義兄上は、本気でエルマを望んでいるというのか……?)
芸の披露に、養護院の訪問。
どちらも、エルマに有利な課題という気もする。
あの異母兄が、本気で異性を求める姿というのは腑に落ちなかったが、有益な駒として気に入る、くらいのことは大いにあり得た。
(そしてエルマも、満更ではない、と……?)
昨日も案の定大活躍をしてみせたエルマを思い出し、ルーカスはつい眉を寄せかけた。
あまりに陰気な発想に、我ながら嫌気が差して表情を戻したが、それでも溜息は漏らしてしまう。
なかなか真意を読み取らせない、不思議な少女。それが彼女の魅力であり、自分が惹かれた部分であったはずだ。
だが――少々疲れた、と彼は思った。
エルマがシャバを去ってから半年。
嵐のような少女を失ったルーカスたちに残されたのは、うんざりするくらい平和な日々だった。
なにもかもが、想定内の日々。
かつて自分は、こうした日々を謳歌していたはずだ。
王族であるにも関わらず、騎士団に入り、平民の友と戦場や下町を走り抜け、艶やかに微笑む女性を渡り歩く。
ただ同じ生活が戻ってきただけのはずなのに、味気ない。
女を口説く気にもなれず、結局行儀よく帰宅しては、柄にもなく監獄へ手紙をしたためた。
文通の企みは、過保護な家族によってことごとく退けられたが、そんな状況もかえって張り合いがある。
闘志を燃やしたおかげで、エルマのいない日々もそれなりに楽しめた。
しかし、そのささやかな幸福は、エルマから初めて返信が来たときに、むしろ徹底的に蹂躙されることになる。
なぜなら、「おまえのいない生活は寂しい」という、かなりストレートな文言への返信は、
――承知しました。
その一言きりだったのだから。
挙げ句、その後には延々と弟とのどうでもいい日常の描写が続き、その熱量の差は、ルーカスを打ちのめした。
ただ視線を合わせれば女性が寄って来ていたルーカス。
思えば、真剣に己の感情に向き合うのも、それを伝えようと言葉を選ぶのも、初めてのことだった。
だというのに、結果はそれ。
久々に再会できたと思えば、相手はこちらに見向きもせずに弟のことばかり。
しかも、弟のために、フェリクスに身を投げ出す始末。
極めつけに、必死で制止するルーカスに対しては、「欲はないですよね」。
(ない、わけ、ない、だろ!)
あの瞬間、ルーカスは、己の好意がまったく伝わっていないことに絶望した。
いや、そんな鈍さや、突拍子の無さも彼女の魅力ではあったし、これまではそこに闘志を燃やしていた節もあったのだが、――さすがに、虚しくなったのだ。
これ以上、どうしろと、と。
(昨日の様子を見る限りでは、ぎりぎりのところで優勝を避けるつもりはあるようだが……どうなることやらな)
これまでルーカスは、エルマの活躍が彼女の危機に繋がるときは、必死でそれを妨害してきた。
声も荒げたし、彼女に迫りもした。
だが今回、危機に瀕するのは、彼女の心だけ。
べつに彼女が、フェリクスと結ばれて問題ないと考えているようなら、ルーカスがすべきは静観することだけだ。
(一応、ほかの候補者を立てようとは目論んでいるようだが……)
果たして、それは上手くゆくのか、ゆかぬのか。
(一言でも助けを求められれば、必ず手を差し出すのが騎士というものだが――肝心の本人が助けを求めないでいるんだ。もう、知るものか)
人はそれを、やさぐれる、という。
なまじ色事に長けていたばかりに、初めての感情を持て余しつつ、ルーカスは二日目の今日も、むすっとした表情で立ち尽くしていたのであった。
(ああもう。ああもう、ああもう、ああああああもう!)
侍女としての所定の位置から、エルマとルーカスを見ていたイレーネは、無言で両手を髪に突っ込み、わなないた。
(殿下、なに無視を決め込んじゃってるんです!? エルマも、全然ノープロブレムって顔で、バルドくんの頬を
心境はまるで、好き合っている幼馴染同士を見守る母親だ。
ルーカスもそろそろ冷静になってくれるかと思っていたのに、すっかり拗ねてしまったのか、この事態を前にだんまりを決め込んでいる。
いや、イレーネの感覚としては、そんな彼を責めるのは難しい。
あんな露骨なアプローチを躱され続けたら、さすがに心も折れようものだ。
(こらエルマ! 今も、陛下の課題に、真っ先に応えに行こうとするんじゃないわよお!)
視線の先では、課題を告げられたエルマが、バルドをデボラに託し、躊躇いなく養護院へと足を向けている。
ほかの候補者たちは尻込みする者が大半なので、これは大きく一歩リードだ。
だが、それを防ぐように、肝の据わった二名の候補者が、後から走ってエルマを追い越す。
商家の娘に、カロリーネ。
どちらも玄関で身支度を済ませ――手袋まで持ち出したカロリーネは、やけに準備がいい――、果敢に養護院の中へと入っていったが、
「…………!」
「う…………っ」
二人が平静を保てたのは、そこまでだった。
なぜなら、建物の中の光景は、彼女たちの想像をあまりに超えるものだったからだ。
全身を爛れさせ、膿を噴き出した老人。
やせ細っているのに、奇妙に腹だけ膨れた子ども。
部屋のあちこちで吐瀉物と排泄物が広がり、その隙間に、病人たちが身を丸めて横たわっている。
冷え切った空気の中さえ、むわりと充満する臭気に、二人は無意識に後ずさった。
「ここは、元は流刑地に使用されていた村でねぇ」
逃げを打つ二人を封じるように、玄関口からのんびりとした口調のフェリクスが顔を出す。
彼は、強い香りのハーブを鼻に当てながら、淡々と説明を加えた。
「僕が即位してから、貧困と医療はかなり手厚く対策したつもりだけど、聖医導師も、食糧も、この場所に差し向けるのは最後になってしまった。困り果てた村民が、村の延命を図るため、尻尾を切り落とすようにして病人を集めたのが、ここだよ。まあでも、彼らの症状の原因は、寒さと飢え、そして不衛生さだ。
そこで、狐のような瞳が、細く笑みを描いた。
「ただ、君たちにはこの現状を解決してほしいと思ってる。……さあ、どうしよっか?」
二人は固唾を呑んだ。
取るべき模範的な行動はわかっている。
実際に、看病をすればよいのだ。
だが――自らの手で?
汚物に、あるいは膿にまみれた病人を?
ドレスの裾に、
「ひ、ひとまず、換気だけして……追って、十分な道具と資金を用意したうえで――」
「お取込み中失礼いたしますが、今、部屋の西側にいらっしゃる方々は、少し移動願えますか」
もごもご言いながら撤退しようとしたカロリーネたちを、涼やかな声が遮る。
遅れて建物に踏み入ってきた、エルマであった。
彼女は、清潔なエプロンで手を覆い、そっと病人を抱え上げると、器用に部屋の東側へと移動させた。
「ちょ……っ、ちょっとあなた……! エプロンに、その、かなり『汚れ』が付いていてよ!」
「よく平気な顔をしていられるわね……っ」
躊躇いもなく汚物の中に腕を突っ込むエルマに、ほかの候補者たちが絶叫する。
が、エルマは不思議そうに首を傾げるだけだった。
「そうですね。それがなにか?」
「なにかって……っ。あなた、嫌ではないの!?」
「嫌か好きかという問題ではございません。ただただ、大切な
「はっ!?」
戸惑う二人に、エルマは眼鏡越しでもそれとわかるドヤ顔で言い切った。
「
「…………?」
なにを言っているのかわからない。
固まる二人の前で、エルマは床の片隅に散らばるそれを観察し、重々しく頷いた。
「状態はCマイナスですが、量はよし。頑張りましたね」
「…………!?」
本当に、なにを言っているのかわからない。
たっぷり溜まった汚物に、なぜか微笑ましい表情で頷くエルマを見て、候補者たちは無意識に一歩後ろに退いた。
手ずから運ばれた病人たちも、信じられないものを前にしたような目つきで、じっとエルマを見つめている。
エルマは、どこからか取り出した石鹸と消毒液で丁寧に手を洗うと、無人となった部屋の片側、その窓付近に立った。
「それでは、まず部屋のこちら側の洗浄を開始いたします」
「洗浄……?」
周囲の人間が首を傾げる。
洗浄、という割に、モップの類はもちろん、水すら用意していなかったからだ。
だがエルマは、ただ静かに「窓の向こうにいらっしゃる方々は、ご移動願えますか」と声を掛ける。
なぜか、大きく口を開けた袋を窓に連結させると、部屋の中央まで戻り、こきっ、こきっと首を鳴らした。
そして、
――すっ
まるでダンスを始めるかのように両手を高らかに掲げ、片足を後ろに引くと、
「はっ!」
凄まじい勢いで、回転しはじめたのである!
「き、きゃああああああ!」
「うわああああああああ!」
巻き起こる風の激しさに、病人も含めた周囲が悲鳴を上げる。
しかし、その勢いとは裏腹に、風は彼らの方にはやって来ず、ただ窓の方へ、窓の方へと吹き込んでいた。
それに気付いた人々は、閉じていた瞼を恐る恐る持ち上げる。
そうして、息を呑んだ。
かつて、天才バイオリニスト・ヨーランをして、「物理的に神の息吹を感じさせる」と言わしめた、錐もみ回転。
それが、今部屋の片側にだけ風を巻き起こして、床に散らばるあらゆるものを吹き飛ばしている。
たとえば、吐瀉物。
たとえば、排泄物。
いや、その凄まじい遠心力は、ほこりやバクテリアですら逃しはしない。
窓に向かって、真っすぐにごみの虹がかかるのを、人々は奇跡に接したような表情で見守った。
「しかも、風で四方八方に撒き散らすのではなく、窓の外にだけ向けて、ごみを吹き飛ばす……まさに、ダイナミック高圧洗浄! さすがですわ、エルマエル様!」
「あんの……っ、おばか……!」
すっかり目にハートマークを浮かべたデボラは、戸口に齧りつきながら歓喜の声を上げる。
一方のイレーネは、その傍らで、わなわなと両手を震わせていた。
(なに、スイッチ入っちゃってるのよおおおおお……っ!)
数日とはいえ、最近のエルマを見ていた自分にはわかる。
あれは、育児モードに突入した状態だ。
つまり、理性も常識もかなぐり捨てて、全力投球している状態である。
叶うことなら、その胸倉を掴み上げて制止にかかりたかったが、錐もみエルマに近付けるだけのスキルを、残念ながら彼女は持ち合わせていなかった。
三分ほど経っただろうか。
「ごおおおおおお!」と、人ならざる回転音を紡いでいたエルマは、ふう、と息を吐いて停止する。
後に現れたのは、髪の毛一筋すら見当たらぬ、滑らかな石床であった。
「この建物が新築だった時ですら、床はこうも滑らかではなかったが……」
肌を爛れさせていた老人が呆然と呟く。
今や、暴風に表面を削られた石は、大理石のように光り輝いていた。
彼自身の肌からも、全身を覆っていた膿が、きれいに取り除かれている。
「ちょ、ちょっと、エルマ――」
「おっと、清掃にばかりかまけているわけにもいきませんね」
今こそとばかりに、イレーネが声を掛けるが、
「あ、あのぅ、どこへ……?」
「外で、麦と野菜を確保して参ります」
そして彼女は、おずおず問いかける病人たちを、淡々と困惑の渦へと叩き落とした。
麦と野菜。
たしかに養護院の裏手には、かつて畑であった空き地があったが、もはやそこに生えるのは雑草のみ。
しかも今は冬だ。
「はは……こんな養護院の畑が、ちゃんとしているとでも思ったのかねぇ、あのお嬢ちゃんは」
「野菜は一年中穫れる、と思いこむような、いいとこ育ちの嬢ちゃんなんだろうよ」
取り残された病人たちは、苦笑しつつそんな囁きを交わしていたが、イレーネにはわかった。
これは、
(私にはわかる……! あの子は、さらっと「裏庭になかったので、半マイル先の村まで行って穫ってきました」とか言っちゃう子だわ……! それも、十分以内とかで!)
きっと、裏庭にろくな作物がないと理解したエルマは、「無いならば、有るまで探そう、麦と野菜」とばかりに、今にも村に向かって爆走し――
「ただいま戻りました」
「はっや!」
その予想すら裏切って、籠いっぱいの野菜と麦を抱えて戻ってきたエルマに、イレーネ以下周囲は絶叫した。
「え!? え……っ!? いったいその野菜、どうやって……」
「裏庭に野菜が育っていなかったので、歌声で成長を促進して収穫してまいりました」
(「無いならば、
自分の想像以上に、エルマが「育成」方向に振り切っている事実に、イレーネは青褪めた。
「いや、歌でって、え……、歌で……?」
「はい。歌声による育成促進は、オーガニック栽培の
「無毒のものだけを対象に、って、え……!? どうやって……!?」
「周波数を調整しただけです」
愕然とする病人たちへの説明を、エルマはあっさりと強制終了させてしまう。
次に彼女は、麦と野菜を抱えたまま、台所――とは名ばかりの、壁で遮られた竈の跡地に向かった。
そして、
「お待たせいたしました」
「…………!?」
瞬きをした次の瞬間、くらいの体感時間で、ほかほかと湯気を立てる鍋を手に再登場した。
「全然待たされてませんけど!?」
病人たちの叫びが美しく唱和する。
異常事態の連続がそうさせるのか、それとも、鍋から漂う芳香と温もりがそうさせるのか、土気色だった彼らの顔には、徐々に血の気が滲みだしていた。
「ああん、エルマエル様ったら、素早すぎでいらっしゃる! 血沸き肉躍り肉汁飛ぶ、大胆な調理シーンを、わたくし、この目で拝見しとうございましたわ……!」
「申し訳ございません、デボラ様。たしかに、豪快に料理せよというのが【暴食】の父の教えだったのですが、バルたんの離乳食づくりが始まってからというもの、『うまい、はやい、静か』を調理のモットーとしておりまして」
それに、まだバルたんには肉類を食べさせはじめておりませんので……。などと、この場には激しく関係の無い情報も挟まる。
道理で、物音一つしなかったはずだ、と納得しかけて、イレーネはぷるぷると首を振った。
そんな場合ではない。
ばっと病人たちを振り返ってみれば、いつの間にか椀を手にした彼らは、恐々とその中身を覗き込んでいる。どうやら冬野菜の麦粥のようだ。
得体の知れなさはあれども、立ち上る芳香に負け、一人、また一人と匙を口に運び――
「か……っ、母ちゃあああああん!」
一斉に、
薄味ながら、野菜のふくよかな甘みを湛える出汁。
ほんのり効かせた塩味は、麦の旨みを引き出し、舌をけっして飽きさせない。
ここには優しさがある。
淡々と、けれど丁寧に紡がれてゆく日常の光景がある。
飢えと寒さ、そして病に冒されていた臓腑に、さりげなく染みわたってゆくその味わいは、まさに母の愛、そのものであった。
「俺……っ、俺……っ、なんか急に、母ちゃんが恋しく……っ」
「うまいよぉおお……っ。染みるよぉおお……っ」
「魂が浄化されそうな味わいだ……っ」
すすり泣きながら粥を食む病人たちは、実際、みるみる肌の色艶を取り戻してゆく。
膿で爛れていた老人の肌は、いよいよもって滑らかな皮膚へと転じていたし、痩せた少年の奇妙に膨らんだ腹は、人体本来のバランスに収まりつつあった。
魂が浄化というか、物理的に身体が浄化されているような光景である。
「エルマのお粥は
「またまた。このくらい普通ですよ。離乳食……じゃない、お粥というのは、臓腑に負担が少なく、栄養豊富なものなのですから」
エルマは「イレーネったら」みたいに微笑んで背中を叩くが、イレーネは「んなわけあるかあ!」と、裂帛の気合いでそれを振り払った。
育児漬け生活で諸スキルが鈍ってしまっただなんて、大嘘だ。
現に彼女は、離乳食作りスキルを極めるあまり、普通の食材からでも
(これなら、
ふと、戸口の向こうに視線をやってみれば、
「…………」
外に控えたルーカスは、無言で顔を背けている。
(ほらもおおおおおおお!)
イレーネは半泣きになって、エルマの肩をがくがく揺さぶった。
「どうするの!? どうするのよ、エルマ! このままじゃあなたが、二日目にして大勝利、ぶっちぎりのナンバーワンで一気に王妃よ! どうするの!?」
「そんな、わけが、ありま、せ……ちょ、イレーネ……、落ち着いて、あちらを、見て……」
「話を逸らしてるんじゃないわよ! この場にあなた以上に注目できる対象なんてありやしないわよ! ああもう――」
イレーネは衝動に任せて肩を揺すり続けたが、そのときふと、妙な気配を感じて後ろを振り返った。
見れば、エルマが「あちら」と指差したその先を、病人たちがじっと注目している。
部屋の西側――エルマがまだ「洗浄」を済ませていないはずのその場所には、一人の女性が疲れ切った様子で佇んでいた。
「こちら側も、掃除が完了しました」
訛りのないルーデン語で告げる異国の少女は――アナスタシア・ドン・ロドリゴであった。