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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「恋」は難しい

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10.「普通」の慈善活動(1)

「はーい。それじゃ、今日の会場は、こちらでーす」


 フェリクスの呑気な声を合図に、続々と馬車を降りてきた令嬢たちは、突き刺すような寒さ、そして目の前の光景に顔を強張らせた。


 選考会、二日目の朝。

 馬車に数時間揺られてやって来たその場所は、ルーデン北部の、辺境の村。その中でもさらに外れに位置する、養護院であった。


「なんですの、ここ……」

「こんな粗末な建物、見たことがありませんわ……」

「ひどいにおい……」


 今にも落ちそうな藁ぶきの屋根。腐った柱、穴の開いた壁。

 小さい窓はガラスの代わりに布で覆われ、防ぎようのない臭気が、内側から周囲へと立ち込める。


 箱入りの貴族令嬢が大半を占める候補者たちは、初めて目にする劣悪な環境に、それだけで顔色を悪くしていた。


「王妃ともなるとさー、城の奥で毎日お茶だけ飲んでいればいい、ってもんでもないじゃない? 醜い現実を、直視するだけでなく、対処しなくてはならない。そういうわけで、今日は、みんながどれくらいその覚悟があるかを、見極めたいと思いまーす」


 間延びした声で告げられた内容を、あえて訳すならこうだ。

 醜い現実に対処せよ――つまり、この養護院の者たちに、しかるべき対応を取れ。


「直視するだけでなく」とわざわざ言ったということは、単に見守るだとか、温かく励ましの言葉を掛ける、といった程度の対応は求められていないのだろう。

 たとえば、この汚れ切った病人の看病をしたり、虫の這う養護院の修繕を図ったり。そうした、現実的で具体的な行動を、フェリクスは求めているのだ。


 ここまでに残った候補者は、既にたったの十人。

 どれも皆、そうした意図を理解できる程度には優秀だ。そしてそれゆえに、己に強いられようとしている現実を前に、青褪めているのだった。


「陛下もなかなかえぐいお題を出すわね。ごもっともではあるけれど、貴族の娘には、この臭いだけでもうキツいわよ。実際に住んでいる方々には悪いけど……本当に、耐えがたい臭気だと思わない?」


 今回は観客としてではなく、王宮からの侍女の一人として付き添ってきたイレーネは、同じく横に控えるデボラに、こそこそと囁く。


 だが、


「え? エルマエル様が同一視界内にいらっしゃるというだけで、世界は光り輝き、芳しく香りますけどなにか」

「あなた脳内補完力高すぎでしょ!?」


 あっさりと裏切られ、思わず突っ込む羽目になった。

 だが、寒気もなんのその、豊満な胸をぶるんと張ったデボラは、我が意を得たり、とばかりに頷いた。


「要は、陛下の仰るとおり、覚悟の問題ですわ。心頭滅却すれば火もまたエルマ。意志を持って臨めば、これしきの悪環境は、ノープロブレムということです。見たところ、それくらいの気骨のある女性は、何人かいてよ」


 そんなまさか、と思うが、デボラが得意げに指差す先を辿れば、たしかに、背をしゃんと伸ばして養護院を見つめる候補者たちが数名いる。


 一人はもちろん、監獄育ちのエルマ。

 ほかには、多少下町にも免疫のありそうな商家の娘と、意外なところでは、伯爵令嬢のカロリーネ。

 かつて、舞踏会でエルマにめっためたに打ち負かされたダンス自慢の少女だ。

 彼女は相変わらずあまりよい評判は聞かないが、とにかく「エルマには負けたくない」との思いで、この場に踏みとどまっているようだった。

 その根性は褒められてしかるべきだろう。


(あと、もう一人……)


 そしてイレーネは、もう一人、目の前の光景に動揺を示さぬ候補者を発見した。

 アナスタシア・ドン・ロドリゴだ。

 昨日の一次戦を満点で突破した彼女は、どこか超然とした様子でその場に立っていた。

 吹きすさぶ寒風に首を竦めることもなく、涼しさを味わうかのように佇んでいる。


 さては、かなりの精神力の持ち主なのか。

 イレーネは怪訝な顔でアナを見つめたが、実際のところ、彼女の精神状態は「超然」とは少々異なるものだった。


(朝が……来た……)


 アナは、自分が今日もまた凄まじい修行を乗り越え、こうして朝を迎えられたことに、しみじみとした感慨を覚えていた。


(死ぬかと思った……。つーか、三回くらい死んだと思った……)


 思い返せば昨日の昼過ぎ。無理やり「神のダンス」――と周囲から絶賛された――を踊らされたアナは、当然その後エルマに猛然と抗議した。


 ところが、当のエルマはどこ吹く風。

 というより、純粋にきょとんとして「なぜ責められるのかわからない」と困惑の態だ。

 綿棒を壁にめり込む勢いで投擲することも、人体の限界を超えて人を踊らせることも、彼女からすれば「至って普通」と言わんばかりの態度であった。


 頭にきたアナは、語彙の限りにエルマを罵った。

 が、どんなに口汚く罵倒しようと、エルマの表情は小麦一粒分も揺るがない。

 それどころか、その暴言を糸口に、慣用句や外国語、歴史を仕込もうとする勤勉さだ。

 抵抗すると、脳の働きを活性化するとかいう怪しげな薬まで注射しようとしてきた。


 羽交い絞めにされていよいよ追い詰められたアナは、そこで叫んでしまったのだ。


『てめえ、ふざけんな! そ、そんな詰め込み教育、上手くいくもんか! そんな教育されるんじゃ、弟の未来も真っ暗だな!』


 バルドの話題に触れないほうがいいというのは、本能で理解していたはずだった。

 だがその時、まさに本能こそが、そこを刺激して難を逃れよと命じてきたのだ。


 そして、その効果は覿面てきめんだった。


『バルたんの未来が……真っ暗……?』


 エルマはさあっと顔色を失い、唇を震わせたのである。

 彼女は見ていて哀れになるくらいの勢いでその場に崩れ落ち、縋るようにアナを仰ぎ見た。


『お教えください、アナ様。私めの教育方針の、どのあたりがどうまずいのでしょう。私……っ、私はどうすれば……っ』

『ま……、まあ落ち着け』


 あまりの豹変ぶりに、ドン引きする。

 しかし同時に、アナは素早く打算を巡らせた。


 これはチャンスだ。

 今ここで、自分のほうが優位にあると相手に信じ込ませれば、この、頭のおかしい「修行」とやらから解放されるだろう。

 いや、そうでなければ自分の身が持たない。


 そこでアナは、いかにも平然を装って、自信たっぷりに言ってみせたのである。


『とにかく第一に重要なのは、相手の自主性を重んじることだ。相手の嫌がることは強要しない。これが基本。わかるか?』

『はい……っ』


 自信ありげな表情を作る。

 眉の角度、視線の位置、ごく微細な眼輪筋の動きまで意識して。

 エルマに仕込まれた微表情のスキルを、こんなにも完璧に実践できたのはこれが初めてだ。

 生命の危機に瀕して、幸か不幸か、己の実力がどんどん上がっているのを感じる。


 ただそこで、アナは完全な優位を求めるあまり、余計な一言を加えてしまった。


『まあ、あたしの言うことを聞いてりゃ、大丈夫だ。なにせ村にいたときは、六人姉弟の一番上だったんだからね。どの年齢のガキでも、コツはわかってる。一から教えてやるさ』

『アナ様……っ!』


 エルマは歓喜に身を震わせ――そこで一気に雲行きが怪しくなった。


『本当に、全面的に教えを乞うてよいのですね!?』

『ああ。女に二言はないさ』

『精神的教育方針についてだけでなく、育児シーンで発生する具体的な手法のあれこれも……!?』

『ああ。おむつ替えも寝かしつけも、ベビーサインもなんでもござれだ』

『アナ様……! では早速、おむつ替え百本ノックをお願い申し上げます!』

『ああ。……ああ?』


 耳慣れぬ単語に、アナは思わず眉を寄せた。


 百本ノック? おむつ替えで?


 だが、彼女が困惑する間にも、エルマはささっとベビーベッド周辺を整え、しゅぱっとバルドのおむつを替えてみせた。

 巻き起こる風が心地よいのか、赤子が眠ったまま、むふぅと笑う。


『このように、私のおむつ替えスキルはまだまだで……』

『いやどこが!? 残像しか見えなかったけど!?』

『いえ、これではまだ、バルたんにおむつを替えたことを気付かれてしまうのですよね。本当はもっと、この愛らしい寝顔を微動だにさせぬくらい、さりげなく替えたいのですが……』


 どうやら、エルマの目標は、一般よりはるか高みにあるらしい。

 言葉を失うアナに、エルマはおむつをぐいと突きつけ迫った。


『さあ、お願いです、アナ様。私めに稽古を付けてくださいませ。バルたんのためなら、たとえこの筋肉が弾け、皮膚が焼け切れても悔いはありませんから』

『おむつ替えでどんな修行を想定してんの!?』


 そうして、実際にはアナの筋肉が弾け、皮膚が焼け切れそうになるほどに、おむつ替え修行に巻き込まれたのである。


(途中から、「あらゆるコンディションの便に対応できねば」とか言い出して、あっちこっち突撃するし、かと思えば、高吸水性高分子ポリマーの開発を材料収集から始めて徹夜するし、寝かしつけにもばっちり付き合わされるし……)


 しかも、一応王妃教育の時間であるという認識は忘れていないらしく、時折思い出したように、アナにあらゆる知識を植え込んでゆくのだ。


『ちょ……待って、もうやめてくれ……っ。王妃の選考会に絶対必要ない知識だろ、これ……っ』

『またまた。ルーデンは大陸最大の国、つまりその王妃は大陸一の女性。その女性に、把握していない領域など、あっていいはずがございません』


 アナが悲鳴を上げても、エルマはにこやかに修行を進めるばかり。

 とうとう『もう無理! もう限界!』と逃げ出そうとすると、エルマは不思議そうに首を傾げ、こう告げるのだった。


『え……? この程度で……? そんなまさか。アナ様は、エスピアナの命運を背負って、陛下の暗殺を目論んでいたというのに、この程度で音を上げる、それくらいの覚悟と準備しかなさっていなかったのですか……?』

『…………っ』


 嫌味な口調だったら、いっそどんなにかよかっただろう。

 心底怪訝そうな、むしろ動揺を滲ませた呟きは、アナの自尊心をごりっと抉っていった。


(あたしは、ロドリゴ様が育てた一番優秀な養女、最高の刺客だっつーの……!)


 侯爵への恩に報いるため、彼女だって血を吐くような努力を重ねてここまで来たのだ。

 それを馬鹿にするのは、アナへの侮辱というだけでなく、彼女を育てたロドリゴ聖侯爵への愚弄にほかならない。

 侯爵の慈愛深さや、そんな彼に対する自分の忠誠心まで、一緒くたに否定されたように思えて、アナは気付けば怒鳴り返していた。


『あ˝あああああん!? 全然想定内だし。ロドリゴ様の屋敷で受けた修行のほうが、全っ然厳しかったし。今も、ほんとは超余裕だし!』

『ああ、よかった。さすがはアナ様。生まれ持った、そして鍛え抜かれた根性が段違いですね。では安心して、少しペースアップいたしましょう』

『え』


 カッとなって言った。

 今では後悔している。


 結局それが引き金となり、アナはそこからさらに三倍速で、すさまじいオムツ開発と、ついでに王妃教育に巻き込まれることになったのである。




 あの悪夢のような時間に比べれば、目の前の養護院など可愛いものだ。

 悪臭も、肌を刺す冷気も、ぼんやりした五感を現実に引き戻すには、ちょうどいい。


 無我の境地に佇む自分を、騎士の一人が怪訝そうに見てきたが、それを前に可憐な少女を演じるのも、もはや難しかった。

 というか、大事な任務のはずなのに、今この選考会自体が、激しくどうでもいい。


「はーい、それじゃあ、審査開始ー」


 だからアナは、フェリクスのその言葉を聞いたとき、のろのろと視線を動かし――視界に映ったものに対して、ただ本能的に動きを開始したのであった。

先ほど、シャバ難に関するお得すぎる情報を、活動報告にて告知させていただきました。

ぜひお目通しくださいませー!

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