その後、日本を訪れて取材を進めるに従い、私の心はまたしても揺れ動いた。脚本家・橋田壽賀子氏の「安楽死宣言」以降、NHKや雑誌などがこぞって、この問題を特集していた。
結論から言えば、日本人に安楽死という選択が受け入れられるとは考えづらかった。「個人の権利」という概念がこの国にはないからだ。
日本でも、「安楽死事件」と称される出来事は、何度か起きている。しかし、そのどれもが、臨死期(既に、患者は意識もなく、死を待つだけの状態)に、患者の意思が示されないまま、医師が独断で施した処置である。これを安楽死と呼んで良いのか分からない。
果たして「本人の意思」を理由に、安楽死を願う日本人はいるのだろうか。人間の最期を、個人の観点から主張することが不得手に思える。日本取材で出会った、安楽死を希望するという、ある30代女性の言葉が強く印象に残っている。
「周りに迷惑をかけたくないので・・・(安楽死したい)」
彼女は、私がお世話になったスイスの安楽死団体に登録していた。登録しているからといって、死が迫っているわけではない。彼女が死を願うのは、精神疾患が理由だった(ベルギーなど一部の国では、精神疾患も安楽死の要件になりうる)。
周囲を気にかけるあまり、彼女は死にたいと口にする。この一言が、人の死生観にまで「個人」ではなく、「集団」が影響する証左に思えた。そういえば、橋田壽賀子氏も、「人に迷惑をかける前に死にたいと思ったら、安楽死しかありません」と自著で述べている。
日本で安楽死が議論される際に、「迷惑」は、一つのキーワードになりそうだった。しかし、それは、死の自己決定(死期は個人が決めるもの)を巡って安楽死を議論してきた欧米の歴史とは大きく異なる。
私は、個人的にこうした日本の死生観を否定しているのではもちろんない。23年間、欧米で生活してきた私には、日本人に繋がりや温もりを感じる。つまり、死は自分だけのものではなく、家族や友人を含む周囲の死でもあるという意識だ。
周りの支えがあって、生かされている。こうした関係が成り立っている限り、この国で安楽死は必要ない。そう思わずにいられなかった。
もし、昨今、日本に安楽死容認を求める声が高まっているとすれば、そうした繋がりが希薄になっているということなのかもしれない。
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