7.「普通」の余興(2)
ルーデンではおよそ数十年ぶりとなる王妃選考会。
その初日は、冬ながら麗らかな日差しが降り注ぐ好天であった。
「これぞ満員御礼、ってね……」
観客席の一つに腰を下ろしたイレーネは、呟きながら周囲を見回す。
今彼女たちがいるのは、王宮の外れにある屋外演劇場だった。
大人数を受け入れられるよう設計されていたが、すぐ隣に設置された鐘楼の音があまりにうるさいため、常時は夜にしか使われない。
だが、今回については収容人数のほうを優先したのだろう。
久々に昼時開放された演劇場に、人々はわくわくしながら詰めかけていた。
演劇場は正円形をしていて、中央の舞台を見下ろすように、すり鉢状に客席が設けられている。
舞台に近い方に座るのは、当然ながら候補者たちの親類や、各国要人。中ほどには物見高い貴族たち。
そして、だいぶ舞台から離れた場所ではあるが、外周には、市民や王城の使用人たちも参加を許されている。
イレーネは侍女としての業務の合間を縫い、なんとか席を確保したのであった。
「飲食物の売り子も立っているし、パンフレット販売や、賭けまで公認されているなんて……。開かれた王室、といえば聞こえはいいけど、これでは単なる見世物じゃないの。陛下は、ご自身の王妃選考会を、なんだと思っているのかしら」
座った途端、方々から掛けられる売り子の声に、イレーネは眉を寄せる。
まったく、王城内とは思えぬ俗っぽさだ。
いや、以前のイレーネなら、間違いなく胸を躍らせて、パンフレットを読み込んで赤ペンで丸を付けたりしていただろう。
だが、親友がうっかり活躍してしまってはと思うと、呑気に勝ち馬予想などしていられない。
どうもエルマと出会ってからというもの、この手の心配事が増えた気がする。
隣席の客が手にしたパンフレットで、エルマの名前の上に「一番人気!」とコメントが入っているのに気付いて、イレーネはつい顔を顰めてしまった。
選考会では、観衆からの声援も票としてカウントすると聞く。
これまでの大活躍で、使用人たちの間はもちろん、城外でも人気を博しているエルマ。
彼らの応援が、エルマの立后を後押ししてしまったらどうなるか。
王妃なんて、偏屈な上位貴族たちが、密室で上位貴族令嬢を指名してくれたら、その方がよかったのに。
「絶対、活躍なんかしないでよね、エルマ……」
「ああん、エルマエル様の大活躍が楽しみですわぁん」
と、斜め後ろの席から楽しげな声がかぶさった。
ばっと振り向いてみれば、そこにいたのは、うきうきとパンフレットを見つめるデボラである。
彼女は額にハチマキを締め、両手には「エルマエル様」とデコレーションされた団扇を掲げ持ち、両隣の人物まで巻き込んで垂れ幕を掲げさせるという、完全応援態勢であった。
「ちょ……っ! なにやってるのよ!?」
「なにって、もちろんエルマエル様の応援ですわ。はい、プラカード」
「いらんわ!」
イレーネは即座に断ると、ぎっと相手を睨み付けた。
「ちょっとデボラ、あなた、本気でエルマを応援しようというの? 万が一あの子が、本当に立后してしまったらどうするのよ!」
「それもまたよしですわ」
デボラはハチマキの角度を確かめながら、ふふんと言い切った。
「わたくしは、エルマエル様が魔王だろうが聖女だろうが、変わらず忠誠を誓う用意がございますもの。たかだか人間の王の妻に収まるくらい、なんだというの? あなたはルーカス殿下に義理立てているようだけれど、エルマエル様のお心を振り向かせられぬ男など、しょせん気に掛ける価値もございませんわ」
エルマ第一主義を掲げる彼女は、揺るぎない。
イレーネは思わず圧倒され、視線をさまよわせた。
貴族と市民、外国人も入り混じった会場では、精鋭の騎士団が警護に当たる。
舞台から顔を背けるように、無表情で舞台袖に佇むルーカスの姿を見つけ、イレーネは、悔しそうに眉を寄せた。
「だって……。こんなの、おかしいわよ」
ルーカスは、エルマが城に来たその時から一緒にいたのだ。
エルマを城に引き入れたのも、無双をやらかすたびに尻拭いに奔走したのも、無茶苦茶な王命を共にこなしたのも、すべて彼。
イレーネにとって、ルーカスはいつもエルマの傍にいなくてはいけない存在だった。
「エルマが大ボケをかまして、殿下と私でツッコんで……それでようやくワンセットなのよ。傍に殿下がいないエルマなんて、リバ並みにおかしいでしょ。ありえないでしょ、不自然でしょ、ナシ寄りのナシなのよ!」
「わたくしはリバ許容の人間なので、その主張はわかりかねますわぁ」
しれっと言い切るデボラに、二人の間の空気は一気に険悪なものになる。
突然高まる緊張感に、周囲の客はごくりと喉を鳴らした。
両者の主張を一番わかりかねているのは彼らだ。
硬直する周囲をよそに、デボラは悠然と、舞台の方を指差した。
「だって、ご覧になって。エルマエル様は、ルーカス殿下が不機嫌な様子に気付いても、まるで動じていなくてよ。それがつまり、エルマエル様のお心ということ。そうでしょう?」
指が指し示す先では、今、ぞろぞろと候補者たちが舞台に昇りはじめている。
最後尾に立ったエルマは、当然袖に佇むルーカスに気付き、目礼を寄越したが、すげなく無視されていた。
エルマはしばし、ルーカスのことを見つめる。
が、やがて何ごともなかったかのように、抱っこしていたバルトに視線を落とすと、ぷにぷにと愛おしげに頬を
「ぷにぷにしてんじゃないわよ……! というか、選考会の場で、堂々と赤ちゃん抱っこしてんじゃないわよ……!」
イレーネはつい天を仰いだ。
エルマときたら、女性の頂点を競うこの場にあっても、いつものメイド服にお団子眼鏡姿だ。
それ以上に、子連れという点で異色すぎである。
いや、だが逆に、子連れスタイルが原因で、選考会の候補からいち早く脱落するかもしれない。
イレーネはそう心を奮い立たせたが、しかしその希望は、次のデボラの言葉によって打ち砕かれた。
「ああ……っ、見える……っ。わたくしには見えますわ、今のエルマエル様から放たれる、まるで聖母のような慈愛の光が……っ!」
むしろ、抱っこしたバルトに向かって微笑む姿が、この上なく神々しく、目立って見えるのである。
「おい見ろよ。眼鏡越しですらわかる、あの母性の輝き……あれは彼女の子どもか……?」
「年の離れた弟らしいぜ。でももうそんなのどうでもいい……ひたすら光景が尊い……」
「国母感、ある……」
「彼女の赤ちゃんに生まれたいだけの人生だった……」
優しく額を撫でる掌、時々いたずらっぽく頬を突く指先。
どこまでも優しく弧を描く口元は、見る者の心をたちまち解してしまう。
十六歳独身でありながら、既に圧倒的母性を放つエルマに、観客たちは開会前から釘付けになった。
王妃というのが、「国の母」の地位を指すのであれば、もう彼女でいいのではないか。
そんな先走った雰囲気すら漂いかける。
イレーネはわなわなと震えた。
「あんっのばか……っ、半年でどこまで母性レベルを上げているのよ……っ」
「聖母レベルまでですわねぇ……」
うっとりとしたデボラの相槌に、絶望しそうになる。
(やっぱりだめよ、こんなの……っ)
やはり、この状況にはルーカスがいないとダメなのだ。
彼が一緒に突っ込んでくれないと、到底御しきれない。
エルマはすさまじい速度で墓穴を掘り続けるだろうし、イレーネはストレスのゲージを振り切るだろう。
きっと選考会が終わる三日後には、エルマは見事王妃だ。
イレーネは恐ろしさに目を潤ませ、階下の二人を睨み付けた。
エルマもルーカスも、今や互いに背を向け、完全に無視を決め込んでいるように見える。
(二人とも……っ、そんな意地を張っている場合じゃないでしょう!?)
歌に踊りに女の手習い。エルマと言えば余興の申し子だ。
そんな彼女が、活躍をせずに普通のレベルに徹することなど、到底不可能だろうに。
「んもう、見てられない……!」
「あっ、イレーネさん、どこへ……?」
イレーネは席を蹴るようにして立ち上がると、舞台袖へと走り出した。
***
「本日はお日柄もよろしく、大勢に集まってもらって僕は幸せ者です。どうもどうも。あー、それでは、寒い中長い前置きもなんなんで、選考会を始めます。初日の今日は、各自これぞという一芸を披露してもらおうと思います。やはり僕としては、妻となる女性には、人の心を打つ特技を持っていてほしいのでー」
舞台では、フェリクスによる、やる気皆無の開会宣言を経て、いよいよ選考会が始まっていた。
五十人近く集まった候補者たちは、名前を呼ばれると同時に、一人ずつ袖から舞台に上がってくる。
候補者紹介と一芸披露を、一度で済ませてしまおうということらしい。
上は小国の王女から、下は豪商の娘、いや、王宮侍女まで。
身分も国籍も異なる妙齢の美女たちが、次々と芸を披露してゆく様は、圧巻の一言であった。
『あのお姫様の歌唱力、やべえな……歌でぐっときたなんて、初めてだ……。二つ前の伯爵令嬢のダンスなんて、もはや物語を感じるし、豪商の娘の金塊重さ当てはいかにも実利的だし……』
舞台袖で順番を待つアナは、すっかり圧倒されてしまっている。
いくら自負心が強いとはいえ、辺境の流刑地、その後は俗世と隔離された聖堂で育った彼女だ。
王都最高水準の芸術や、見たこともないスキルに、ただ驚いてしまったのであった。
王と貴族、平民代表から成る審査員が、高得点の札を掲げるたびに、彼女は唸り声を上げてそれに見入っていた。
が、その隣に座すエルマは、泰然の構えを揺るがせもしない。
代わりに、腕の中で「あぅー」と話すバルトのことを優しく揺すると、穏やかに話しかけた。
『ご心配には及びません。たしかに皆さま優れた芸をお持ちでいらっしゃいますが、アナ様の披露されるダンスは、世界一。ついでに、バルたんの笑顔は宇宙一です』
『そんなこと言って……。それに、なんかやたら、ダンスの候補者が多いぞ。突風が巻き起こるような、見たこともないステップが混ざってるし……まさかルーデンが、こんなダンス大国だったなんて』
『ああ、なぜだか一年ほど前からブームなのだそうです』
かつてクレメンスを捕縛した際、エルマが披露した錐もみ回転に触発され、また、ダンスが得意なカロリーネ伯爵令嬢が奮起したことで、ルーデンの社交ダンスが革命期に差し掛かっていることを、本人は知らない。
困惑に眉を寄せるアナに、エルマは優しく笑いかけた。
『大丈夫。証拠に、ご覧ください。バルたんだって先ほどから、「自信を持ちたまえアナスタシア。魂を突き動かす情動をただ溢れさせればいい。君の心臓の内側で光り輝く星だけを見つめるんだ」と――』
『そいつそんなこと言ってんの!?』
『――と、今にも言い出しそうな、包容力溢れる眼差しで、アナ様を見つめているではありませんか』
『なんの励ましにもならねえ!』
あまりの超解釈に、アナは両手を髪に突っ込んだ。
荒れた口調は、不安の表れだ。
『なあ、あんた、ほんとに、あたしを勝たせるつもりはあるのかよ? 五十人のうち、少なくとも上位十人には残らなきゃいけないんだぞ?』
結局この二日間、エルマがアナに施した指導とは、柔軟体操や筋力トレーニング、瞑想にヨガに緊張緩和訓練、奇襲体験といったものだ。
前半はともかく、最後はまったくダンスに関係ない。
エルマの迫力に圧されて、つい従ってしまったが、自分はこの二日をフイにしてしまったのではないかと、焦りは募る。
「エルマ!」
切羽詰まった声が掛かったのは、そんな時だった。
人をかき分けるようにして、控えの舞台袖にやって来たのは、イレーネであった。
「エルマ、今からでも考え直して。歌か踊りか手芸か手術か知らないけれど、あなたの披露する芸が、『普通』の域に収まるはずなんてないじゃない。あなたがぶっちぎりで、オール10の評価を叩き出す未来が目に見えるようだわ」
どうやら、最後の説得にやって来たらしい。
そこまで言うということは、さてはこのエルマなる少女は、そこそこ有能な人物なのだろうか。
アナが無言でやり取りを見守っていると、エルマは淡々と答えた。
「ご心配には及びません。なにしろこの半年というもの育児漬けで、諸スキルがかなり鈍ってしまっているのです。私は歌を披露するつもりですが、半年前より、レベルは格段に落ちているかと」
自信ありげな様子に、イレーネもわずかに落ち着きを取り戻す。
そうか、エルマには半年のハンデがある。
それに、いくら卓越した歌とはいえ、王宮に近い人間は、エルマの評判を耳にしているのだから、そのレベルの高さは織り込み済みのはずだ。
ハードルはかなり上がっているだろう。
「し……信じていいのね?」
「もちろん。私は、私の歌を必ず『普通』と思わせてみせます」
エルマがきっぱりと言い切ったその時、ちょうど彼女の名が呼ばれた。
出番だ。
相変わらずバルトを抱っこしたまま、静かに舞台へと向かうエルマを、イレーネは両手を組んで、そしてアナは腕を組んで見守った。
「エントリーナンバー22、エルマ。歌を歌います」
中央まで歩みを進めると、エルマは優雅に一礼し、告げる。
彼女の多才ぶりは有名だ。
観客はどよめき、期待に目を輝かせて舞台を見つめた。
かつてフレンツェルで披露したという、魔すら従える魅惑の歌声か。
それとも、まぐろを捌きくじらを操る彼女に相応しく、奇抜で豪快な詠唱か。
とんでもなく華々しいなにかを予想して、観客はわくわくと拳をにぎる。
しかし、
――……ラララ……
深呼吸の後、彼らの耳に届いたのは、か細く繊細な、鼻歌のような声だった。
――ねんねん おやすみ おやすみ バルたん
あなたの ねがおは うちゅういち だお
技巧も凝らさぬ、ただただ静かな歌。
そう――子守歌である。
「王妃選考会の場で子守歌というこのチョイス……!」
「しかも歌詞の文尾が気になる……?」
観客たちは戸惑った。
前評判から期待していた、激しく心を揺さぶる歌声ではまったくない。
だが、
「……あれ……? なんだか……」
「すごく落ち着く……」
「なんだろう、……急に、眠く……」
不思議なことに、旋律を耳にした途端、観客たちは、心拍がすぅ……と落ち着くような感覚を抱いた。
エルマの腕の中にいるバルトと同様、ゆっくりゆっくり、瞼が下りてゆく。
いや、人間の観客だけではない。
「ピールルルル……ル……」
「クルルル……ル……」
頭上を舞っていた鳥や、客席の足元に蹲っていたペットまでもが、次々と落下し、あるいは寝息を立てはじめるではないか。
心なしか、周囲の樹々までもが枝を緩ませている。
見る間に、エルマを中心として、ぐったりと俯く集団ができあがっていた。
「たしかに歌としての技巧レベルは下がっているかもしれないけど……妙な方向にスキルアップしてるじゃないのよおおおお!」
半年かけて磨き上げた子守歌は、もはや聖女が紡ぐ
むしろ、芸術という枠を逸脱し、聖術の域に進化してしまった歌声を前に、イレーネは膝から崩れ落ちた。