3.「普通」の職場復帰(3)
「信じられない!」
侍女寮、エルマの自室へと続く夜の廊下に、イレーネの憤慨の声が響いた。
「いくらなんでも今回のは、エルマ、あなたが軽率だわ。殿下はあなたを心配しているっていうことくらいは、さすがに理解できるでしょう?」
皆が寝静まっている時間帯、しかも友人の腕の中には赤子がいるとあって、その声量は控えめだ。
本当は、「エルマのことが好きだから、嫉妬と心配で怒っているのだ」くらい指摘してやりたいのだが、ルーカス本人を差し置いてそれを告げるのも躊躇われ、こんな言い方に留まっている。
「実際陛下と夜を共にしてしまうかどうか、そういう問題じゃないのよ。あなたの純潔が、社会的に失われるというそのことが問題なの」
「お静かに。バルたんがレム睡眠に移行しつつあります。彼の安眠を妨げてまでするほどの問題でもありません。陛下の性格的に、おそらく枕問いなどしないでしょうし」
が、エルマはそれに頓着せず、ただ弟の頬を優しくつつくだけだった。
感触を気に入ったようである。
イレーネはますます眉根を寄せた。
「大問題よ。枕問いが無いにしても、まかり間違って本当に王妃に選ばれてしまったらどうするの?」
「最終選考まで残る正式な候補者は、美姫中の美姫、才媛中の才媛のはずです。そのお方に負ければよいだけですから、そう難しいことでは――」
「あなたが、そんな普通のレベルに徹することができるわけないでしょ!?」
これまで、数々のエルマ無双を見てきたイレーネは、裂帛の気合いで突っ込んだ。
「たしかに、普通のおつもりで、数々の奇跡を生み出す……それがエルマエル様の真髄ではありますわね……」
大人しく聞いていたデボラさえ、エルマを褒めつつもそこは認めるようだ。
苛立ちや心配の表情を浮かべた友人たちに、しかし、エルマはきりりとした声で応じた。
「お二人とも、そこまでご心配なさらないでください」
「え……?」
「シャバでの一年の経験に、イレーネからの教本……。それらを糧に、私は成長しました。これでも、いろいろ考えているのですよ。大丈夫、私に策がございます」
エルマなりの考えに、策。
どうにも不安要素しかない。
大丈夫と言われるほどに不安に駆られるイレーネたちの前で、エルマは、弟の柔らかな頬から指を離し、ぴたりと立ち止まった。
「思い返せば半年前」
彼女は窓を向き、そこから見える建物をじっと見つめた。
迎賓館。
各国から集まった優秀な候補者たちが寝泊まりする、その場所を。
「母の出産に伴う一件で、私は既に学びました。『普通』とは、絶対のようでいてひどく曖昧なもの。私が皆さまの『普通』に合わせるのではなく……私の『普通』を、皆さまの『普通』にしてしまえばよいのだと」
「…………は?」
ぽかんとする友人たちに、エルマはくるりと向き直った。
「つまり、私の『普通』のレベルを、他の候補者さま方に上回っていただく。そのように私が、
「は!?」
「なに、育児の延長と思えばなんら問題ございません。まずは
――ばっ!
言うが早いか、エルマはバルドを腕に抱いたまま、ひらりと窓から飛び降りる。
「ちょ……っ! ここ、四階いいいいいい!」
「なにをぼさっとしていますの。走って追いかければ済む話でしょう。行きますわよ!」
ぎょっとするイレーネをよそに、デボラは呆れたように鼻を鳴らす。
「ほらーっ、早くなさーい!」
そして次の瞬間には、デボラもまた地上の人となって、四階の窓辺に佇んだままのイレーネのことを見上げていた。
「え!? ちょ、え!? い、いつの間に!? というかどうやって!?」
「階段を駆け下りたに決まってますわー! ほらーっ、イレーネさんも、はー、やー、くー!」
両手で口を囲って、デボラが叫ぶ。
その間にも、エルマは地上を爆走していた。
いや、宵闇に紛れてよく見えないのだが、庭園の樹木が、迎賓館へと続く直線の形でザザザザッ! と揺れている。
迎賓館で寝泊まりする候補者たちを電撃訪問、あるいはこっそりと視察するつもりなのだろう。
「ちょっと……もう……! もおおおお……!」
しばしの葛藤の後、結局イレーネは、普通の脚力しか持たぬ自分を呪いながら、急いで階段を駆け下り始めた。
***
それから何時間経ったろうか。
窓越しに見える空が白みはじめているのに気付いて、イレーネは死んだ魚のような瞳になった。
「エルマ……もういいでしょ。もうすぐ朝の鐘が鳴るわよ。あなたのお眼鏡に叶う候補者なんて、いないわよぉ……」
「諦めたらそこで試合終了ですよ、イレーネ。ルーデンの威信にかけて、今ここには大陸中で選りすぐりの女性が集まっているのです。であれば必ず、これぞと思う候補者の一人や二人、いるはず」
廊下からこそこそと話しかけるイレーネとは対照的に、エルマは堂々と、眠る候補者の部屋に踏み入っている。
バルドの抱っこをイレーネとデボラに任せた彼女は、手袋で腕を覆い、髪をまとめ上げ、証拠を残さぬように部屋を動き回っていた。
まさに手練れの空き巣か、強盗のようだ。
「ふむ。この方も、残念ながら体力と柔軟性に難があるようですね。はい、体勢を戻して結構ですよ」
ぱちん、と指を鳴らすと、寝台の上で眠ったまま前屈をさせられていた姫君が、ぱたりと元の姿勢に倒れ込む。
どうやら、今のエルマは洗脳犯でもあるようだ。
姫君の寝息はどこまでも健やかで、身じろぎひとつしなかった。
エルマは廊下に戻りながら、ばつが悪そうに肩を竦めた。
「……とはいえ、ここまで教え子候補が見つからないのは予想外でした。まさかこれほど、候補者の皆さまが
「いやだから、普通の淑女教育だってば」
イレーネは半眼で突っ込んだが、デボラは、
「本当ですわね。エルマエル様がご降臨の際には、その五分前から
などと、バルドを抱っこしたまま妙な観点から憤慨している。
イレーネは思わずこめかみを押さえた。
「だったらもう、デボラがエルマの教えを受けて、王妃になったらいいじゃないの……」
「ほほほ、ご自分にブーメランしそうな発言は控えた方がよいですわよ、イレーネさん」
笑顔でやり返すデボラからバルドを受け取り、エルマは沈鬱な面持ちで溜息を吐いた。
「それにしても、この状況はどうしたものか……。皆さまお美しく、聡明な方々とお見受けしましたが、惜しむらくは体力や緊張感、そして根性に欠けるご様子。もっとこう……、飢えた狼のように貪欲で、雑草のように逞しく、相応の警戒心とガッツを持ち、暗器の一つや二つ扱えるような方というのは、いらっしゃらないでしょうか」
「いるわけないでしょ!? 王妃候補になにを求めてるのよ!」
イレーネは思わず絶叫してしまう。
そして、前方に見える扉の一つを指差した。
「いい? 残るのはもう一人だけ。社交界すら経験したことのないだろう、辺境弱小国の姫君よ。その方を『視察』したら、さっさとこの場を離れましょ。一刻も早く陛下に会って、任務から外してもらうようお願いするのよ」
同時に、心の中では、すやすやと眠り続けるバルドに「どうかそろそろ泣いて起きてくれ」と念を飛ばす。
赤子は泣いて大人を困らせるのが仕事だというのに、この子ときたら、抱っこで寝たまま起きやしないのだ。
いい子か。いい子だ。
だが、おかげでエルマの暴走が一向に中断されない。
もうここまで来たら、あともう一人くらい変わるものか、と、イレーネがやさぐれた時、しかし異変が起こった。
「……おや」
バルドを抱っこしたままドアに近付いたエルマが、なにかに気付いたように首を傾げたのだ。
「こちらの姫君は、起きていらっしゃいますね」
イレーネとデボラは顔を見合わせた。
まだ朝陽も登り切らぬ時分。
ずいぶん早起きな貴族令嬢もいたものだ。
「失礼いたします。アナスタシア・ドン・ロドリゴ様はご在室でしょうか」
「……はい」
忍び込むのを止め、ノックして声を掛けると、可憐な少女が扉を開ける。
子犬のようにつぶらな瞳と、北国を思わせる白い肌が特徴的な、利発そうな娘だった。
エルマは素早く相手を観察し、満足げに頷くと、短いやり取りの後唐突に切り出した。
「ルーデン王妃の座に、ご興味はございませんか?」
と。
「は……? それは、……ええ、まあ、もちろん、興味はございますが……」
アナスタシアは曖昧に頷く。
質問の意図を測りかねているのだろう。
それ以上に、侍女が子連れであることに怪訝さを隠せぬようで、ちらちらとバルドに視線を走らせている。
お手本のような「戸惑い」の仕草。
動揺を抑えるように、さりげなく耳に髪をかけた手の動きを見て、エルマは満足そうに眼鏡を光らせた。
「なるほど、初手はそこからなのですね。武器の配置にも身体の動きにも、鍛え抜かれたゆえの哲学を感じます。素晴らしい」
「……はい?」
「白を切る演技もお見事。表情筋の操作は未熟ですが、顔の筋肉含め、身体全体をよく鍛えているようなので、大丈夫。すぐに上達しますね」
警戒も露わに一歩身を引いたアナスタシアを前に、エルマは同僚たちに再びバルドを預け、くいと眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なにより、怪しげな人物に遭ったらまず手持ちの武器の確認、というその警戒心。実に素晴らしゅうございます」
――ばっ!
同時に、まるで低年齢男子が悪戯をするように、アナスタシアのドレスの裾を勢いよくめくり上げる。
『き……きゃあっ!』
巻き起こったすさまじい風に、アナスタシアがつい母国語で悲鳴を上げた次の瞬間には、
――ばららららら!
軽やかな音を立てて、床に危険物の小山が出現した。
『な……っ』
「指輪には毒針、ネックレストップの中には暗示の香。ドレスの中には暗器各種――そして、ピアスに仕込んだ自白剤で、まずは軽いジャブを狙った、といったところですか」
『…………!』
淡々と指摘されて、アナスタシアが顔色を失う。
じり、と距離を取りはじめた彼女を、イレーネは震える手で指差した。
「な……っ、なな、なんでその子、剣とか鈍器とか怪しげな瓶とかを大量に隠し持っているの!? まさか、刺客!? フェリクス陛下を狙って!?」
「え?」
振り返ったエルマは、一拍ぶんの間を置くと、ふるふると首を振った。
「あー、……いえほら、このくらい、護身用として普通誰でも持ち歩くではありませんか」
「そんなわけないでしょ!?」
どうやらエルマは、アナスタシアなる少女の正体について誤魔化したいようだが、そう何人も暗器を持ち歩く一般人がいるはずもない。
「今すぐ騎士団に突き出すわよ! エルマ! 後ろに庇ったその子、拘束してこっちに引き渡しなさい」
「ええー……」
「ええー、じゃないわよ! 暗殺者を王妃に仕立て上げようだなんて、ありえないわ。いくら他に候補がいないからって、ダメなものはダメ!」
イレーネが叱りつけると、エルマは「そんなに大声を上げるとバルたんが……」と焦ったように身を乗り出す。
そしてその隙に、じりじりと距離を測っていたアナスタシアが、ばっと身を翻した。
窓から逃亡するのかと思いきや、彼女はエルマから十分な距離を取りながら、大きく口を開く。
「いけませんわ! 彼女、舌を――」
意図を察したデボラが叫ぶが、結局のところ、アナスタシアが己の舌を噛み切ることはなかった。
なぜならば、
――しゅっ!
『ふぐっ!?』
一瞬だけ開いた口に、残像しか見えない速さで飛んできた「なにか」が差し込まれたからである。
『ほ……っ、ほれは……!?』
『バルたんの歯固めのために東大陸から取り寄せた、