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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「恋」は難しい

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2.「普通」の職場復帰(2)

 付き添いを申し出たデボラとイレーネ、眠ったままのバルド、そしてエルマ。

 四人で訪れたフェリクスの私室は、半年前と全く変わらず書類で埋もれていた。


「やー、エルマ。元気? 夜にごめんねー、でも今日には頼んでおかないとまずい案件だったからさー」


 そして書類の山に足を投げ出しながら、だらしなくソファから手を振るフェリクス本人もまた、半年前と全く変わっていなかった。

 話しぶりまで、つい昨日別れたばかりのようだ。


 共に現れたイレーネとデボラについても、既に仕事を振ったことがあるからだろう、「やあ、君たちも来たの?」と軽く受け流すと、彼はバルドに気付き、目を瞬かせた。


「お、君がバルド君だね。おーいバルド君、僕のこと、覚えてるかなー?」


 フェリクスは立ち上がり、しげしげと寝顔を覗き込む。

 バルドが、想像していたような絶世の美乳児でもなければ、五十か国語を話しだしたり、牛をんだり覚醒したりするわけでもないと見ると、ことりと首を傾げた。


「ふーん、意外に普通な感じなんだね」

「ええ、圧倒的きゃわゆさを持ちながらも、この年で既に『普通』を体得している、天が地上に与えたもうた奇跡のような存在です」

「顔もありきたりっていうか」

「そう、普遍性を感じさせる顔立ちですよね。つまり真実の顔立ちということです」

「それに、寝てるだけなんだね。エルマの弟なら、もう歩いたり走ったり飛んだりしてるかと思ってたのに」

「まさに。動かざること山のごとしと言うのでしょうか。俗世の卑小なる出来事には目もくれず、泰然と構えてみせる器の大きさに痺れますよね」


 なかなかの暴言を吐かれているというのに、エルマはダイナミックにポジティブ変換し、いかんなく姉馬鹿を発揮している。

 フェリクスは早々に興味を失ってしまったらしい。

 処置なし、というように両手を上げ、「で」と、おもむろにエルマに向き直った。


「不躾だけど、君、今妊娠の可能性はある? ないよね?」

「は?」


 突然の質問に、エルマはきょとんと目を見開く。

 同時に、そのあまりの非礼さに、背後で控えていたイレーネとデボラが一斉に顔色を変えた。


「いきなり、なんてことをお聞きになるのですか、陛下!」

「いくら陛下といえど、あまりに無礼ですわ!」


 だが、フェリクスは「ごめんごめん」と緩く笑うばかりで、まったく取り合わない。


「だって、どうしても確認しておかなきゃいけなかったからさー。なにせ、今回の仕事っていうのは――」

「義兄上!」


 ――バンッ!


 重厚な扉が乱暴に開かれたのは、その瞬間だった。


「これはいったいどういうことです!」


 息を荒らげながら踏み込んできたのは、豊かな黒髪に、甘さを含んだ藍色の瞳を持った、精悍な青年、ルーカスである。


 彼は珍しく、正式な騎士服をまとい、黒いマントまで身に付けていた。

 たった今駆けつけてきたのか、肩口にはいまだ粉雪が残っている。

 嵌めたままの手袋は、封蝋の施された手紙を強く握りしめていた。


「悪ふざけだとしたら、性質たちが悪いにもほどが――、……エルマ!」


 と、声を荒らげていた彼が、ふとエルマの姿を捉える。

 久々の再会に喜色を浮かべるかと思いきや、彼は険しい表情になってつかつかと近付き、エルマの顎を覗き込んだ。


「おまえ、今回の任務内容を知っていてなお戻ってきたのか!?」

「いえあの、殿下、距離が少々……。具体的には、バルたんを押しつぶさずに済む程度に離れていただけますと大変――」

「任務内容を知っているのかと聞いている!」

「今まさに知ろうとしているところです」


 あまりの剣幕に、エルマは思わずバルドを抱え直す。

 ルーカスはほっとしたように息を吐くと、ようやくバルドに視線を落とし、少しばかり表情を緩めた。


「バルド、か。大きくなった。お父上似だな」


 くしゃりと髪を撫でると、すぐにフェリクスに向き直る。

 そして、エルマを背に庇うようにしたまま、再び鋭く異母兄を睨み付けた。


「繰り返しますが、冗談にしてもあまりに性質が悪すぎます。俺を早く呼び戻したいだけだったなら、こんなことで釣らずとも、ただ一言『早く帰れ』とお命じください。というか、そもそも今日この日に遠くまで行かせないでください」

「君をびっくりさせたかったのは事実だけど、手紙に書いた内容は、残念ながら冗談なんかじゃないよ」

「――なんだと?」


 とうとうルーカスの口調から敬語が取れる。

 フェリクスはまるで満腹な猫のように、にいと口の端を引き上げてみせた。


「本気だとも。僕、フェリクス・フォン・ルーデンドルフは王命として――エルマ、君に、王妃選考会に候補者として参加することを命じる」


 軽やかな宣言に、エルマを除く全員が凍り付いた。

 唯一、フェリクスの妙に上手いウインクを受けたエルマは、それを避けるように顎を引いた。


「……私が、陛下の王妃選考会に、ですか?」

「なにその嫌そうな反応。うまくすれば大国の王妃だよ、もっとテンション上げていこうよ」

「恐れながら、権力にも、あなた様の妻の座というのにも、まったくそそられないのですが」


 淡々とした塩対応に、面々がほっと胸を撫でおろす。

 我に返ったルーカスは、やっといつもの皮肉気な笑みを取り戻した。


「ご覧の通り、エルマは全く乗り気でないようです。王妃候補になるには、貴族による後見と本人の意思が必要のはず。両方とも無いエルマでは、候補に上がることもまず不可能ですね」

「意地悪だなー。せっかく僕が、最高の世継ぎを確保する気になったんだから、水を差すような真似しなくてもいいじゃない」


 フェリクスは軽く首を竦めて、へらりと笑う。相変わらず、狐のような笑みだった。


「僕は血を残すつもりなんてさらさら無かったけど、君が王を続けろって言うからさ。それならまあ、僕の血を上書きするくらい、優秀な血があったほうがいいでしょ」


 声にはほんのわずか、なにか真摯な色が滲む。

 しかし、周囲がそれに気付く前に、彼はいつもの間延びした口調に戻してしまった。


「エルマで即決してもいいけど、魔族の血が混ざるのはちょっとアレな気もするしー。一応、他の候補を見ておくべきかなーって。そこで選考会だ。知力体力時の運、それから美貌。どれを取ってもピカイチのエルマを参加させれば、一気に水準が跳ね上がる。雑魚令嬢の足切りの理由付けにももってこい。そうして僕は、最高品質の妃選びに専念できるってわけ」

「……王の発想として一定の理解はできます。が、さすがにこの任務は、本人の意志を無視して命じるべきではないでしょう。王以前に、人として」

「あくまで本人の意志が問題? なら話は簡単だ」


 低い声で反論したルーカスを封じるように、フェリクスはにこやかにエルマを見つめてみせた。


「ねえ、エルマ」

「先に申し上げておきますが、もはや、陛下にやすやすと乗せられるチョロい私ではありませんよ」

「うんうんそうだよね。ところで君の弟くんってさ、ものすごく可愛いし、頭もよさそうだし、発育もよくて、なんかもう世界一素晴らしい赤ちゃんだよね」


 絵に描いたような掌返しだ。

 シャバの世知辛さを既に学んだエルマは、ぴしりとそれを撥ね退けようとしたが、


「……そ、そのような事実を仰っても、べつに、まったく、騙されるわけではありませんが、ですがまあその、まぎれもない事実ですよねバルたんめちゃきゃわわですよね」


 あっさり失敗し、見事に前のめりの体勢を見せた。


「ダメだわ、この子、世界一チョロい姉だわ……!」

「でも、チョロいエルマエル様も素敵ですわ……!」


 イレーネとデボラがひそひそ声でコメントを交わす中、エルマはがっつりとフェリクスの話術に絡め取られていった。


「こんなに可愛い弟君だもの。同じく弟を持つ身として、どんなことでも叶えてあげたいっていう君の気持ち、すごくよくわかるよ。実際、そう思ってるでしょ?」

「それはもう。バルたんの寝顔を見ていると、どんなことでもしてあげたくなります」

「わかるわかる。すごく伝わってくるよ。あらゆる障害を取り除き、あらゆる幸福を授けたくなるよね」

「ええ、まったく、仰るとおりで……!」


 バルドを引き合いに出され、エルマがみるみる話にのめり込んでゆく。

 彼女が顔を輝かせ、渾身の相槌を打ったタイミングで、しかしフェリクスはふと表情を暗くした。


「でも……本当に残念。現時点では、彼に決定的に欠けているものがあるんだ」

「え……!?」


 エルマが怯んだように息を呑む。

 狐とあだ名されるルーデン王は、ずる賢こそうな瞳をそっと伏せることで隠し、低く告げた。


「戸籍だよ。社会で『普通』の生活を送るにあたって、なによりも必要なもの。けれど、監獄生まれの君たち姉弟には、それがない」

「…………!」


 エルマは雷に打たれたようによろめいた。

 フェリクスの意図を悟って、「落ち着け」と口を挟んだのはルーカスだった。


「騙されるな、エルマ。戸籍が無くとも、おまえは俺の口利きでこうして働けているだろうが。それに、ヴァルツァーの医療環境は王都より充実している。べつに戸籍が無くとも、職や診察に困ることはないだろう?」

「それはそうですが……。いつかバルたんが誰かと愛を育み、結婚するときにはどうするのです? 子を持つときは? バルたんは内縁の夫となり……子どもとも正式な親子関係を結べないのではありませんか?」

「そこはもう、お得意の詐欺か洗脳でも使って偽造すればいいだろうが!」

「ダメです、バルたんにまがい物を差し出すなんて!」


 もはや、騎士が邪道を説き、罪人の娘が正道を説くという不思議な事態である。

 そこに、フェリクスがもったいぶった声で追加燃料を投下した。


「最近僕さー、名誉騎士爵位、っていうのを設けたんだよねえ」


 ソファの手すりに頬杖を突き、もう片方の手をひらりと宙に向ける。

 どこか、獲物を前にした蜘蛛のような、滑らかな動きだった。


「国に大いに貢献した者に授ける、一代限りの爵位だ。とはいえ、ここから貢献を重ねれば、陞爵しょうしゃくも可能、伯爵になれば世襲も認められる。貴族の仲間入りってことだね。ちなみに、爵位が授けられれば、自動的に戸籍も授けられることになる。公式に(・・・)、ね」

「公式に……」

「そう。騎士爵位があれば、王城にも社交界にも出られる。逆に平民に戻ることもできる。つまり、上は王族から、下は平民まで、どんな相手と付き合っても後ろ指を差されることがないということさ」

「…………」


 エルマが黙り込む。


「もし君が今回の選考会に出て、そうだなあ、最終選考まで残ってくれたなら、名誉騎士爵位を約束しよう。別に妃になる必要はないんだよ。最高の当て馬になってほしいだけ」

「……ですが」

「今なら特別に、セットでバルド君にも爵位をプレゼント。おまけにお好きな姓も贈呈」

「やります」


 即答したエルマに、やり取りを見守っていた三人は一斉に叫び声を上げた。


「馬鹿エルマ! あなたに、最終選考でちゃんと脱落できる器用さがあるはずないじゃない!」

「うっかり王妃になってしまう未来が目に見えるようですわ!」

「エルマ、おまえ、本当に事の重大さをわかっているのか!?」


 ルーカスに至っては、険しい顔でエルマの腕を掴む。

 精悍な美貌を顰め、這うような低い声で告げた。


「過去にルーデンで行われた選考会では、最終選考前に『枕問い』を行使した王もいたんだぞ……!?」


 つまり、王妃にならなかったとしても、純潔を失う恐れがあるということだ。

 騎士である彼としては、かなり直截的にそうした危機を指摘したつもりだったが、エルマの反応は淡々としていた。


「枕問い。書物を通じてではありますが、定義は理解しております。ですが、私と陛下の間柄で、まさかそのようなことが起こるはずもありませんので」

「えー、それって信頼されてるのか、逆に視界に入ってないのか微妙ー」


 間延びした口調で突っ込むフェリクスをよそに、ルーカスは声を荒らげた。


「おまえはなにもわかっていない!」


 部屋の空気がびりりと震えるほどの怒声だった。


「おまえは年頃の、誰より美しい娘なんだぞ! 権力志向もないくせに、公式に手籠めにされにいくような悪趣味な催しに、なぜそんな気軽に臨める!? 人間の欲望や卑しさに、いい加減、無防備すぎる!」


 エルマは怯んだように目を瞠ったが、腕の中のバルドをきゅっと抱え直すと、おずおずと口を開いた。


「あの、ご心配いただいているようで恐縮ですが、これはあくまで任務。つまり形だけの王妃候補ですし、万が一そのような場合となったら、多少、武術の心得もございますし……」

「酒だの薬だの、やり方はいくらでもあるだろう。男の欲を甘く見るな。それにこれは、それ以前に名誉の問題――」

「殿下もですか?」


 厳しい顔つきのまま続けようとしたルーカスを、エルマは不思議そうに見つめた。


「殿下も、そのような、『甘く見てはいけない男の欲』をお持ちなので?」


 これには、ルーカス本人よりも、やり取りを見守っていた周囲の方がごくりと喉を鳴らした。


「エ、エルマ、それ、最高に答えにくいやつ……っ」

「無自覚ゆえのクリティカルヒットですわね……っ」


 いがみ合っていたはずのイレーネとデボラは、いつの間にか両手を取り合って冷や汗を浮かべている。

 ルーカスがなにかを答えるよりも早く、エルマは身を乗り出した。


「そんなことはないはずです。殿下は全自動テイクアウトと称される殿方であっても、常に私に対して誠実に接してくださっています。思うに、殿下は少々心配しすぎなのではないでしょうか」


 エルマは真剣だった。


「私、きっと今回も立派に任務をこなしてみせます。こなしたいのです。これまでは母からの課題をこなすためでしたが、今度は、自分自身の欲しいもののために。私、絶対に騎士爵位を――」

「もういい」


 だが、その熱弁は、低い声によって遮られた。


「そこまで言うなら、好きにするがいいさ」


 まるで、窓の外でちらつく、雪のように冷ややかな声。

 ルーカスは、その青い瞳に、これまでにないほどの冷たさを湛えていた。


「あの、殿下……」


 戸惑うエルマから視線を外し、くるりと踵を返す。

 そして、カツカツとブーツを鳴らし、扉へと引き返していった。


「義兄上。今回はエルマへの直接の任務命令ということですね。ならば俺は、この件には一切関知しませんので」

「ほいほーい」


 のんびりした返事を聞くか聞かぬかの内に、部屋を去ってしまう。

 残されたエルマは、腕に弟を抱えたまま、無表情で立ち尽くしていた。


「ど、どどど、どうしよう、殿下とエルマが本格的に喧嘩するだなんて、初めてだわ……っ」

「ま……まあでも、『俺にも欲があるに決まってんだろ、ガオー!』と襲いかかれない殿下は、しょせんそれまでの男というだけですわ」


 ちなみにイレーネとデボラでは、この事態への賛否は分かれるようである。


「考えてみれば、エルマエル様のライバルが減るのはよいことですもの。意気地なし殿下とはここで終えてもらって、なんら問題ございませんわ」

「この人でなし! この半年、色男の称号を投げ捨てるくらい身を慎んで、なにくれとなくエルマに手紙を送っては、大罪セブンに秘密裏に撃退されてきた経緯を知らないから、そんなことが言えるのよ!」


 半年の裏事情を知っているイレーネは、だいぶルーカス寄りだ。

 今日だって、フェリクスの無茶ぶりで遠出していたのを、この事態を知って慌てて馬を駆ってきたというのに。エルマが気にするのは弟のことばかりで、挙げ句、弟のために、他の男の妻に立候補するときた。


「どうすんのよ、エルマぁ……」


 涙目になって見つめる先では、やはりエルマが沈黙を保って佇んでいる。

 それを見ていたフェリクスが、ソファから愉快そうに声を掛けた。


「どうするー、エルマ? ルーカスと大喧嘩なんて、初めてじゃない。実はちょっと動揺してたり?」

「……いえ特に」


 その声は、いつもより少しだけ固い気がするし、顔も強張っている気がする。

 いや、それとも通常通りだろうか。

 エルマの人となりをだいぶ把握しているイレーネでも、眼鏡で覆われてしまうと、よくわからない。


 目を凝らしたイレーネだったが、エルマがなにごともなかったように、バルドを優しく揺すりだしたので、絶望に天を仰いだ。


 好意を抱く男と喧嘩した直後の人間は、普通、こんなに愛おしげに誰かをあやしたりしないだろう。


「枕問いを回避しつつ、騎士爵位を頂戴すれば、ご懸念も払拭できるかと思いますので」


 静かに答える様子は、やはりどう見ても動揺の欠片すらないように見える。

 エルマは眼鏡のブリッジを押し上げる代わりに、バルドの頬をつんとつつくと、瞳に力を込めた。


「『普通』の身分を手に入れるため――優勝までは一歩及ばぬ妃候補。やらせていただきます」


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