1.「普通」の職場復帰(1)
「それではっ、エルマの職場復帰を祝してぇ……」
深夜のルーデン王城、その侍女寮の一室で、声量を抑えたイレーネの声が響く。
「乾杯!」
小声ながら高らかに彼女がワイングラスを突き上げると、さらに小さな声で、「乾杯」の声が続いた。
鈴を鳴らすような涼やかな声。
終業後であるため寝間着に着替え、眼鏡こそ残したままだが、艶やかな黒髪を解いたその少女は、エルマである。
彼女は、寝台を広々使って寝かせた赤ん坊――弟のバルトの腹をとんとんと叩きながら、イレーネに囁いた。
「バルたんの寝かしつけが終わるまで待っていただいてしまい、申し訳ございませんでした。蝋燭もあまり灯すことができず、暗くて恐縮なのですが――」
「なぁに言ってるのよ、これはこれで雰囲気があって楽しいじゃない。こちらが勝手に祝いたいだけだったんだから、そんなの気にしないで」
上機嫌なイレーネは、手元のグラスにワインを注ぎ、ついでにエルマのグラスには、葡萄のザフトを注ぎ足す。
「約束通り、やっとあなたと会えたんだもの。もう、とにかく嬉しくって」
それから、暗闇でもそうとわかるほど、にっこりと笑った。
献血騒動のけじめを付けるため、エルマが監獄に帰ってしまってから、はや半年。
期日が近づくたびに、本当に親友は戻ってくるだろうかと気を揉んでいたものの、きっかり六カ月が経った日の夕方、エルマは王城の門をくぐってきてくれた。
本人はステルス復帰を狙ったようだが、エルマの姿が見えるなり、城中の牛が暴れ、馬がいななき、鶏が空を飛び出したので、イレーネ
そうして彼女
「あの、本当に今更ながらなのですが……」
「さ、飲みましょ、飲みましょ。とあるルートから、とっておきのワインを仕入れているんだから。おっと、ただしあなたはザフトよ、エルマ」
「あの、ご配慮痛み入るのですが、それよりその、隣の……」
「積もる話が山ほどあるのよ。といっても、あなたがいなくなってから、ちょっと前までは平穏そのもので、暇すぎるくらいだったのだけど。一か月前から事態急変っていうか、
「あの、それなのですがイレーネ、いったいなんでまた――」
どこか据わった目で話し続けるイレーネを、エルマはとうとう遮って問うた。
「先ほどから、この場に、メイド姿のデボラ様がいらっしゃるのでしょう」
というのも、エルマの寮室の片隅で、恍惚の表情を浮かべたデボラ・フォン・フレンツェル辺境伯爵令嬢が身をくねらせていたからである。
「ああん、寝間着姿のエルマエル様と、こんな狭い密室で飲み交わせるだなんて……! エルマエル様のご復帰に先んじ、王宮侍女に収まった甲斐があったというものですわ」
「え」
まさかの発言に、さしものエルマも軽く顎を引く。
すると、デボラは誇らしげに、豊かな胸を張った。
「地の利を生かし、監獄の『御近所さん』としてエルマエル様のお近くを独占していた夢のような五ヶ月。その幸福な時間を永らえさせるべく、あえてこの一か月、血の涙を呑んでエルマエル様のお傍を離れ、王城での就職工作に勤しんでおりましたの!」
「道理で、最近監獄に押しかけてこないと……」
納得の面持ちで頷くエルマをよそに、イレーネはちっと苛立たし気に舌を打つ。
「おかげで、先月から王城の平和はめちゃくちゃよ。ちょっとでも目を離すと、すぐにエルマ像を建立しようとするわ、聖歌隊の楽譜をオリジナルエルマソングに差し替えようとするわ、敷地中に隠れエルマスポットを仕込もうとするわ……」
「あらまあ、イレーネさん。わたくしは人間として当然の行動を、日々取っているまでですわ」
そう。
エルマに暑苦しいほど心酔しているデボラは、周囲の迷惑を顧みず、王城中を巻き込んでエルマへの愛を表現しようとしていたのである。
しかも伯爵令嬢であり、かつ、エルマ仕込みの特異な能力も持ち合わせているため、誰も止められないというのが実情であった。
「それは、その……私としては、どんなリアクションを示せばよいものやら……」
エルマは大いに困惑した。
行き過ぎた敬愛行動を素直にやめてほしいと思うし、同僚に申し訳ないような気もするが、責任を負うのもなにか違う気がする。
ついでに言えば、キャラの濃い者同士、イレーネとデボラはもっと気が合うのではないかと思っていたために、両者の醸し出す緊張状態が、少々意外でもあった。
「はんっ、デボラ様。いいえ、もはや同僚である以上デボラと呼ぶわ。あなた、自分の犯した最大の罪がなにか、まだわかっていないようね」
「エルマエル様への忠誠を誓う行為のどこに、犯罪性があると言いますの? 像も楽譜も庭園改変も、最終的には上の許可をもぎ取りましたわ」
「そんなことじゃないわよ。私が一番許せないのはね、王宮図書室に蔵書してもらえるよう、数年掛けて働きかけてきた『薔薇ケモ』を差し置いて、あなたがまんまと百合モノの自作小説を図書室にぶち込んできたことよ!」
「まあ、当然の帰結ですわ。あれは、エルマエル様と一信徒の高潔な愛を描いた、世界一美しいオリジナル小説。今は薔薇より、百合を世界は求めているのよ」
よくわからないが、二人は相容れない正義を戦わせているらしい。
エルマはとても雑に「なるほど」と頷いて流すと、再びそっと弟の柔らかな腹を撫でた。
ひとまず、彼に影響がないのならなんでもいい。
流されたのを敏感に察知したイレーネは、そこで我に返り、咳ばらいをした。
「……と、とにかく。おかげさまでこの一か月、私はデボラの尻拭いで大わらわだったってわけ。まあ、それ以前の五カ月は退屈で仕方なかったけどね。エルマ、あなたはどう過ごしていたの?」
改めて尋ねられて、エルマはことりと首を傾げた。
「そうですね……。バルたんの世話に始まりバルたんの世話に終わる、といった具合で、詳細な記憶は定かではありません」
「ねえ、さっきから気になっていたんだけど、『バルたん』ってあだ名は誰のセンスなの?」
「もちろん私です。すごく可愛いし、普通だと思うのですが……なぜ聞くのですか?」
真顔で問い返されて、イレーネは一瞬言葉を詰まらせた。ダサいとは言いにくい。
「……えーっと、その、ほら、あなたの家族って、【憤怒】とか【怠惰】とか、大罪の名前で呼び合っていたみたいじゃない? ずいぶん系統が変わったなあ、って……」
「あ、もちろんバルたんにも罪名はありますよ。ずばり【
「だから一人だけ系統違うでしょ!?」
「なにが違うことがありましょう。暴力的なまでの可愛さ……それこそがバルたんの罪」
しみじみ独白され、イレーネはとうとう突っ込む気力を失った。
罪名はハイデマリーによって決められていると聞いたから、つまり監獄中がこんな感じだということだ。
寝台ですやすやと眠るバルドは、頬がふくふくとして、金色の髪もまだ柔らかく、たしかに愛らしい。
が、ギルベルトに似たのだろう、とびきり色白というわけでもないし、顔の造形も、ハイデマリーやエルマのような、息が止まる美しさに溢れているわけではない。
だというのに、絶世の美少女エルマが、まるで世界一の美青年を相手にするように、うっとりと頬を染めて
「ああ……この真善美すべてのエッセンスを感じさせる顎のライン……。天上の調べのような軽やかな寝息。顔を寄せるとほんのり漂う、甘い香り……」
そこでエルマはそっと顔を弟の首元あたりに近付けると、そこでふにゃあっと笑み崩れた。
「ぁあああっ、可愛い……っ! なんって可愛い! バルたんは、ほんとにほんとに可愛いでしゅねぇえええええ! ちゅっちゅっちゅ!」
あげく、頬に雨のようにキスを落とす有様である。
エルマがここまでキャラを崩壊させる現場を、イレーネは初めて目撃した。
人道的には何ら問題のない光景。
だが、この場にいない人物を思うと、そっと目頭を押さえたくもなる。
「哀れ、ルーカス殿下……。この十分の一でもうっとりとされ、キスされたら、どんなに喜んだか知れないのに……」
ちなみに、イレーネ同様にエルマの帰還を待ち侘びていた彼は、不憫属性をいかんなく発揮し、今日に限って近隣国まで視察中である。もちろんフェリクスの我が儘のせいだった。
「あっ……! 今のバルたんの寝息、もしや古代ダズー語で『世界への光』を意味する単語の頭文字、『スー』の発声でした……!? ああっ、両手の三本の指を柔らかく曲げるポーズは、まさしく東大陸教の教祖が
だというのに、エルマはルーカスのことなど尋ねもせず、弟の寝姿に息を呑んだり、身を震わせたりと忙しい。
明らかに、かなりの姉馬鹿だ。
なのに完全なイエスマンと化したデボラが「その通りですわね!」と頷くばかりなので、一向にそれが是正される気配がない。
エルマはとうとうグラスを脇に追いやり、恍惚としたままバルドの寝顔をスケッチしはじめた。
このままでは親友が、年頃の娘として大切ななにかを失ってしまう。
危機感を抱いたイレーネは、こめかみを押さえて割って入った。
「ちょっと、エルマ。バル……たん、が可愛いのはわかるけど、いい加減育児に没頭しすぎよ。あなたはあくまで『姉』であって『母』ではないし、侍女に復帰したからには仕事が待っているのよ? バルたんは一通りお披露目したら
「何を仰います。私はすでにバルたんと適切な距離を置き、冷静な態度で接しておりましゅよ」
「語尾!」
真顔でキャラ崩壊しきった親友に、イレーネは思わず頭を抱えて叫んだ。
「んもう! エルマ、あなた、このままじゃ一生をバルたんに捧げかねないわよ。育児よりもほかに、すべきことがあるでしょう!?」
「バルたんのお世話を差し置いて、ほかにすべきこと……?」
エルマはスケッチブックから顔を上げ、きょとんとしている。
城を去るまでは、ルーカスとなかなかいい雰囲気だったように思うのに、半年の育児生活が挟まることで、かなりフェードアウトしてしまったのかもしれない。
しきりとエルマを気にしていたルーカスも哀れだが、イレーネとしては、青春を全力で投げ捨てようとしている親友のことが気がかりだった。
「あなた、私がこの半年間定期的に送りつけたロマンス小説や聖書には、ちゃんと目を通したのでしょうね? あれらの主人公の言動こそが、年頃の乙女の模範よ。そのうちの誰か一人でも、育児にかかりきりになっていた子がいた? いないでしょう?」
「もちろんできる限り熟読いたしました。ただ、正直に申し上げますと、薄い冊子のほうは、『なにか禍々しいオーラを感じる』と、家族に取り上げられてしまっていて……」
「んまあ! なんて無粋なご家族なの!」
怒りの余り、泣く子も黙る大罪人たちをこき下ろす、という偉業をイレーネはやってのけた。
「ならば改めて言うわ。私たち、花も恥じらう乙女なのよ!? 隙あらばデートしなきゃいけないし、新しいカフェができたらチェックしなきゃいけないし、縁結びで有名な花園が見ごろになったら頬を染めて足を運ばなきゃいけないの。新しいスイーツは大人買いして、イケメンには粉を掛けて、薄い本は予約購入保存布教しなくちゃいけないの。わかる!?」
「後半がよく……」
「とにかくこれを読む!」
顎を引いたエルマに、イレーネはばんっと新たな本の束を突きつける。
薔薇薔薇しい薄い本のほかに、王都の見どころガイドブックや、有名菓子店の新作カタログ、王城イケメン名鑑があったので、ひとまずエルマはそのうちの一冊、ガイドブックを開いてみた。
「超有名・『約束の花』が冬でも見られるのはエストワ庭園だけ。大好きなあの人と永遠の想いを誓ってみては? 貴族専用に作られた優雅な空間が、あなたのデートを完璧に演出……」
エルマは神妙に文章を読み上げ、それから困ったように眉を寄せた。
「いえあの……侍女としての自覚を持てと言うことなら、このように浮かれている場合でもないと思うのですが……」
「あら、なにを言っているの?」
控えめな反論を、イレーネはあっさりと遮る。
「フェリクス王陛下だってお妃選びに大わらわなんですもの。今やルーデンは、国中が恋の季節。冬でありながら、春なのよ!」
その主張に、エルマは夜明け色の瞳を軽く見開いた。
「え? あの陛下が、ご結婚されるのですか?」
「なによ、それで忙しくなるからって帰ってきてくれたのではなかったの?」
「いえ、私は単に半年後という約束を守ったまででして。なんというのか……かのお方も、結婚という『普通』のライフイベントをこなすのかと思うと、驚きですね」
そっくりブーメランになりそうな発言をさらりとかましながら、エルマは恥じたように顔を俯けた。
「たしかに、この半年というもの、獄内に籠りきりで育児に没頭していたために、その辺りの世情にもすっかり疎くなっていたようです。せっかくシャバに精通できたと思っていたのに、不甲斐ない……」
さすがにそこまでしょんぼりとされると、言いすぎたような気もしてくる。
イレーネは咳払いをした。
「ま、まあ、今日の今日でいきなり大仕事がやってくるわけではないし、明日からちょっとずつ、勘を取り戻していけばいいんじゃないの? 困った時は、もちろん私が――」
「イレーネさん」
だが、それをデボラに遮られる。
ここまで黙っていたデボラは、なぜか扉を指差しながら、にこりとイレーネに向かって微笑んだ。
「わたくし、百合薔薇戦争では永遠に分かり合える気がしませんが、あなたのその、フラグ建築能力については、一目置いていますわ」
「は?」
イレーネが怪訝な顔つきになったその瞬間、
「エルマ、もう休んでいるかしら?」
ノックもそこそこに、とある人物が転がり込むようにしてやってくる。
「復帰したばかりのところに、本当にごめんなさいね」
バルドに配慮して、ひそひそ声で部屋に踏み入ってきたのは、先ほど挨拶を済ませたばかりの侍女長・ゲルダであった。
そして彼女は、
「でも、緊急のお呼び出しなの。至急、陛下のお部屋に向かってくれる?」
心底申し訳なさそうに、「いきなりの大仕事」を申し付けていったのである――。
以降は、連日20時に投稿予定です。
お付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。