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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「恋」は難しい

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0.プロローグ



 ルーデンの冬は厳しい。


 早朝のひやりとした空気に白い息を漏らしながら、少女は窓に近付き、そっと鎧戸を押し開けた。

 白みはじめた空の明るさに、目を細める。入り込んできた冷たい風に首を竦めると、豊かな黒髪が波打った。


「まあ、なんて美しい庭かしら」


 眼前に広がる巨大な庭園に、少女は感嘆の声を上げる。

 年の頃は、十六、七か。

 訛りの無いルーデン語を話すその声は愛らしく、控えめな笑みを湛えた彼女は、いかにも可憐な少女に見えた。


 彼女は、子犬のようにつぶらなこげ茶の瞳で、ぐるりと庭を見渡す。

 遠くに立つ見張りの騎士と視線が合うと、おずおずとはにかみ、それから満足したように窓から身を翻した。


 寝台まで戻る足取りは軽やかで、弾むようである。

 だが――引き寄せた膝に頬杖を突いた彼女は、そこで表情を消した。


『はん、だだっ広い庭だね。ルーデンの財力を見せつけようってわけ』


 紡がれるのは、蓮っ葉な外国語だ。

 巻き舌を特徴とするその言語は、ルーデンの属国の一つ、南西に位置するエスピアナ国のものであった。

 それも、下町に住む者が話すような口調だ。


『王妃選考会のためにわざわざ迎賓館を建てるなんて、さっすが大国はやることが違うねぇ。四階からルーデンの地を見下ろせるなんて、流刑地出身の庶民には恐悦至極』


 皮肉気に口元を歪めながら、両手を広げてどさりと寝台に身を投げ出す。


 そう。

 彼女は、二年ほど前に即位したルーデン王の、王妃選考会に参加するためにこの場にいるのだ。


 上等な寝台の感触を、仰向けになったまま楽しんでいた彼女だったが、ふとなにかに気付いたように舌打ちをした。


『……違った、「庶民」じゃない。今は聖侯爵令嬢だ。アナじゃなくて、アナスタシア。アナスタシア・ドン・ロドリゴ……』


 ロドリゴ、の名前を紡ぐときだけ、少女――アナスタシアの唇は嬉しそうに綻ぶ。

 寝台脇の机に置いてあった髪飾りを取り出すと、まるで恋人からの手紙にするように、そっと口付けを落とした。


 かわいらしいデザインその髪飾りには、鈴蘭によく似た白い花と、小さな鈴が付いている。


 花はもちろん、貝殻で作った偽物だが、本物の花とまったく同じ香りが漂うよう加工され、鈴は耳に心地よい音を立てた。


『ロドリゴ様。あたし、頑張りますね。あなた様に引き取っていただいてからの、この十年の成果を、きっと発揮してみせます』


 波打つ艶やかな黒髪に、豊かな大地のようなヘーゼルブラウンの瞳。

 健康的に輝く肌と、愛らしく整った顔を持つ今の彼女を見て、寒村の貧民という出自に気付く人物はまずいないだろう。


 もちろん、指輪に潜ませた毒や、体中のあらゆる場所に仕込んだ暗器の存在も。


 次いで彼女は、己の足元をうっとりと見下ろす。

 宙に持ち上げた両足は、ガラス細工をあしらった繊細な靴に包まれていた。


 ガラスの靴と髪飾り。

 どちらも、彼女を貧困から救ってくれた養父の贈り物だ。

 まさに、爪先から頭のてっぺんまで自分を変身させてくれた、魔法使いのようなロドリゴ。彼のことを思うたびに、これから成すべき任務へのやる気が湧いてくる。


 大国ルーデンの王を暗殺するくらい、これまで自分が受けた恩に比べれば、なんと些細なことだろう。


 アナスタシアは寝転がったまま、先ほどの窓に向かって目を細めた。


『迷いやすく作られた庭。見張りの騎士は二十人以上。徹底管理された通路に、鉄柵。優美な檻ってとこかい……』


 そうして思考を巡らす。

 あどけなく見える容貌とは裏腹に、彼女は冷静に状況を把握していた。


 先ほど見えた庭には、いかにも手練れの、かつ見目のよい騎士が多く配置されている。

 逃亡や殺傷沙汰は容易に防がれてしまうし、しかも、貞節に欠ける女はそこでふるい落とされるという寸法だろう。


 部屋割りも、身分や境遇を考慮して、実に綿密に組まれている。

 結託も、逆に足の引っ張り合いもできないよう、関係の薄い候補者同士が隣り合うように仕組まれているのだ。


(凡愚王子と評判の御仁だが、少なくとも有能な側近には恵まれたようだね)


 アナスタシアはふんと鼻を鳴らし、フェリクスなる人物の顔を思い浮かべた。


 実は彼女は一度だけ、フェリクスに会ったことがある。

 と言っても、向こうはこちらを視界にすら入れていなかったろう。


 数年前、彼がまだ王子だったとき、属国エスピアナへの視察にやってきた彼を、聖侯爵家の侍女に扮してもてなしただけだったのだから。


(ロドリゴ様がしきりに話を振ってやってたのに、へらへら笑って頓珍漢なことばかり答える、絵に描いたような「凡愚王子」だったねぇ……)


 夜会の席での一幕を思い出し、アナはつい顔を顰める。


 ロドリゴは、エスピアナが属国化される前には王族だった。

 それを、国の併合とともに一家臣の身分に落とされ、相当な煮え湯を飲まされたのだ。


 にもかかわらず、それをおくびにも出さずに、ルーデンの王子をもてなす姿勢は立派の一言だったが、フェリクスはといえばそれに気付くでもなく、ただ調子はずれの応対をするだけだった。


 そんな男であるのに、彼の妃の座を目指して、全国から優秀な女性がこの迎賓館に集まっているのだと思うと、実に滑稽だ。


 瞳を権力欲でぎらつかせ、ライバルに牽制の視線を投げかける候補者たちを見て、アナスタシアは失笑せずにはいられなかった。


(男の取り合いなら、せいぜいあんたたちのお庭でおやりよ。悪いけど、あたしの目的は、そんな低俗なものとは違う。そのために、弱小国出身とはいえ、こちとら、命を懸けて王妃修行に取り組んできたんだ)


 フェリクスはさすが大国ルーデンの王だけあって、常に厳重な守りの中にいる。

 アナスタシアが得意とするのは毒の操作だが、肌に触れるほどの距離に近付くのは至難の業だ。


 それが唯一可能となるのが、最終選考の場。健闘した女性に褒賞を与えるときである。

 王妃に内定した女性には、国宝の首飾りを王自らが首に掛けるのだそうで、アナスタシアが 目指すのは、ずばりその地位だ。


 そのために、外見も仕草も教養も、同年代の女子とは比べ物にならないほどの努力で磨き上げてきた。


 とはいえ、現実的に考えて、いくら聖侯爵の養女とはいえ、属国出身の自分が立后されるのは難しいのも承知している。

 そこでアナスタシアとしては、最終選考進出者ならば対象となれる、「枕問い」のことも、同時に狙っていた。


「枕問い」とは、その名の通り、婚姻前に体の相性を確かめる儀式のことである。

 世の常識に照らせば不道徳とされる婚前交渉も、世継ぎを生むという重大事の前には正当化されるということだ。


 もともと流刑地の出で、貞操観念に大らかなアナスタシアは、女性なら躊躇う「枕問い」も、暗殺のよい機会だと捉えていたのである。


(どんな手でも、構うもんか。あたしはなんとしてもこの選考会を勝ち抜いて、王に接近し――)


 アナスタシアは、押し抱いていた髪飾りを宙に持ち上げ、鈴をちりんと鳴らした。


『卑劣な泥棒、フェリクス・フォン・ルーデンドルフを……殺す』


 ヘーゼルブラウンの瞳に、禍々しい光が浮かぶ。

 重厚な樫の扉がノックされたのは、その時だった。


「失礼いたします。アナスタシア・ドン・ロドリゴ様はご在室でしょうか」

「……はい」


 アナスタシアは素早く身を起こし、ルーデン語で短く応じる。


 年若い女の声。

 丁寧な口調から、恐らくは侍女だろう。

 だが、こんな早朝から部屋に来られる理由がわからない。


 演技も込め、相応の戸惑いを露わに「どちらさまでしょうか」と扉に問いかけながら、彼女は無意識に自身の太腿辺りを探った。


 他の候補者からの偵察。それとも、早速自分の正体に気付いたルーデンからの刺客。

 後者ならば、悲鳴を上げられぬよう、返り討ちにせねばならない。


 だが、開いた扉の先にいた人物を見つめて、アナスタシアはわずかに眉を寄せた。


「朝早くから申し訳ございません。少しばかり、お時間をよろしいでしょうか」


 そこには、逆光を背負い、眼鏡だけをきらりと光らせた、実に冴えない侍女が立っていたのだから。


「はぁ……」


 大陸一の栄華を極めるルーデンの侍女にしては、あまりにみすぼらしい。

 暗殺者を仕留めに来た刺客にしては、あまりに殺気がない。


 それよりなにより、


「……なぜ、赤子連れ……?」

「バルたん我が愛のことは、どうぞお気になさらず。いえ、視線が暴力的に惹きつけられてしまう愛らしさは重々理解しておりますが、この場ではできうる限り、私との話に集中していただけますと幸甚に存じます」


 その侍女は、なぜか、生後半年ほどの赤ん坊を抱きかかえていた。


「……ええと?」

「こちらの都合で大変恐縮ですが、バルたんが次に愛らしいお目目を覚ますまでに、あらかたの話を決着させとうございます。ついては、単刀直入にお伺いするのですが――」


 侍女は器用にも、赤ん坊を抱っこしたまま、眼鏡のブリッジをすっと押し上げた。


「ルーデン王妃の座に、ご興味はございませんか?」

今度こそ完結編となります。

第4部までで書ききれなかった、エルマの恋…模様…? 的なサムシング…? なアレに、決着をつけるために書きました。

よって、第5部では、主人公についての恋愛要素を含む可能性があるので、いや含みたいので、いやもうどうかお願いだから含んでくれたらいいなと思っているので、予めご承知おきくださいませ。

ルーカスいいやつなんで、報わせてやってくださいー!


※本日、初日拡大スペシャルで、22時にもう1話投稿予定です。

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