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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「普通」は愛おしい

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25.「普通」のピンチ(7)

 覚醒したエルマを見て、神々しさに目を細めたデボラは、


「邪を極むれば聖に通じんとす……この世の真理を、体現なさったのですわね……」


 そのまま昇天しそうな笑みを浮かべて、穏やかに気絶した。


「ああ、そうだ……、()はそういう性格だった……」


 圧倒される面々をよそに、ギルベルトだけは、懐かしそうに目を細める。

 超然とした雰囲気をまとった娘に、彼はかつての友の姿を重ねているようだった。


「それとも……()がそうなのか……?」


 あまりに人とかけ離れた佇まいは、もはやエルマという少女の人格が転じたというよりも、魔王だったというその人物が乗り移ったかのようにも見える。

 これまでぎりぎりのところで精神の均衡を保っていたギルベルトは、ふらりと、エルマに向かって手を伸ばした。


「…………」


 古に失われた言語は、きっと「彼」の名前。

 ギルベルトは、絞るような声でそれを告げると、きつく眉根を寄せた。


「すまない。……()の大切な女性(ひと)を、こんな目に遭わせてしまった」


 その言葉は、娘に向けたものだったか、それともかつての友に向けたものだったのか。


 エルマは、禍々しさと言うより神々しさを感じさせる深紅の瞳で、じっとギルベルトを見つめた。

 時折、ふわりと魔力の風が髪をなびかせる。


 ギルベルトは、拳を握り俯いた。


「……君は、許してくれるだろうか。俺に、彼女を愛する資格はあるだろうか」


 それはおそらく、この騒動が起こってから、彼がずっと胸の内で飼っていた葛藤だ。

 寡黙な元勇者がようやく吐露したその想いは、ひどく掠れた声をまとっていた。


 魔族であった父親とギルベルトの間に、どんな約束が交わされていたのかを、エルマは知らない。

 ただ、返すべき言葉は、自然と口をついた。


「……言ったはず。信じます、と」


 自分の言葉のような、誰かの代わりに話しているかのような、不思議な感覚だった。


 ギルベルトの碧い瞳が見開かれる。

 その清々しい色合いに、妙な懐かしさを感じながらエルマは頷いた。


「私が、助けます。ですから――あとは、頼みます」


 エルマ自身の言葉のはずだ。

 だが同時に、誰かの言葉。

 凛として、優しくて――目の前の勇者と扉の向こうの女性を、とびきり愛していた者の。


 エルマはすっと頤を上げ、何かに惹かれたように扉の外を見つめる。


 その秀麗な眉をそっと寄せると、躊躇いの無い足取りで、素足のままの爪先を槽の外に踏み出した。

 指の先から滴った赤い血が、石床に触れるや、たちまちぶわりと複雑な紋様を描き出す。


 エルマが足を踏み出すたびに、血の紋様はみるみる広がり、それはすぐに居室のすべてを覆ってしまった。

 血でできているというのに、意外にも禍々しさは無い。

 代わりに、何百年をかけて作られた聖堂の彫刻のように、気の遠くなるほどの緻密な美だけがあった。


 それが結界だとでも言うように、血の紋様は、エルマの歩む先へ、先へと伸びてゆく。

 扉を抜け、廊下を横切り、ハイデマリーの部屋の扉に手を掛け――そのときにだけ一瞬、紋様は怯んだように動きを止めたが、エルマがノブを握ると、そこを中心にばっと音を立てて広がっていった。


「お母様」


 静かに、扉を開く。

 もはや密林の様相を呈した空間で、ハイデマリーはぐったりと横たわっていた。


 儀式のためギルベルトが傍から離れたことで気を抜いたのか、苦しげな様子を隠さず、きつく眉を寄せている。

 それでも彼女は、エルマの指先が汗の粒の浮いた額を撫でると、はっと目を見開き、咄嗟に笑みを浮かべようとした。


「あら、……――」


 しかし、エルマの姿を目にした途端、両端を持ち上げるはずだった唇が、わずかに開かれる。

 ハイデマリーは、まじまじと、娘の深紅の瞳を見つめていた。


「…………」


 小さく呟いた、男性の名。

 ハイデマリーはふと力を抜くと、今度こそ微笑んだ。

 ただし、決して弱みを見せぬ女王の笑みではなく――心を許しきった、幼子のような笑みだ。


「……迎えに、来てくれたの?」

「いいえ」


 だから、エルマはきっぱりと否定する。

 呼吸を荒げる母へと慎重に両腕を伸ばし、それから、緩く波打つ髪ごと相手のことを強く抱きしめた。


「引き留めに来ました。お母様とお腹の子を、救うために」


 触れた途端、聖力と魔力が反発し合って、ばりっと火花が散る。

 ハイデマリーを取り囲んでいた植物が一斉にエルマを襲い、エルマを中心に広がっていた血の紋様もまた、揃ってそれに食らいついた。


「――……く……っ」


 高貴なる監獄の女王(ハイデマリー)の口から、初めて苦痛の悲鳴が漏れる。

 彼女は強い力で、娘の体を押し返した。


「やめ……なさい……っ、エルマ、あなたが、傷付く、わ……!」

「はい、少々、苦しいです」


 ハイデマリーとよく似たエルマの白い肌にも、汗が滲みはじめていた。


「少々というか……かなり……相当……凄まじく、苦しいです……っ」

「離し、なさい……っ! エルマ……! お母様の言うことを、お聞きなさい……!」


 ハイデマリーは抗ったが、エルマは「嫌です!」と叫んで、彼女を抱きしめる腕の力を強めた。

 それは、母に全力で縋りつく幼子の姿によく似ていたが――苦痛を堪えるエルマの瞳には、無力な涙ではなく、強い意志が漲っていた。


「やめなさい……! あなたを、苦しみに、巻き込むだなんて、ごめんだわ……!」

「ええ、苦しいです。とても。ですが……これが、お母様の感じてきた、苦しみだったのですよね」

「エルマ……?」

「十五年前、お母様は、反発する胎児の魔力と戦いながら、私を産んでくださったのですね。そして今も、同じ苦しみと、ずっと一人で戦っておられるのですね。……その苦しみを、どうか私にも、分けてください」


 力を暴走させた者を抱きしめ、そう囁きかける様子は、まさに聖女そのものだ。

 ただし、「もう大丈夫」と慈愛深く微笑む代わりに、エルマは厳しい顔で母に申し入れた。


「そして、一人で抱え込んで死ぬような真似は、絶対におやめください」

「エルマ……」

「お母様。私、僭越ながら申し上げます」


 ぐぅ、と、血の紋様が大きく膨らむ。

 猛り狂うようだった植物たちが、それに圧されたように、徐々に勢いを弱めはじめた。


「お母様は仰いましたね。親が子より先に死ぬのは『普通』だと。出産で命を落とすのも、年老いるのも『普通』のことだと。だから受け入れろと。ですが、お母様。私が思うに――」


 エルマの瞳が、ふっと紅い輝きを放つ。


 ――ぶわっ!


 同時に、じわじわと植物たちを攻略していた血の紋様が、凄まじい勢いで部屋中を飲み込んだ!


「これは全然、『普通』なんかではありません」

「――……あ……っ」


 突然体中を渦巻いていた荒ぶる聖力が無くなり(・・・・)、ハイデマリーが大きく喉をのけ反らせる。

 部屋中を覆っていた蔓が、枝が、花が、一斉に光の破片になって溶け消えていった。


 がくりと力を失った母の体を、エルマはしっかりと抱え直した。

 そして、囁くような声で続けた。


「お母様。だって私は学びました。監獄の常識は――お母様たちの言う『普通』は、シャバでは全然『普通』なんかではなかったことを。人の『普通』と自分のそれは、全然違って……人の数だけ『普通』があるのだということを」


 エルマの瞳もまた赤みを失い、いつもの夜明けの空のような色合いへと戻っている。

 息は荒くなり、肌には無数の汗が滲み、大きな瞳には涙の粒が浮かんでいた。


「お母様の『普通』は、私の『普通』ではありません。だって、私はお母様を助けたい。生きていてほしい。だから……嫌がられてでもお母様を助けることが、私の『普通』です!」


 最後、声を震わせながら言い切ると、ハイデマリーはゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るようにエルマを見つめた。


 いつだって、母親の示す世界を素直に受け入れてきた娘。

 この監獄で、捻じ曲がった、他人の「普通」を従順に信じ込んでいた彼女が――初めて、反発しようとしている。


「エルマ……」


 ハイデマリーは、ゆっくりと手を伸ばし、涙の跡の残る娘の頬を、そっと撫でた。


 親の自分に従えば、たくさん褒めてあげると言ったけれど。

 なんて不思議なことだろう。


「あなた……成長したのね……」


 反抗されたことが、こんなにも嬉しい。


 ハイデマリーはほっそりとした腕を回し、娘の体を強く抱きしめた。


「エルマ。わたくしは、あなたの成長がとても嬉しい」

「お母様……」

「そして、今のあなたにだからこそ、頼みたいことがあるの」

「え?」


 目を瞬かせる愛らしい娘に、ハイデマリーは汗を浮かべたままの笑みで応えてみせた。


出ちゃう(・・・・)。あと三秒。取り上げてくれる?」

「え……――っ!?」


 久々に見る、娘の驚き顔。


 お説教はされてしまったけれど、彼女を振り回すのは、まだまだこちらの方だ。





 きっかり三秒後、両手を組んで祈る人々の耳に、元気な産声が響いた――。

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