23.「普通」のピンチ(5)
エルマは夜明け色の瞳に意思を
「――それでは僭越ながらお願い申し上げますが、まず、【貪欲】のお兄様は血液採取キットを一式ご用意いただけますか」
「任せて。各地の採取予定人数と合わせて即座に振り分ける」
「ありがとうございます。デボラ様は、お手数ですが即座にフレンツェルにお戻りいただき、早速領民の皆様への説明と、採取の開始をお願いいたします。事態を説明する書面もあったほうが良さそうですね。――【怠惰】のお父様、お願いできますか」
「任せてください。『司書』たちも使って、十か国語で、十分以内にまずは千……いえ、二千部用意させましょう」
「書面には、あたしがサブリミナルを施しておくわ。少しでも効果が増すように」
「お姉様、ありがとうございます」
司令塔と見なした人物への連絡手段、連行手段、血液の保存運搬手段など、エルマは矢継ぎ早に指示を飛ばしてゆく。
「並行して、【暴食】のお父様は、監獄までの山道を
「任せろ。象の大群が、通ったかのように、大きな道を、整備して、みせる」
イザークが力強く頷いたのを見届けてから、エルマは「それから」と、ギルベルトに向き直った。
「お父様は……お母様の傍に、いて差し上げてください」
自分も何かを、と今にも飛び出しそうだったギルベルトは、それを聞いて目を見開いた。
「――……いいのか?」
「ええ。お母様は、お父様の前では、何が何でも綺麗なままで居続けようとすると思いますから」
きっぱりとした発言に、ギルベルトは一瞬言葉を失い、それからふと苦笑を浮かべた。
「……そうだな。『一目見ただけで、未来永劫その姿が脳裏に焼き付けられるくらいに、きれい』で居続けようとしてくれるはずだ。だが……一目などで終わらせるものか」
何やら、二人だけの約束を感じさせる言葉だった。
方針さえ決まれば、この恐ろしいほど有能な大罪人たちのことだ、すべてが凄まじい勢いで進んでゆく。
あっという間に、依頼の文書と返信手段、採血キットやあらゆるタイプの移動手段が確保され、豪雨の降る夜空に、おびただしい数の伝書鳩が羽ばたいていった。
「……お願いします」
夜の闇に溶ける鳩の姿を目で追いながら、エルマは無意識に両手を組む。
自らも足を運び、人々に頼んで回りたかったが、ハイデマリーの身に万が一のことがあった時のことを考え、彼女もまた獄内に残り、儀式の準備を進めることを選んだ。
今のエルマにできることは、ただ仲間たちに縋り、祈ることだけだ。
だから、無縁だったはずの無力な言葉は、いとも自然に口を突いた。
「……助けて。どうか……助けてください」
本人も知らぬところで、その声はぽつりと夜の闇に広がり、ハイデマリーの居室から漏れ出した聖力と合わさって、ぐんと広がっていった。
それは雨雲をくぐり抜け、月や星の光と混ざり合い、緩やかに人の子の頭上に広がってゆく。
あるいは風となり、雨の中無理に飛翔する鳩の羽を、そっと乾かしてやる。
もはや夜更けと呼んで差し支えない時間。
領主の娘にたたき起こされた領民の家に、突然鳩に窓を叩かれた前妃の部屋に、植物のざわめきで飛び起きた元聖女候補の寮室に、次々と、奇跡を呼ぶ明りが灯っていった。
「エルマエル様のお母君が、難産で瀕死だって……?」
「まあ。エルマが、愚息だけでなく、わたくしにも助けを求めてくれるだなんて……」
「エルマお姉様、魔王の血もお持ちでしたか……?」
寝ぼけ眼を擦った彼らは、助けを求められたのだと理解すると、一気に寝台から飛び降りて行動に移った。
「急がなくては――!」
それだけではない。
翌日の仕込み作業をしていた王城の料理人も、辺境の孤児院で研修を積んでいた聖医導師も、宵っ張りのヤーデルード国の夜会で聴衆を虜にしていた演奏家も。
エルマの窮地を知るや、なんの躊躇いもなく仕事の手を止め、方々に呼び掛けた。
「大変だ。おい、力を貸してくれ――!」
そうして、どれくらいの時間が経ったことだろうか。
血液確保のため、一旦方々に散った面々も、それぞれの戦果を抱えて、対策本部と定めたギルベルトの部屋へと、再び戻ってきた。
「ノイマン領からも、いくらか集めてきたわよ……! 第一陣で八十!」
「王城への根回しはすべて済ませた。まずは二百」
血を収めた小瓶、さらにそれを温度を保つ箱に入れ、びしょ濡れになってやって来たのはイレーネとルーカス。
監獄で調教された馬という、世にも恐ろしい生物兵器での移動を選択した二人だったが、よほどの強行軍だったのか、イレーネは「吐く……」と呟いてその場で崩れ落ちた。
それにすかさずテレジアが肩を貸し、フェリクスも呆れながらだが、水とタオルを差し出してやる。
政情的に獄外に出られぬ彼らではあったが、意外なことに、採取キットに真っ先に血を落としたのはテレジアであったし、説得がスムーズに行くようにと、書面に署名をしたのはフェリクスであった。
「死にたがりの女の願いなど叶えてやるものか」
「ま、投獄された王なんかの署名でも、
そして、フェリクスの署名は、王城での説得に、本人が思っている以上の影響を与えたのである。
(義兄上は、狡猾だが公平だ。冷酷だが、誰よりルーデンという国に対して誠実だ。心ある家臣は、皆それをわかっている)
フェリクスの署名を見るなり何やら考え込み、やがて肩を竦めて指先を切り出した貴族たち。
腹の内を見せぬ古狸と、卑怯者の狐のような兄王との間に、確かな絆を感じたルーカスは、ちらりとフェリクスを見やった。
なぜ彼が、エルヴィンの粗略な謀反に乗ったのか。
その理由も、この件が落ち着き次第、白状させてみせる。
「ただいまー!」
「『種蒔き』は完了したよ」
そこに、リーゼルやホルストを筆頭に、分担を終えた大罪人たちも続々と帰還してくる。
彼らは一様に、その瞳に興奮の色を浮かべていた。
「今、助太刀がてら近隣のいくつかの採取現場を見てきたんだけど……あたし、ちょっと肩透かしを食らったわよ」
「話を聞いた人たちが、皆躊躇いもなく血を差し出していたよ。魔王を覚醒させるって言うのに」
彼らは、部屋の奥で儀式の準備を進めていたエルマに近付き、くしゃりとその髪を掻き交ぜた。
「エルマ。……やるじゃない」
無心で祭壇を形成し、衣装を
「……本当に、皆さまが、協力してくださって……?」
「ええ、私も見ましたよ」
「俺も、道を、整えるなり、何十人か、早速こちらに、向かってくるのを、見た」
モーガンやイザークも頷くと、エルマは目を見開いた。
人々に助けを乞うとは決めたものの、本当にここまでしてくれるものとは思っていなかったらしい。
「…………」
エルマは不意に胸元を押さえ、ぽつりと何かを呟きかけたが、それよりも早く、居室に一斉に賑わいが押し寄せた。
「おい! 者どもが大挙してきて、門の前で膨れ上がっているぞ! 整列のための人員を寄越さぬか!」
ばん! と扉が開き、門番役を引き受けていたクレメンスが血相を変えて踏み入ってくる。
かと思えば、
――バサバサバサバサバサ!
「きゃっ!」
窓からは血を携えた伝書鳩が一斉に飛び込んできて、勢いを制御しきれず壁にぶつかった。
時を同じくして、窓の外では、雨の音に紛れて、何かの唸りが聞こえはじめる。
「…………? 地鳴り?」
どこかが土砂崩れでも起こしたのかと、眉を寄せながら窓に近付き、
「――……!」
エルマは、小さく息を呑んだ。
窓の下、監獄の門から森に続く道は、人で溢れかえっていた。
「エルマエル様ー! あたしの血も使ってくださいよー!」
「お母君、大丈夫ですかー!?」
「フレンツェルに来てたんなら、教えてくださいよもー!」
雨にくぐもった音は、地鳴りなどではなく、人々の声であった。
「……は、早く、彼らを、……屋根のある所に、……タオルと飲み物を――」
珍しく言葉を噛みながら、呆然と呟くエルマの背後で、今度は誇らしげな女性の声が響いた。
「事情を説明したら、直接届けると言って聞きませんでしたの。これからまだまだ来ますわ。フレンツェルからだけでなく、王都からも、近隣の国々からも」
デボラだ。
彼女は、雨の中走り回ったのだろう、頬にまで泥を飛ばした姿で、にっこりと笑った。
「陸路で来る彼らの対応は、わたくしと――あの門番はなんて言いましたっけ、ええと、クレメンス? 彼にお任せくださいませ。エルマ様はそれ以外に備えていただかないと……ほら、続々参りますわよ!」
指差した先で、鳩が一斉に
雨のように次々と落下する小瓶を、エルマは咄嗟に――かつ華麗に受け止め、それから、こぼれそうなほどに目を見開いた。
小瓶には、どれもカードや便箋、慌てて手繰り寄せたと思しき紙切れが添えられていたからだ。
“愚息は少しは役立っているかしら? 離宮の住人全員分の血です、取り急ぎ”
“エルマお姉様、このクロエの血もお役立てくださいませ。全寮生とその友人の血もすぐに”
“料理人たちとその家族の血液は、追って。今度、マグロ釣りに行こうぜ”
“孤児院の子どもたちも協力してくれました。今度その輸液保存技術をご教授ください”
“ミューズよ。今宵の夜会は、急遽、ミューズの聖母を救うためのチャリティーコンサートにしてしまったよ。そのうち、僕の演奏会にゲスト出演してくれると嬉しい”
筆跡も、言語もばらばらのメッセージ。
けれどそれは、まったく気負いなく、実に親身で、温かだった。
――ドドドドド……ッ
「第二陣、到着!」
馬車と戦車を駆って、荷台いっぱいに詰めた小瓶が、今また到着する。
続々部屋に運び込まれるそれらにも、ある物はリボンが巻かれ、ある物は裏紙が貼り付けられと、何かしらの言葉が添えられていた。
“ツレがいつもお世話になっています”
“外科手術で息子を救っていただいてからずっと、あなたのファンでした”
“お噂はかねがね! 今度私も侍女の詰め所を覗きに行ってもいいですか?”
“妻がよくあなたの話をしています。お母君、どうかご無事で”
知り合いもいれば、そうでない者もいる。
顔も、名前すら知らない者もいる。いや、そうした人物の方が多い。
だというのに、彼らはおそらく、ただ「自分の大切な相手が頼んできたから」というだけで、エルマにぽんと、血を分けて寄越そうとしている。
夜中に叩き起こされたというのに。
魔力を引き出すための儀式に使うと、聞いたはずなのに。
「…………っ」
エルマは髪ごと巻き込んで、両頬を押さえた。
一度ぎゅうっと目を瞑り、それから片方の手を伸ばし、近くに来てくれたイレーネの服の裾を引っ張った。
「……イレーネ。こ、これ、ですか……?」
俯いたために、さらりと黒髪が流れ、真っ赤に染まった頬を露わにしてしまう。
エルマは、夜明け色の瞳を潤ませて、声を震わせた。
「先ほどから、心拍が上昇して収まりません。これが、『トゥンク』ですか?」
おずおずと上げた顔は、縋るようにしてイレーネを見つめた。
「この、心臓が震えるような感覚は……なんですか?」
絶世の美少女に正面から覗き込まれ、イレーネは一瞬息を呑んだが、すぐに態勢を立て直すと、ふふんと笑った。
「――教えてほしい?」
「はい……っ」
「……教えてあーげない」
えっ、とショックを受けた顔になった親友を、イレーネはにやりと小突いてみせた。
「ただね。それはとても『普通』で……素晴らしい感情だ、とだけ言っておくわ」
エルマは目を瞬かせ、頬を染めたまましばし黙り込む。
軽く握った両手を胸に当て、初めてそこに芽生えた感情を味わうような彼女を、この時ばかりは大罪人たちも表情を緩めて、温かく見守っていた。
「――……もし、あの時……」
同じくやり取りを見ていたテレジアが、ぽつりと呟く。
小さな声を、たまたま近くにいたフェリクスが気付き、
「なにか仰いましたかー、王太后陛下?」
と声を掛けたが、彼女はすぐに首を振った。
「いや、なんでもない。今は儀式のことだ」
テレジアはいつもの気の強そうな様子を取り戻し、顔を上げると、どんどん積み上がってゆく小瓶の山を見つめた。
ギルベルトの部屋はかなり広かったはずだが、このままではすぐに埋まってしまう。
そろそろ次の段階に移る頃合いだろう。
テレジアがちらりとエルマに向かって視線を向ければ、それに気付いた彼女は物思いを切り上げ、はっと表情を引き締めた。
ルーカスたちも、デボラも、その場の大罪人たちも、一斉に頷く。
「では……儀式の準備を、進めましょう」
エルマは一歩進み出ると、握っていた拳を開き、小瓶のひとつに手を伸ばした――。