21.「普通」のピンチ(3)
エルマにとって、母とは世界そのものだった。
監獄の女王たるハイデマリーは、誰より美しく、誰より力強く、誇り高く、愛情深い。
彼女がその繊手を自分に向かって優しく伸ばすのを、エルマは何より喜んだし、彼女が自分に向けるいかなる言葉も、疑いなく呑み込んだ。
歌えば大地が動くのも、見つめれば人が
だって、母がそう言うのだから。
(でも……)
性懲りもなく壁を突き破ろうとする蔓を手早くまとめながら、エルマは瞳を揺らした。
「お母様。この状況は、『普通』のことですか……?」
視線の先には、眉根を寄せたまま眠る母の姿があった。
部屋を取り囲んでいた植物たちは、エルマが適切に「処理」した。
具体的には、狂戦士の膂力で引きはがし、まとめ上げ、あるいは狂博士のように投薬で成長の勢いを弱めた。
意外にも、暗示を掛けるように植物に向かって囁くと、いくらか従順になったりもした。
結局エルマは、寝台に横たわるハイデマリーの傍らに立ち、腕だけは激しく植物と攻防を繰り広げながら、じっと母の寝顔を見つめている。
「お母様。私、……よくわからなくなってしまいました」
ハイデマリーを取り囲むように植物が異常生育するなど、いかにも普通でない光景だが、しかし「願えば山も伸びる」と言っていた母の言に照らせば、もしかしたらこれも「普通」の範疇なのかもしれない。
いずれにせよ、初めて見る母の苦しそうな顔は、エルマの不安をひどく掻き立てた。
「お母様。どうしたらよいのですか。私は何をすれば――」
いよいよ彼女が、置き去りにされた子どものように目を潤ませかけた時、
「…………エル、マ」
ふ、と、唐突にハイデマリーがその瞼を持ち上げた。
「お母様!」
「……ねえ、聞いて。……実は、わたくし……ドラゴンは、塩で頂くのが普通と聞いて、……驚いたわ」
「……目覚めざま、声を震わせて告白する内容はそれでよいのでしょうか、お母様」
エルマは戸惑った。
だが同時に、この全く周囲や状況に頓着しない母が、いかにもいつもの母という感じがして、妙に安堵もした。
ハイデマリーは、何ごともなかったように前髪を掻き上げる。
横たわったままエルマを悪戯っぽく見上げ、まるで、寝室に忍び込んできた小さな子どもを窘めるように、笑んだまま軽く睨んでみせた。
「どうしたの、そんな不安そうな顔をして。可愛いお目目が、潤んでいてよ」
「それは、だって……」
「ねえ、心配しないで。こんなのよくあること。いたって、普通のことだわ」
その声は、鈴を鳴らすよう。
口調もいつもの滑らかさを取り戻し、窮地にあることなど欠片も感じさせない。
ハイデマリーは、娘がなにかを言い返す前に、軽やかに言葉を紡いだ。
「そうそう。告白といえば、もうひとつ。あのね、わたくし、実は聖女候補だったのよ。それで、ただでさえ多い聖力が妊娠のせいで暴走して、もうすぐ死ぬの」
あまりに何気ない言い方と、衝撃的な内容のギャップに、エルマは一瞬硬直した。
「……え?」
「あとね、あなたは本当に魔族……もっと言えば、魔王の娘よ。寝起きだとか、軽くお酒を飲むと、うっかり瞳が赤くなってしまうから、気を付けて。ただ、お酒を飲みすぎると、今度は聖女の血が暴走してしまうから、そちらにはもっと気を付けたほうがいいわ」
ハイデマリーは小気味よく話す。
そこには、感傷的な過去の語らいも無ければ、詳細な経緯の説明も無かった。
彼女はただ、端的に事実だけを述べ、娘が呆然としているのを見て取ると、淡く苦笑を浮かべた。
「……ごめんなさいね。死の床で何かを言い残すという経験をしたことが無いから、勝手がわからなくて。計画では、あなたに看取られることなく死ぬつもりだったのだもの。実は、ちょっと動揺していてよ」
その言葉を聞いた途端、エルマは、これまでに意識もしていなかった細い糸が、ぴんと一本に繋がるような感覚を抱いた。
「……お母様。もしかして、私を監獄の外に出したときから……
「…………」
「それで、シャバの『普通』がわかるまでは、帰って来てはいけないなどと、……無理難題を仰ったのですか?」
ハイデマリーは緩く笑んだまま、答えない。
だがもし、この場にリーゼルがいたなら、きっと息を呑んでいたことだろう。
――富と権力に身を固めた王でさえ、寿命には勝てない。親は、子どもよりも長くは生きていられないのだと。
かつてハイデマリーが語った、エルマ放逐の動機。
それは単なる想像などではなく、こんなにも明確な「予知」に起因したものだったのかと。
ハイデマリーはゆっくりと瞬きをすると、やがてまっすぐにエルマを見上げた。
「わたくし、涙の別れというのが好きではないの。だから、これから起きることを、ただ伝えさせてちょうだい」
許可を窺うようでありながら、それは実質的な命令だ。
ハイデマリーはやはり、どこまでも女王然とした口調で、滑らかに話し出した。
「今わたくしの体の中では、凄まじい量の聖力が渦巻いているの。一部は溢れてこの有様、わたくしにみだりに触れたら、きっとあなたの聖力も『覚醒』してしまうわ。だから、なるべく触れないで」
まるで、商品の取り扱いを説明するような、淡々とした物言い。
瞳には力があり、声には張りがある。
けれど――ハイデマリーは先ほどからずっと、寝台から身を起こさないでいる。
いや、エルマにだけはわかった。
彼女は、起き上がることすらできないのだ。
「今は、……なんていうのかしら、気力で抑え込んでいるわ。あなたに無様な姿など、見せたくないもの。でも、それもきっと夜明けくらいまでだわ。私の体は限界を迎えて、そこで老婆の姿となって、こと切れる」
そこでハイデマリーは、花が綻ぶように美しく笑った。
「けれど、それでいいの。それでようやくこの暴走が終わって、お腹の子が無事に出てこられるわ。本当は今にでも腹を裂いて出してあげたいところだけれど……いかんせん、切っても、切る傍から塞がってしまうのよね」
軽やかな声色とは裏腹に、その藍色の瞳には、覚悟を決めた者だけが持つ凄みがある。
彼女は、何も言えないでいるエルマに、そっと手を伸ばした。
「あなたが魔力持ちだったから、わたくしはあなたの出産を生き延びた。それからなんと十五年も、おまけの人生を享受してきたのよ。幸運な女でしょう? ……ねえ、泣かないで。不安にならないで。大丈夫、こんなのよくある――至って『普通』のことだわ」
だが、その指は、触れるなとの言葉の通り、頬に届くことはない。
涙が伝いはじめたエルマの頬を、白い指は辿ることなく、静かに寝台へと戻った。
「親が子より先に死ぬのは『普通』のことよ。出産で命を落とすのも、ままあること。死んだ母親が、子どもの思っていた姿よりだいぶ年老いていたというのも、まあ、よく聞く話ね。だからエルマ。怖がらなくていいのよ」
穏やかな声、美しい笑み。
母の語る世界は、いつだって優しい。
彼女が今ここで示した「普通」を、これまでのように呑み込んでしまえば、きっとエルマは救われるのだろう。
だが。
「お母様――」
「そうねえ、驚くのは仕方ないわ。わたくしも、自分の思っていた『普通』と、周囲のそれが違うと知るたびに、とてもびっくりするもの。ドラゴンに塩、とかね」
「お母様」
「だからエルマ、泣かないのよ。あなたも外の世界で、いろいろな『普通』に触れて、驚いてきたでしょう。それと一緒よ。驚くかもしれない、でも不安になる必要はない、だってそれが『普通』なのだから。信じて、受け入れなさい。そうしたらお母様は、きっとたくさん、あなたを褒めてあげる」
エルマがシャバで身に付けてきた「普通」を披露するたび、嬉しそうに目を細めていたハイデマリー。
きっと彼女は、エルマが素直にこの「普通」を――母の死を受け入れてみせたなら、嬉しそうに目を細めるのだろう。
世界一麗しい笑顔で。
死の床にあっても。
「お母様……ですが」
それでも。
エルマがきゅっと拳を握りしめた瞬間、時を同じくして、居室の扉が開いた。
「エルマ!」
ルーカスだ。
彼は、晴れ渡った空のような碧い瞳に、希望の光を浮かべて叫んだ。
「至急図書室に来てくれ! 母君を助ける手立てが、きっと見つかる!」
***
広大な獄内を移動する時間を、ルーカスは経緯の説明に充てようとした。
ともに夜の廊下を走りながら、彼は慎重に口を開く。
「王太后陛下の知見によって、母君の症状に見通しがついた。にわかには信じられないかもしれないが、エルマ、おまえの母君は実は――」
「聖女候補だったのですよね。それで、大量の聖力が妊娠のせいで過剰回復状態を生み出し、今に至ると。先ほど本人から聞きました」
「そ、そうか。それで、対応策なんだが、膨大な魔力で聖力を削ごう、ということになった。そこでエルマ、おまえの協力が不可欠なんだが、なぜおまえかと言うと――」
「私が魔王の娘でもあるからですよね。先ほど聞きました」
「聞いたのか!? というか魔王だったのか!?」
衝撃の出自を、なるべくソフトに伝えようというルーカスの配慮は、エルマの淡々とした相槌によって全力で投げ捨てられてゆく。
動揺の欠片も見せないので、ルーカスはちら、とエルマの横顔を一瞥してみたが、彼女は可憐な口を引き結び、廊下を爆走するだけだった。それだけ、切羽詰まっているのだ。
それでも、なんとか解決の糸口は見つかった。
あとは、大陸中のすべての叡智が詰まった図書室で、常軌を逸した「検索機能」を用いて書物を紐解けば、すぐに魔族的覚醒の方法が判明するはずだ。
エルマたちは転がり込むようにして図書室の扉を開けたが、
「皆さま――」
しかし、先に到着していた大罪人たちが、一様に難しい表情を浮かべているのを見て、中途半端に言葉を切った。
「……どう、したのですか……?」
「エルマ。ちょっと待ってて。今、みんな必死で考えてるから」
エルマに気付いたホルストが、代表して答える。
しかし、手当たり次第に書物をひっくり返し、苛立たしげに髪を掻き上げる彼の様子は、事態が緊迫しているのだということを示していた。
「――おい、どうしたというんだ、イレーネ?」
「それが……」
隅の方でともに関連書物を広げていたイレーネに、ルーカスがこっそり問うてみれば、彼女もまた追い詰められた表情で顔を上げる。
「魔力を覚醒させる方法というのが、想像以上に難しそうで……」
イレーネが語るには、こういうことだった。
魔力を覚醒――つまり、体内に潜伏していた魔力的素養を開花させるには、いくつかの方法がある。
たとえば、高位の魔族が魔力を用い、覚醒を促すという方法。
だがこれは、最後の魔族であったというエルマの実父が死んでしまっている以上、望むべくもない。
ほかには、
だがこれは、エルマが聖女の娘でもあり、下手な「窮地」ではむしろ彼女を聖力方向に覚醒させてしまうという点で――これは、アウレリアでの事件が保証済みだ――、却下された。
とすれば、残るはあと一つ。
「厳密には、中級魔族を、魔王として祀り上げるための儀式、ということらしいですけど……」
そうイレーネが前置きして告げた内容に、ルーカスも、横で聞いていたエルマも、目を見開いた。
「『魔力覚醒を願う百万の生き物の、生き血を捧げる』……?」
「ええ。どうやら、血の量は一滴ずつでもいいようなのですが、『数』が必要のようで」
イレーネが深刻な表情で頷くと、横で気乗りしない様子でページをめくっていたフェリクスが、皮肉気な笑みを刻んだ。
「ま、血による
なんでも、上級魔族の血であればそれだけで千滴に相当するのだという。
ルーカスははっとして、異母兄に食いついた。
「では――人間は!? 人間の血なら何滴に相当するんだ!?」
「百滴。つまり、人間だけでこの事態を乗り切ろうとするなら、一万人の血を取って回らなくてはならないってことだね。それも、『魔力覚醒を願う』人間の、ね」
「…………」
ルーカスは黙り込んだ。
百万よりはかなり難易度が下がったようだが、それでも、とても現実的な数ではない。
「一万の……。それも、夜明けまでに……」
エルマが呆然としたまま呟くのを聞いて、大罪人たちはますます表情の険しさを深めた。
そう。
この条件とは、この常軌を逸した彼らの、たった一つの弱点を突くものであったのだ。
それ即ち――外界との接点が、少なすぎるということ。
「自発的な協力を仰ぐ」という点で、真っ先に頼りにするのはリーゼルの洗脳や、モーガンの詐欺術であるが、複雑で繊細な精神操作を必要とするこれらは、少人数にしか対応できないうえに時間が掛かる。
イザークやギルベルト、またホルストは、一夜で何百という魔獣からでも血を奪い取ることができるだろうが、「奪う」のでは意味がないし、それでは数が足りないのだ。
彼らはまた、この監獄から各国の要人に黒いパイプを張り巡らせてもいるが、支配と恐怖で結ばれた彼らを利用して、一体どれだけ「覚醒を願う」血が得られるものか。
あらゆる手立てを使ったとしても――絶対的な量が、足りていなかった。
不意に本を投げ出したリーゼルが、きつく眉根を寄せて親指を噛んだ。
「不甲斐ないわ……あたしや【
「我々の暗示や詐欺が効力を持つのは、対面だと五百人ほどがせいぜいですし……」
「魔獣の血抜き、くらいなら、わけもない、のだが……自発的と、なると……」
「俺の聖剣では、覚醒に協力的であろう魔獣に限っては殲滅させてしまう」
「血液を新鮮な状態で輸送する手段には心当たりがあるけど、協力的な対象者だなんて……僕、友達なんて一人もいないのに」
大罪人たちは悲壮な表情で俯いている。
「ていうかそのスキルの方が、僕としてはすごい気がするんだけどー」
「同感ですが、彼らの絶望もまた理解できますわ」
フェリクスとイレーネはこそこそと囁き合った。
そう。
いかに日頃の能力が高くても、彼らが救いを必要とする場面で活かせなければ意味が無いのだ。
むしろ、普段なんでも容易に解決できてしまう彼らだけに、今は一層無力感に打ちのめされているのだろう。
現にそれは、いつも万能なエルマにおいても顕著だった。
「…………」
エルマはその美しい顔を紙のように白くし、言葉もなく立ち尽くしていた。
が。
「――なんだ」
その時、やけにはっきりとした声が、図書室の空間に響いた。
「それほど具体的に、状況とこちらの手勢がわかっているなら、やることは限られているじゃないか」
沈んだ空気を振り払うようにして口を開いたのは、ルーカスであった。