19.「普通」のピンチ(1)
「さぁて」
紅茶のカップを置くと、ホルストはにやりと笑って立ち上がった。
「それじゃ今度は、僕が確かめさせてもらおうかな。君が、エルマの『友人』にふさわしいかどうかを」
笑みとは言っても、琥珀色の瞳は剣呑に細められている。
全般的に関心が薄いモーガンや、諸方向に頓珍漢なイザーク、基本的には良識のあるリーゼルと異なり、ホルストは、大切な妹に近付く
「……お手柔らかに」
「はは。自分より十も年下の男相手に、本気で殺しに掛かるほど大人げなくはないよ。常識のない他の囚人とは違って、僕はいつだって、初夏の空みたいに、穏やかで広い心を持つ人間さ」
――ピシャーン!
ちょうどその頃、破られた壁の向こう――初夏の夜空では、唐突に雷が落ち始めた。
バケツをひっくり返したような豪雨のおまけ付きだ。
大破した壁から吹き込む激しい雨に、ルーカスは顔を引き攣らせながら理解した。
なるほど、初夏の空だ。
「おい、壁に穴が開きっぱなしでは、室内が水浸しになるではないか」
とそこに、獄内の衛生管理委員であるらしいクレメンスが怒りの呟きを漏らす。
するとギルベルトは「ああ」と頷き、
「そうだな、クレメンス。ぜひ壁を塞いでおいてくれ。一分以内で構わない」
気もそぞろに無茶ぶりをした。
ちらちらと扉を振り返っているところを見るに、先に引き上げた妻の様子が気になっているらしい。
一方で、「代わりにしっかりと見届けて」という彼女の言葉に、身動きが取れないでいるようだ。
「一分!? ふざけるな!」
水が高いところから低いところに流れるような自然さで不条理な目に遭うクレメンスだったが、それについては誰もが自然のこととして受け止め、さりげなく視線を逸らした。
「さて、壁の修理は【虚飾】に任せることにして。ルーカス君には、なにをしてもらおうかなぁ?」
ホルストは、身にまとった白衣のポケットに行儀悪く手を突っ込み、ゆっくりとこちらに向かってくる。
中肉中背、知的な相貌。
イザークのように物理的な強さは感じられないが、その佇まいには、狂気にも似た迫力がある。
ルーカスは知らず息を呑み、思考を巡らせた。
たしかこの人物は、幼少時から奴隷を買い集め、人体実験を繰り返したかどで投獄されたはずだ。
エルマの高水準の医療技術や発明は、おそらく彼から伝授されたもの。
ルーカスの脳裏に、これまで目にした異常なスキルが、走馬灯のように蘇った。
(どれが「課題」となっても到底こなせないが……たぶん、治療や、解剖対決か……?)
そうであってほしいと彼は願った。
医療の心得は無いが、騎士としての野営経験から、同僚の手当てや獣の解体くらいなら、一通りこなしたことがある。
が、ホルストはルーカスの目の前までやってくると、にこっとはしばみ色の笑みを細めて告げた。
「じゃ、人体蘇生薬の開発対決ってことで」
「あなたは身内の友人に何を求めてるんだ!?」
あまりの無茶ぶりに、思わずルーカスは絶叫した。
そうだ。
先のアウレリア行きで、根を断たれた植物や、ミイラ化した人間をよみがえらせた薬を作ったのもまた、彼なのであった。
だが冷静に考えて、普通の人間がそんなものを精製できるはずがない。
ルーカスは当然の非難をしただけだったが、それを聞いたホルストは、真夏の生ごみを見るような目で、こちらを見返してきた。
「え? このくらい普通じゃない? まさかできないの? 曲がりなりにも友人を名乗るんなら、エルマに脳と心臓しか残ってなくても蘇生できるくらいの甲斐性がなくてどうするの? カスなの?」
「いやそれは甲斐性の範疇ではないというか――」
「ていうかエルマに髪一筋でも傷を負わせた時点で、その環境を許した君を僕が殺してるわけだけどね、はは」
「めちゃくちゃだ!」
暴論を振りかざすホルストに、ルーカスは青褪める。
が、これまでこんな時に、彼女なりの「常識」をもって制止してくれていたエルマは、今や沈黙に徹するだけだった。
「ね、ねえ、エルマ……。なんだかお兄様、殿下にすごい無茶ぶりをなさってるようだけど……いいの?」
見かねたイレーネがこそこそと囁きかけたが、
「…………」
エルマは夜明け色の瞳を揺らして、黙り込むだけだ。
口を引き結んだ姿は、不機嫌、とも取れた。
イレーネは困惑して眉を寄せた。
「ねえ、待って。あなた、どうしてそう怒っているのよ」
一応、文脈としては、エルマの不機嫌の原因は理解できる。
エルマはかつてルーカスに好意を告げられていた。けれど同じ口で、彼が簡単に「女」をあしらうところを見てしまった。
だから、告げられた言葉が信頼に足るものではなかったとして機嫌を損ねている。
甘い囁きを喜んでしまった自分を恥じているのだ。
だが――それではまるで、エルマがルーカスに対し、「普通」に恋をしているようだ。
ついさっきまで、姉の誘惑が上手くいくようにと、協力姿勢すら見せていたというのに。
この突飛な友人は、今この瞬間も、やはり突飛な思考を展開しているのかもしれない。
一足飛びに「もしや、焼きもち!?」と喜ぶのが躊躇われ、イレーネは慎重に問うた。
「まさか、オネエ様の監獄式誘惑が通用しないどころか、殿下にやり込められてしまって、身内が恥をかかされたと思ってる、とか……?」
が、それに対するエルマの答えは意外なものだった。
「……いえ」
彼女は難しそうに眉を寄せて、言葉を選ぶように、珍しくもごもごと口を開いた。
「たしかに、それも少しはあるのですが。……恥をかかされたのは、私のほうと言いますか……」
話しながら、自らの胸に問うているようだ。
「殿下があまりに女性慣れしているので、……なんだか、もやもやいたしました。……いえ、元より姉の監獄式誘惑は、殿下にはあまり通用しないだろうとは思っていたのですが、まさかこれほどだなんて。あるいは、あっさり陥落していただいた方が、よほど納得できたのですが、これではまるで……」
エルマはそこでまた言葉に悩むと、ちょっと唇を噛んで付け足した。
殿下は、本当に女たらしでいらしたのですね。
イレーネは思わず息を呑んだ。
(それって……)
続く言葉を、なんとか胸の内で飲み下す。
代わりにイレーネは、親友をじっくりと見つめた。
胸の前で片手を握ったエルマは、時折躊躇いがちにルーカスを見やる。
彼の姿を映す夜明け色の瞳には、未知の男性を見るような緊張と困惑が滲んでいた。
恐らく、エルマは初めて、ルーカスのことを
「王城にいる一番身近な異性で王弟で上司で女たらしで苦労性の友人」という、属性がただ無機質に連なっただけの存在ではなく、大切な家族と対等に渡り合う、生身の人間として。
だからこそ、「女たらし」という、ただの情報でしかなかった属性が、今こんなにも胸に迫るのだ。
彼女にとって唯一の世界だった監獄、その外にいる
「私……すみません。自分でもなにをこんなに戸惑っているのか、よく――」
「トゥンク……!」
イレーネはがばっと親友の腕を取った。
「はい……?」
「いい! いいわエルマ、実にいい! 考えなくていい、感じればいいのよ! よくって、私が教えてあげる、それは歓迎すべき心の変化よ!」
「え……」
目を瞠ったエルマに、イレーネは興奮して捲し立てた。
「あなたが今なにに目覚めようとしているか、たぶん、私は答えを知ってるわ。でも、今は言わない。だって、それはあなたが感じ取るべきものだし、きっとあなたならわかるはずだもの」
恋だ。
恋をしている。
この突飛で異常で、けれどとびきり魅力的で大好きな親友が、年頃の少女なら誰もが経験する、「普通」の恋をしようとしている。
イレーネは答えを吹き込んでしまいたいのをぐっとこらえて、代わりにぶんぶんと相手の両腕を振った。
「その時が来たなら、きっとあなたの胸の音がトゥンク……! と高鳴って教えてくれるわ。よくってエルマ、ドントシンク、フィールトゥンク! 私からは以上よ」
きりりと締めくくると、エルマはぽかんとした顔で相槌を打った。
「……はあ」
興奮の先走ったイレーネの解説を、さっぱり理解できなかったようだ。
しかし、イレーネはくふふと笑い、久々の先輩気分を堪能した。
「うーん、部下二人が制止もせず盛り上がっている間に、着実にルーカスは追い詰められていってるんだけど。どうしたもんかねー、これ」
と、やり取りを横目で見ていたフェリクスは、相変わらずのんびりと独白する。
彼らの前では、哀れ誰にもフォローに入ってもらえなかったルーカスが、にこやかにホルストに拉致られようとしている。
なんでも、この部屋では十分な開発施設が無いため、地下の研究室に移動するとのことだ。
密室で、殺人を屁とも思わぬ狂博士と一緒。
悲報でしかない。
ルーカスはぐいぐいと部屋から連行されかけていたが、ホルストが扉を引くよりも先に、乱暴に反対側から蹴破る者があった。
「誰か――おまえは、医師か!?」
白衣を着たホルストと目が合うなり、そう吼えるその人物は、テレジア。
これまで、獄内の空気に圧倒され気味とはいえ、落ち着いたたたずまいをしていた彼女が、今やただならぬ形相を浮かべていた。
「どうしたの、王太后サマ。話し相手もお役御免になっちゃった? 僕たちはこれから――」
「来てくれ! あの女が倒れた」
短い叫びを聞き、ホルストがぱっとルーカスを解放する。
彼は恐ろしいほど真剣な顔で、即座に頷く。
「わかった。出血は? 意識はある?」
その足は、既にハイデマリーの居室に向かいつつある。
だが、テレジアの唸るような言葉に、眉を寄せて振り返った。
「違う、産気づいたのではない。妊娠による症状ではないのだ。いや、厳密には妊娠による症状だが――」
「は?」
要領を得ない説明に、ホルストが苛立たし気に聞き返すと、テレジアは焦れたように告げた。
「意識はあったが、今はもう途切れているかもしれない。出血はない。負傷したわけではない――むしろ
「…………は?」
ぽかんとするホルストに、テレジアは絶望の声を漏らした。
「おまえたちでも、知らないのか」
「知らないって、なにを?」
不穏さを感じ取った周囲が、徐々に表情を強張らせてゆく。
未だ穴の開いたままの壁の向こうで、また雷鳴が轟いた。
それはまるで、
テレジアしか知らない、あの雷雨の日。
激しい雨、笑みの下に隠された秘密と諦念、大きく膨らんだ
真っ白な閃光と、耳を
「……聖力過剰だ」