▼行間 ▼メニューバー
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「普通」は愛おしい

128/169

18.「普通」の品定め(8)

 ルーカスは器用に片方の眉を上げ、小首を傾げてみせた。


「貝殻の中に収めるとは、洒落たものだ」


 軽やかな褒め言葉。

 けれどそこには、気迫、のようなものが滲んでいる。

 しん、と静まり返った空間で、「なんか……」とフェリクスは驚いたように囁いた。


「空気、一気に変わったね……?」

「ええ……。ええ……! 見えました。私にも見えましたわ、殿下が受けから、一気に攻めへと転じた決定的瞬間が……!」

「あー、『守り』から攻めに、じゃないんだ?」


 礼儀上フェリクスがそのあたりを突っ込むが、イレーネの耳はそれを拾おうとはしなかった。

 こつ、と靴音を立ててリーゼルとの距離を詰めてゆくルーカスから、目が離せなかったからである。


「な……、あんた、いつから香の存在を見破ってたの……!?」

「さて。いつからだと思う?」


 容易に御せると思っていた相手が、にわかに肉薄してきたことでリーゼルが動揺すると、ルーカスは薄く微笑む。

 そればかりか、彼はと……、とテーブルに片手を突いて、その長身で、座ったままの相手を腕の中に閉じ込めるような行動に出た。


「こ、これは……っ! 壁ドンを応用した卓ドン……! 物理的構図からも、自分が覆いかぶさる側だと、相手に示しているわけですわね!?」

「真相をすぐには明かさない辺り、なかなか策士だねえ」


 一気に優勢に持ってきたルーカスに、実況・解説者と化したイレーネとフェリクスは目を輝かせる。

 どう返すべきかをリーゼルが逡巡した、そのわずかな隙に、彼はぐっと顔を近付け、にやりと笑ってみせた。


「これでも、強引な女や毒殺の危機を、二十年近く回避してきたものでね。媚薬や色恋系の暗示の類には、ある程度耐性があるんだ。コツは単純。必要以上に近付いてきた相手の前では、飲まない、息を殺す、目を逸らす」


 そうしてルーカスは、ワインを染み込ませた小ぶりなタオルを掲げてみせた。


「申し訳ないが、この怪しげなワインは、『木綿、その先へ』に飲ませてしまった。さすがの吸水性だ」

「なんと……! 常に掛け算の左側の地位をキープしてきたドSタイプの絶対攻者(ガチ攻め)でないと浮かべえないという『キング・スマイル』が、まさか殿下から発動する日が来るなんて!」

「さりげなく監獄製のタオルを取り入れて意趣返しとは、一抹の腹黒さも感じさせるねえ」


 意外にも息の合った二人の実況ぶりだ。


「そんな……あの香に耐性があるほどだなんて……」と呆然と呟くリーゼルに、ルーカスはなぜか遠い目になって微笑んでみせた。


「誘惑への免疫は、この一年で随分鍛えられた」


 なんという説得力。


 一年という言葉の意味を正確に理解したイレーネは、思わず目頭を押さえた。

 その脳裏には、上目遣いだったり頬を染めたりするエルマと、彼女に右手を伸ばしかけては左手でそれを封じるルーカスの姿が浮かんでは消えた。


「殿下……っ。私たちの気付かぬ間に、なんと過酷な鍛錬を重ねられていたのか……っ」

「そりゃあ、強くもなるよねー……」


 さすがのフェリクスですら同情的な声色だ。

 だが、もちろんそれが聞こえるはずもないルーカスは、「実に残念だ」と続け、不意に椅子に腰を下ろした。


「俺に声を掛けてくれた時、ほっとしたのは本当だったのに。あなたは、俺を試すつもりでしかなかったなんて」

「え……?」


 急に緩んだ攻勢と、思いもかけぬ内容に、リーゼルが瞳を揺らす。

 すると、ルーカスは拗ねたように肩を竦めた。


「薬剤入りのワインではなく、素朴な味わいの酒を飲み交わしたかった。暗示の香ではなく、あなた本来のまとう香りを知りたかった」


 それからぐ、と身を乗り出し、悪戯っぽくリーゼルの顔を覗き込んだ。


「それは、俺だけのわがままだろうか?」

「一気に懐に攻め入ったぁあああああ! 絶対攻者からの、このワンコ系スマイルのギャップは大きい! ほんのり腹黒風味のスパイスがまた堪らない! 殿下は二極のスマイルを持つ男……っ!」

「効果は覿面(てきめん)だ。弟系に弱かったようだね」


 フェリクスの冷静な解説の通り、それが決定打となったようだ。

 リーゼルはばっと赤面し、席から飛びのくようにして距離を取った。


 それを見て、ルーカスは少し肩の力を抜く。

 ようやく、彼だけの力でもぎ取った勝利に、喜ぶというよりは安堵したようだ。


 が。


「どうだ、見ていたか、エルマ――」


 誇らしげな表情も露わに、くるりとこちらを振り返ったルーカスは、しかし、エルマの様子を見て、中途半端に口を閉ざした。


「エルマ?」

「…………」


 エルマは、難しい顔で口を引き結んでいた。


「……さすがでございます、殿下」


 ややあって、ぎこちなく褒め言葉を紡ぐ。

 けれど、その夜明け色の瞳は、どこか、傷付いたような表情を浮かべていた。


「シャバ慣れしていない姉にも、恥をかかせぬ完璧なご対応」


 それから付け加えた言葉に、ルーカスは顔色を失った。


「私めに好意を囁いてくださったのも、その溢れ出る騎士道精神ゆえだったのですね」

「…………!」


 どうやら、女たらしの真髄を見せつけたルーカスに対し、称賛の念よりも、不信を抱いてしまったらしい。


「気を遣わせてしまい……申し訳なく存じます……」


 かつてエルマに、本心から好意を告げたことすら、「シャバ慣れせぬ自分に、気を遣って好意的に接してやった」と解釈されてしまっている。


「おい……待て、待ってくれ、それとこれは違う。違うに決まっているだろう……!?」

「考えてみれば、殿下は呼吸するように甘言を囁ける御仁なのでした……。分不相応にも、強い好意を捧げられたと勘違いしてしまった私の傲慢、なにとぞご容赦くださいませ……」


 エルマはずーんと落ち込んでいる。

 ルーカスはそれ以上に青褪めていたが、非情にも、ホルストはそれを更に追い詰めてきた。


「うっわ、最低。誰彼構わず甘い言葉をばら撒いて、それが初心な女の子を傷付けるって、まさか気付いてないわけ? まじで糞以下だね」


 勝利だ。

 これは、ルーカスがこの監獄で初めて自力で勝ち得た、堂々たる勝利のはずだ。

 なのになぜ、事態はこんなに悪化している。


 うろたえるルーカスに、モーガンは哀れみの視線を送ったが、無情にもこう告げた。


「おめでとうございます、ルーカス様。あなた様は見事、【嫉妬(リーゼル)】の誘惑をも退けられることをお示しになった。――もっとも、その結果、あなたは『友人』の地位すらも遠ざかったかもしれませんが」


 残酷な言葉に息を呑む。

 モーガンは、冷め始めた紅茶のカップを掲げ、にこりと微笑んだ。


「お次は――【貪欲(ホルスト)】が、お相手(つかまつ)りましょうか?」


 頬杖を突きながらカップに口付けていたホルストが、ふと顔を上げる。

 彼はまるで肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべ、低く告げた。


「……よろしくね?」


 ルーカス死亡決定のお知らせだった。




 ***





「まさか、おまえ……!」


 テレジアは声をかすれさせた。

 ずっと抱いていた違和感。

 その正体が、今ようやくわかった。


 美しく結い上げている銀の髪が――先ほどよりも伸びている。

 夕食会の席で初めて彼女を見た時から今までの、この短時間で、編み目が緩み、髪がほつれるほどに。


 およそ現実ではありえない光景。

 だが、テレジアはその現象に、そしてその原因に、心当たりがあった。


「まさか、おまえは――」

「あん、もう。とうとう始まって(・・・・)しまったわ」


 が、テレジアが言葉を続けるよりも先に、ハイデマリーが嘆かわしそうに首を振って立ち上がる。

 彼女は先ほどまで腰かけていたソファに戻ると、どさりと体をゆだねた。


 ほんのわずか、優雅さを欠いた動き。

 だがそれだけで、彼女が相当な苦痛を強いられているのがわかる。


 ハイデマリーはひじ掛けに突いた腕に顔を埋め、そっと震える息を漏らしたが、次の瞬間には再び顔を上げて微笑んでみせた。


「失礼、少し……息が上がってしまって。妊婦にはよくあることだわ」


 なんでもないと言うように、額にかかった銀髪を掻き上げる。

 だがその拍子に、とうとう髪の結い目がほどけ、ばさりと肩を覆ってしまった。


 今やはっきりと、髪が異様な速さで伸びていくのがわかる。

 星の光のようなそれが、ハイデマリーの腰かけるソファの座面に届いた辺りで、テレジアはぱっと踵を返した。


「――どこへ行くの」

「人を呼ぶ」

「だめよ」


 が、テレジアがドアのノブに手を掛けた途端、木の扉がどくんと脈打ち(・・・)、驚いた彼女は咄嗟に手を離してしまった。


「な……っ!」

お願い(・・・)したでしょう。雨が止むまで、傍にいて――誰も呼ばないで。見られたくないの。あなたなら、わかるでしょう?」


 ハイデマリーはソファに座り、両腕で己をきつく抱きしめながら、テレジアを見た。


「二十二年前の雨の日、妹の、あの(・・)死に姿を見たあなたならば」

「…………っ!」


 窓の外の雨音が強まる。

 同時に、暗い夜空を白い光が駆け下りていった。

 一瞬遅れて、耳を貫くような轟音が響く。

 まるであの日のような、大雷雨。


 扉の前で振り返ったまま硬直したテレジアに、ハイデマリーは優しく話しかけた。


「大丈夫。怖くないわ。あなたはそこにいてくれればいい。この部屋に満ちるものたちは、あなたをけっして傷付けはしない。……だってこれは、癒しの(・・・)力ですもの」


 ほんの少し自嘲の形に唇を歪め、彼女は続ける。

 その肌には、わずかに汗の粒が滲みはじめていた。


「雨はいずれ止む。あなたはそれまで、ただそこにいてちょうだい。他人を遠ざけ、助けを求めず、秘密を喉の奥に呑み込んで」


 再び、閃光。

 そして轟く雷鳴。

 両者のずれはどんどん狭まり、とうとう、光と音がぴたりと重なった。


 ――カ……ッ!


「あの日と同じように、……今度はどうかわたくしを隠して」


 轟音とともに地上に落ちた光は、部屋を白く染め上げる。

 光の中輪郭を浮かび上がらせたハイデマリーは、まるで聖女のように美しく微笑んでいた。


「…………、る」


 やがて、激しい雨音に紛れて、小さな声がテレジアの喉から転び出る。


「え?」

「ご免こうむる」


 聞き返してきた相手に、彼女はきっぱりと告げた。


「愛する妹だからこそ、私は彼女の死を隠したのだ。いけすかない娼婦の『願い』など――誰が聞いてやるものか!」


 ハイデマリーが大きく目を見開く。


「いいか、ここで待っていろ。すぐに人を呼んでくる。この頭がおかしくなるような事態も、頭のおかしいあの連中なら、どうにかできるかもしれないだろう」

「待って――」

「待つか!」


 テレジアは扉に手を掛け、揺さぶっても開かないとわかると、叩き、蹴り、舌打ちを漏らした。


「だめよ、行かせない」


 だが扉は頑として動かないどころか、ハイデマリーの言葉に反応し、木であった記憶を取り戻したかのように、枝を伸ばしはじめた。

 若木のような細い枝は、所々に新芽を芽吹かせながら、ノブをぐるりと取り囲んでしまう。


 もしこれが数十年の時間をかけていたならば、木の扉が自然に還ってゆくかのような、美しい光景。

 けれど今は不気味でしかないその光景を前に、テレジアは息を呑んだ。


 が、


「……これも、癒しの力なんだったな」


 低く呟くと、素早くソファセットへと引き返して紅茶のカップを取り上げる。

 そして、躊躇いもなくそれを叩き割り、


 ――シュッ!


 鋭い破片を握り、表情も変えずに己の腕を切り裂いた!


 途端に、扉にまとわりついていた「枝」が、獲物を前にした獣のように、一斉にテレジアの腕へと伸びてゆく。

 ただそれは、魔物のそれとは違って淡い光を帯び、見る間に腕の傷を塞いでいった。


「ふん、おぞましい奇跡(・・)め……!」


 テレジアはその隙を見逃さず、素早く扉に駆け寄る。

 その勢いのまま、体当たりをするように扉を押し開けた。


 扉をくぐり抜けざま、「見定めを外したな」とハイデマリーを振り返る。


「同じ罪を、繰り返す私ではないわ!」


 テレジアはそう言い捨て、雷鳴が轟く獄内を、息を荒らげながら走り抜けていった。

  • ブックマークに追加
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
ポイントを入れて作者を応援しましょう!
評価をするにはログインしてください。
5巻最終巻&コミック3巻発売!
シャバの「普通」は難しい 05
シャバの「普通」は難しい comic 03

感想を書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。