18.「普通」の品定め(8)
ルーカスは器用に片方の眉を上げ、小首を傾げてみせた。
「貝殻の中に収めるとは、洒落たものだ」
軽やかな褒め言葉。
けれどそこには、気迫、のようなものが滲んでいる。
しん、と静まり返った空間で、「なんか……」とフェリクスは驚いたように囁いた。
「空気、一気に変わったね……?」
「ええ……。ええ……! 見えました。私にも見えましたわ、殿下が受けから、一気に攻めへと転じた決定的瞬間が……!」
「あー、『守り』から攻めに、じゃないんだ?」
礼儀上フェリクスがそのあたりを突っ込むが、イレーネの耳はそれを拾おうとはしなかった。
こつ、と靴音を立ててリーゼルとの距離を詰めてゆくルーカスから、目が離せなかったからである。
「な……、あんた、いつから香の存在を見破ってたの……!?」
「さて。いつからだと思う?」
容易に御せると思っていた相手が、にわかに肉薄してきたことでリーゼルが動揺すると、ルーカスは薄く微笑む。
そればかりか、彼はと……、とテーブルに片手を突いて、その長身で、座ったままの相手を腕の中に閉じ込めるような行動に出た。
「こ、これは……っ! 壁ドンを応用した卓ドン……! 物理的構図からも、自分が覆いかぶさる側だと、相手に示しているわけですわね!?」
「真相をすぐには明かさない辺り、なかなか策士だねえ」
一気に優勢に持ってきたルーカスに、実況・解説者と化したイレーネとフェリクスは目を輝かせる。
どう返すべきかをリーゼルが逡巡した、そのわずかな隙に、彼はぐっと顔を近付け、にやりと笑ってみせた。
「これでも、強引な女や毒殺の危機を、二十年近く回避してきたものでね。媚薬や色恋系の暗示の類には、ある程度耐性があるんだ。コツは単純。必要以上に近付いてきた相手の前では、飲まない、息を殺す、目を逸らす」
そうしてルーカスは、ワインを染み込ませた小ぶりなタオルを掲げてみせた。
「申し訳ないが、この怪しげなワインは、『木綿、その先へ』に飲ませてしまった。さすがの吸水性だ」
「なんと……! 常に掛け算の左側の地位をキープしてきたドSタイプの
「さりげなく監獄製のタオルを取り入れて意趣返しとは、一抹の腹黒さも感じさせるねえ」
意外にも息の合った二人の実況ぶりだ。
「そんな……あの香に耐性があるほどだなんて……」と呆然と呟くリーゼルに、ルーカスはなぜか遠い目になって微笑んでみせた。
「誘惑への免疫は、この一年で随分鍛えられた」
なんという説得力。
一年という言葉の意味を正確に理解したイレーネは、思わず目頭を押さえた。
その脳裏には、上目遣いだったり頬を染めたりするエルマと、彼女に右手を伸ばしかけては左手でそれを封じるルーカスの姿が浮かんでは消えた。
「殿下……っ。私たちの気付かぬ間に、なんと過酷な鍛錬を重ねられていたのか……っ」
「そりゃあ、強くもなるよねー……」
さすがのフェリクスですら同情的な声色だ。
だが、もちろんそれが聞こえるはずもないルーカスは、「実に残念だ」と続け、不意に椅子に腰を下ろした。
「俺に声を掛けてくれた時、ほっとしたのは本当だったのに。あなたは、俺を試すつもりでしかなかったなんて」
「え……?」
急に緩んだ攻勢と、思いもかけぬ内容に、リーゼルが瞳を揺らす。
すると、ルーカスは拗ねたように肩を竦めた。
「薬剤入りのワインではなく、素朴な味わいの酒を飲み交わしたかった。暗示の香ではなく、あなた本来のまとう香りを知りたかった」
それからぐ、と身を乗り出し、悪戯っぽくリーゼルの顔を覗き込んだ。
「それは、俺だけのわがままだろうか?」
「一気に懐に攻め入ったぁあああああ! 絶対攻者からの、このワンコ系スマイルのギャップは大きい! ほんのり腹黒風味のスパイスがまた堪らない! 殿下は二極のスマイルを持つ男……っ!」
「効果は
フェリクスの冷静な解説の通り、それが決定打となったようだ。
リーゼルはばっと赤面し、席から飛びのくようにして距離を取った。
それを見て、ルーカスは少し肩の力を抜く。
ようやく、彼だけの力でもぎ取った勝利に、喜ぶというよりは安堵したようだ。
が。
「どうだ、見ていたか、エルマ――」
誇らしげな表情も露わに、くるりとこちらを振り返ったルーカスは、しかし、エルマの様子を見て、中途半端に口を閉ざした。
「エルマ?」
「…………」
エルマは、難しい顔で口を引き結んでいた。
「……さすがでございます、殿下」
ややあって、ぎこちなく褒め言葉を紡ぐ。
けれど、その夜明け色の瞳は、どこか、傷付いたような表情を浮かべていた。
「シャバ慣れしていない姉にも、恥をかかせぬ完璧なご対応」
それから付け加えた言葉に、ルーカスは顔色を失った。
「私めに好意を囁いてくださったのも、その溢れ出る騎士道精神ゆえだったのですね」
「…………!」
どうやら、女たらしの真髄を見せつけたルーカスに対し、称賛の念よりも、不信を抱いてしまったらしい。
「気を遣わせてしまい……申し訳なく存じます……」
かつてエルマに、本心から好意を告げたことすら、「シャバ慣れせぬ自分に、気を遣って好意的に接してやった」と解釈されてしまっている。
「おい……待て、待ってくれ、それとこれは違う。違うに決まっているだろう……!?」
「考えてみれば、殿下は呼吸するように甘言を囁ける御仁なのでした……。分不相応にも、強い好意を捧げられたと勘違いしてしまった私の傲慢、なにとぞご容赦くださいませ……」
エルマはずーんと落ち込んでいる。
ルーカスはそれ以上に青褪めていたが、非情にも、ホルストはそれを更に追い詰めてきた。
「うっわ、最低。誰彼構わず甘い言葉をばら撒いて、それが初心な女の子を傷付けるって、まさか気付いてないわけ? まじで糞以下だね」
勝利だ。
これは、ルーカスがこの監獄で初めて自力で勝ち得た、堂々たる勝利のはずだ。
なのになぜ、事態はこんなに悪化している。
うろたえるルーカスに、モーガンは哀れみの視線を送ったが、無情にもこう告げた。
「おめでとうございます、ルーカス様。あなた様は見事、【
残酷な言葉に息を呑む。
モーガンは、冷め始めた紅茶のカップを掲げ、にこりと微笑んだ。
「お次は――【
頬杖を突きながらカップに口付けていたホルストが、ふと顔を上げる。
彼はまるで肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべ、低く告げた。
「……よろしくね?」
ルーカス死亡決定のお知らせだった。
***
「まさか、おまえ……!」
テレジアは声をかすれさせた。
ずっと抱いていた違和感。
その正体が、今ようやくわかった。
美しく結い上げている銀の髪が――先ほどよりも伸びている。
夕食会の席で初めて彼女を見た時から今までの、この短時間で、編み目が緩み、髪がほつれるほどに。
およそ現実ではありえない光景。
だが、テレジアはその現象に、そしてその原因に、心当たりがあった。
「まさか、おまえは――」
「あん、もう。とうとう
が、テレジアが言葉を続けるよりも先に、ハイデマリーが嘆かわしそうに首を振って立ち上がる。
彼女は先ほどまで腰かけていたソファに戻ると、どさりと体をゆだねた。
ほんのわずか、優雅さを欠いた動き。
だがそれだけで、彼女が相当な苦痛を強いられているのがわかる。
ハイデマリーはひじ掛けに突いた腕に顔を埋め、そっと震える息を漏らしたが、次の瞬間には再び顔を上げて微笑んでみせた。
「失礼、少し……息が上がってしまって。妊婦にはよくあることだわ」
なんでもないと言うように、額にかかった銀髪を掻き上げる。
だがその拍子に、とうとう髪の結い目がほどけ、ばさりと肩を覆ってしまった。
今やはっきりと、髪が異様な速さで伸びていくのがわかる。
星の光のようなそれが、ハイデマリーの腰かけるソファの座面に届いた辺りで、テレジアはぱっと踵を返した。
「――どこへ行くの」
「人を呼ぶ」
「だめよ」
が、テレジアがドアのノブに手を掛けた途端、木の扉がどくんと
「な……っ!」
「
ハイデマリーはソファに座り、両腕で己をきつく抱きしめながら、テレジアを見た。
「二十二年前の雨の日、妹の、
「…………っ!」
窓の外の雨音が強まる。
同時に、暗い夜空を白い光が駆け下りていった。
一瞬遅れて、耳を貫くような轟音が響く。
まるであの日のような、大雷雨。
扉の前で振り返ったまま硬直したテレジアに、ハイデマリーは優しく話しかけた。
「大丈夫。怖くないわ。あなたはそこにいてくれればいい。この部屋に満ちるものたちは、あなたをけっして傷付けはしない。……だってこれは、
ほんの少し自嘲の形に唇を歪め、彼女は続ける。
その肌には、わずかに汗の粒が滲みはじめていた。
「雨はいずれ止む。あなたはそれまで、ただそこにいてちょうだい。他人を遠ざけ、助けを求めず、秘密を喉の奥に呑み込んで」
再び、閃光。
そして轟く雷鳴。
両者のずれはどんどん狭まり、とうとう、光と音がぴたりと重なった。
――カ……ッ!
「あの日と同じように、……今度はどうかわたくしを隠して」
轟音とともに地上に落ちた光は、部屋を白く染め上げる。
光の中輪郭を浮かび上がらせたハイデマリーは、まるで聖女のように美しく微笑んでいた。
「…………、る」
やがて、激しい雨音に紛れて、小さな声がテレジアの喉から転び出る。
「え?」
「ご免こうむる」
聞き返してきた相手に、彼女はきっぱりと告げた。
「愛する妹だからこそ、私は彼女の死を隠したのだ。いけすかない娼婦の『願い』など――誰が聞いてやるものか!」
ハイデマリーが大きく目を見開く。
「いいか、ここで待っていろ。すぐに人を呼んでくる。この頭がおかしくなるような事態も、頭のおかしいあの連中なら、どうにかできるかもしれないだろう」
「待って――」
「待つか!」
テレジアは扉に手を掛け、揺さぶっても開かないとわかると、叩き、蹴り、舌打ちを漏らした。
「だめよ、行かせない」
だが扉は頑として動かないどころか、ハイデマリーの言葉に反応し、木であった記憶を取り戻したかのように、枝を伸ばしはじめた。
若木のような細い枝は、所々に新芽を芽吹かせながら、ノブをぐるりと取り囲んでしまう。
もしこれが数十年の時間をかけていたならば、木の扉が自然に還ってゆくかのような、美しい光景。
けれど今は不気味でしかないその光景を前に、テレジアは息を呑んだ。
が、
「……これも、癒しの力なんだったな」
低く呟くと、素早くソファセットへと引き返して紅茶のカップを取り上げる。
そして、躊躇いもなくそれを叩き割り、
――シュッ!
鋭い破片を握り、表情も変えずに己の腕を切り裂いた!
途端に、扉にまとわりついていた「枝」が、獲物を前にした獣のように、一斉にテレジアの腕へと伸びてゆく。
ただそれは、魔物のそれとは違って淡い光を帯び、見る間に腕の傷を塞いでいった。
「ふん、おぞましい
テレジアはその隙を見逃さず、素早く扉に駆け寄る。
その勢いのまま、体当たりをするように扉を押し開けた。
扉をくぐり抜けざま、「見定めを外したな」とハイデマリーを振り返る。
「同じ罪を、繰り返す私ではないわ!」
テレジアはそう言い捨て、雷鳴が轟く獄内を、息を荒らげながら走り抜けていった。