17.「普通」の品定め(7)
「で……っ」
心行くまで香水の香りを堪能し、なにげなくテーブルを振り返ったイレーネは、そこでぎょっと目を見開いた。
(殿下が、エルマのオネエ様に誘惑されてる……!?)
彼女の視線の先には、和やかに談笑するリーゼルとルーカスの姿があった。
一見した限りでは、笑みを湛えてグラスを傾け合う図は、気の合う友人たちといった感じだ。
二人とも見目のよい男性同士なので、普通の女性がその様子を見たならば、「まあ、似合いの友人だこと」などと微笑ましく思うのかもしれれない。
が、腐蝕した――と書いて、「真実の」と読む――眼を持つに至ったイレーネは、その二人の間に横たわる密やかな緊張感を、性別などというフィルターに誤魔化されることなく、見抜いてしまった。
(さりげなく詰められた距離、そして自然かつ嫌みの無いボディタッチ。己の表情を一番魅力的に見せる角度での笑顔……。間違いない、オネエ様は、殿下を落とそうとしているわ……!)
一応イレーネとて、それなりの社交界経験を積んだ男爵令嬢だ。侍女として、王宮の片隅で繰り広げられる禁断の恋や、火遊びといったものも、多少は目にしてきた。
なにより、同性間での恋愛について人一倍許容度が高い――なんなら、煙が立っていないところにさえ火を認定してみせる彼女だからこそわかる。
リーゼルは、ルーカスを誘惑しようとしているのだと。
イレーネは目の前の光景を凝視したまま、静かに冷や汗を浮かべた。
(な……っ、なぜここに来てこんなことに……!?)
ここまでの時点で、目まぐるしく変化する展開に、既に彼女はすっかり取り残されていた。
突然クーデターに巻き込まれて監獄にやって来たと思ったら、怒涛のもてなしを受け、震撼のディナーに招かれ、なぜかルーカスの品定めに移行し、かと思ったら突然場の空気が緩んでお茶会。
エルマの同性の友人である自分は、首尾一貫して厚遇されているが、ルーカスについては、大罪人たちが彼をもてなそうとしているのか、疎んでいるのか、よくわからない。
「『で』が、どうかしましたか?」
とそこに、背後から不思議そうに声を掛けられて、イレーネははっと振り返った。
エルマである。
彼女は、リーゼルの言いつけ通り、大量の香水を披露すべく、イレーネを部屋奥のテーブルに案内してくれていたのだった。
邪気の無い瞳でこちらを窺うその姿は、珍しく素顔を露わにし、ドレスアップしていることともあいまって、大層愛らしかった。
「で……、――で、で……デトックス作用のある、香水がいいなー、なんて……」
夜明け色の瞳に真っすぐ覗き込まれイレーネは、咄嗟にそう誤魔化してしまう。
彼女はかねてからルーカスとエルマのカップリングを推してきたというのに、まさかのライバルがぶち込まれたことに、動揺を隠せなかったのだった。
「デトックス作用ですか? ああ、それならこの辺りなどお勧めですが」
「あるの!?」
「ええ。これは【嫉妬】のお兄……姉様がデトックス目的専門で調合した、オリジナル香水ですね。ひと噴きするだけで、たちどころに心身の毒素が抜け、憑き物が落ちたように大人しくなると評判でして。ただし、香りが切れると少々乱暴になるそうですが」
「……それって洗脳とか調教って言うんじゃないかしら」
相変わらずツッコミどころ満載の大罪人たちだ。香水の香りというよりもむしろ、犯罪の匂いしかしない。
輝いて見えていた香水瓶が、不意に異様なオーラをまとったように感じた。
「もしかして、私も、下手を打ったらエルマのご家族たちに殺されるの……?」
だが、顔を引き攣らせて指摘すると、エルマは驚いたように首を振る。
「何を仰るんですか! とんでもない! イレーネや殿下は、私の初めての、大切な友人。丁重にもてなしたいと伝えたら、お姉様はじめ、家族全員とても喜んで、この日のために、いろいろと心を砕いて準備してくださったのですよ」
その発言に、嘘や誇張の色はない。
恐らく、エルマは本当にイレーネたちをもてなそうとしたのだし、大罪人たちもまた、イレーネたちの訪問を偽りなく喜んで、心尽くしの品を用意したのだろう。
――ただ、それがことごとく常軌を逸しているだけで。
「私も家族も、友人を家に招き入れるなど初めてのことで、すっかり舞い上がってしまっている感は否めないのですが……、でも、短い期間ながら、あれこれ相談したり、準備をしたりするのが本当に楽しくて。自慢の家族をイレーネたちに紹介できるのが、本当に嬉しかったですし、しかもその家族がもう一人増えようとしているなんて……。もう、私、幸せでいっぱいです」
頬を染め、はにかんで告げるエルマは、うっかりその場に蹲って悶絶したくなるくらい可憐だ。
イレーネは
わかりたくないが、わかってしまう。
大罪人たちが、どうしてこんなにも、彼女を溺愛してしまうのか。
どれだけ深く、この純粋で善良な少女を愛しているか。
(私だって、もしエルマが変な男や、新しい友達を連れてきたなら、そりゃもう重箱の隅を針でほじくるくらいに詮索しまくると思うもの……!)
特に男。
そこんじょそこらの男ではダメだ。
ルーカスは優良物件だと思うし、彼の真面目な一面も知っているため、自然と応援することができるが、そのルーカスであっても、万が一彼がほかの女に手を出そうものなら、自分は即座に彼を全力で排除しにかかると思う。
と、そこまで考えたとき、イレーネははっと目を見開いた。
(まさか……つまり、オネエ様のモーションって……そういうこと!?)
ようやく真意にたどり着いて、彼女はますます冷や汗を流した。
今度は、ルーカスの身の安全を危ぶむ冷や汗だ。
(ま……まずくない!? お歴々の能力の高さを考えるに、殿下なんて一発でノックアウトじゃない!?)
ルーカスの女性遍歴を侮るわけではないが、はっきり言って分が悪すぎると思う。
ここの住人たちは、みな異常だ。彼らは突き抜けて有能だし、モラルや常識を平気でかなぐり捨ててかかるし、――だからこそ、奇妙な魅力に富んでいる。
一国の貴族令嬢を集団で洗脳してみせたという誘拐犯が、ちょっと暗示や薬剤を用いれば、血気盛んな若い男の一人二人、簡単に陥落させてしまえるだろう。
そして、もしそうなれば、リーゼルはあっさりと掌を返し、ルーカスを容赦なく攻撃するに違いない。
恐らくは、遠巻きにそれを観察している、ほかの「家族」たちも。
品定めの第三戦は、とっくに始まっていたのだ。
(ど、どうしよう……! 割って入って、殿下を引きはがすべき!? ああでも、これは殿下の品定めなのだから、私がしゃしゃり出るのはNG……!? でも、でも、エルマの前で、殿下がオネエ様に跪きでもしたら、それってすごくショッキングな現場のような……!)
正直、エルマがどれほどの衝撃を受けるかはわからない。
あくまでルーカスを「友人」としか見ていない彼女なら、なんら問題はないのかもしれない。
だが、問題なさすぎることが、逆に大問題を引き起こす恐れもあった。
(例えば、誘惑される殿下を笑顔で見送ったり、あまつさえ応援したり……! うわ、エルマにとどめを刺される殿下の姿が見えるようだわ……!)
これまでの付き合いから、エルマシミュレーターと化したイレーネは、己のあまりに精密な予測に青褪めた。
冗談めかした言動の合間に、ルーカスが実は誠実な想いを忍ばせていることを、イレーネは知っている。
その想いを、そんな形で蹂躙されるのは、あまりに彼が可哀想だ。
(これでも、私の
推しの不幸は、回避せねば。
ひとまず、この不穏な現場からエルマを遠ざけようと決心した瞬間、
「――あれ? お姉様、もしや殿下を誘惑しようとなさっている……?」
こともあろうに、イレーネの視線を辿ったエルマが、後ろから不思議そうに首を傾げた。
「あ……っ、あっ、あっ」
「そうですよね? あの微表情、あのパーソナルスペース、あの声のトーン」
「あっ、あ、あ……!」
「ふむ。わずかな会話の中に散りばめられたゴルディロックス効果、返報性法則、ミラーリング、コントラスト原理……」
動揺したイレーネが、ぱくぱく口を開きながら押し返そうとするのを、エルマはひょいと躱してテーブルを覗き込んでしまう。
それから、「もう」と、不満そうに眉を寄せた。
(…………!? エルマが、誘惑される殿下に、苛立っている……!?)
もしや、自分の知らないところで、実はエルマもルーカスに惹かれはじめていたりしたのだろうか。
驚愕しつつも、嬉しい誤算に目を輝かせたイレーネを、しかしエルマは次の言葉で現実に引き戻した。
「まったく。お姉様ったら、シャバ式の誘惑の仕方をご存じないのですね」
「え……?」
「シャバの殿方には、そういった迂遠な誘惑よりも、肌を露出させるタイプのアプローチが一般的。そうでしょう?」
「は……っ!?」
いつの間に、そんな『普通』が彼女の中に植え付けられていたのか。
愕然とするイレーネの前で、なぜかエルマは、きちんと結い上げていた自らの髪を乱しはじめた。
「私もあまり、シャバの殿方の生態を存じ上げているわけではございませんが……。一番身近、かつ『普通』の師匠たる殿下は、以前はよく、胸元に女性の香水や口紅を付着させていたようにお見受けします。噂では、夜の町だと目が合っただけで女性がしなだれかかってくるので、『全自動テイクアウトのルーカス』と称されていたとか」
「そうなの!? っていうかそのネーミングセンスどうなの!?」
「すなわち」
エルマは首元のリボンの結び目に指を掛けると、きりりとイレーネを見据える。
「シャバの誘惑とは、しなだれかかること」
そう言って、しゅる、とリボンを解いてしまうではないか。
たちまち、ほっそりとした白い首と、繊細な鎖骨の一部が露わになる。
真珠のような肌の上を、艶やかな黒髪が這い――普段の端然とした雰囲気とは打って変わった、噎せ返るような色香に、イレーネは思わず息を呑んだ。
「色恋慣れしている殿下に対し、お姉様が監獄式の迂遠な誘惑を仕掛けて、恥をかいてはなりません。ここはひとつ、僭越ながら私めが、シャバ式の誘惑というものを例示――」
「待ったーーーーーーーー!!」
息を呑んだが、イレーネはがばっとエルマに抱き着き制止した。
「お願いだから殿下を殺さないで! 死んじゃう! それ、絶対に死んじゃうから!」
恐らくルーカスは、エルマの悩ましさに瞬殺され、ついで己の存在がエルマにとってアウトオブ眼中である事実に魂を殺され、最後、愛娘にしなだれかかられたことを理由に、大罪人たちによって物理的に殺されるだろう。
たった一度しかない人生、なにも三度も死ななくても。
義理、人情、そして
「エ、エルマ、外! 外の空気を吸いに行きましょう! 私、そう、腹ごなしに散歩したいかなぁなんて!」
「え……ですが、なにやら窓の外からは、雨音が聞こえてくるようですが……」
「あっ、ああ、雨。雨ね! うん、いいじゃない、雨の夜の散歩! それもまた乙なり、よ。親友同士でしかできない感じ。すごく素敵。すごく『普通』! ね!?」
「『親友』……『普通』……」
苦し紛れにひねり出したフレーズに、エルマは心惹かれたように振り向いたが、しばらく考えると、躊躇いがちに視線をルーカスたちへと戻してしまう。
「ですが、やはりお姉様に恥をかかせるのは忍びないです。ひとまず、以前シャバの歓楽街で拝見した、『襟元を寛げて胸を押し付ける』スタイルだけでも伝授してから――」
「やめてえええええ!」
イレーネは光の速さでエルマの胸元のリボンと髪を結い直した。
火事場の馬鹿力を発揮して、エルマをぐいぐい引っ張る。
なんとか香水瓶の並んだ部屋の最奥まで戻ってくると、声を潜めてエルマを叱った。
「よくって、エルマ。殿方の、そして溺愛系男性家族の前で、みだりに服を寛げるものではないわ。だいたいあなた、さっきも殿下に、余計な手出しはしないでくれって言われていたじゃない」
「余計な手出し……」
エルマははっとした顔つきになると、それから神妙に頷いた。
「……そうでした。危うく、また殿下のお怒りを買うところでした」
どうやら、ルーカスの発言を受けて、それなりにへこんでいたらしい。
しゅんとなったエルマを見て、今度はイレーネの良心が痛みだしたが、天秤の片方には世界平和と人命がかかっている。
心を鬼にして、再度関心を逸らそうと口を開いた。
――のだが。
「やあ、なんだかすごいことになって来たねえ」
そこに、ティーカップを持ったフェリクスがやって来た。
どうやら彼は、ティーテーブルからこちらのソファセットに席を移ってきたらしい。
「なんだか、あのテーブルにいると、よくわからない冷気に襲われて、どうしてもこちらに移動しなきゃ、っていう気になってさー」
「ああ……。それは【嫉妬】のお姉様の仕業ですね」
フェリクスが不思議そうに告げると、エルマはこともなげに頷いた。
「対象者を確実に陥落させたい場合に、周囲がそれを邪魔しないよう、さりげなく場を立ち去るよう促すという、お姉様が独自に編み出した暗示技術でして。いわゆる洗脳結界ですね」
「うん、いわゆるっていうか、まったく聞いたこともない現象だけど」
フェリクスが笑顔で突っ込んだが、エルマはもの思わしげに眉を寄せるだけだった。
「洗脳結界を張ってまで……お姉様、本気なのですね」
全力で常識外れの振る舞いをする身内を、憂えるかの口調だ。
だが、エルマの解説を聞けば聞くほど、イレーネたちはむしろ、ルーカスの身が心配になってきた。
「ねえ……今、オネエ様がさりげなく指先を擦り合わせたように思ったのだけど」
「ああ、あれは、予め小容器に隠してあった暗示の香を、擦り合わせることで揮発させているんですね。やはり、殿下にはそうした物理的揺さぶりをかけないと難しい、と判断したのでしょう」
「なんかさ、よくよく耳を澄ませてみると、ルーカス、結構精神にクることも言われてるっぽいんだけど」
「ああ。過去のトラウマを利用した暗示に移行したようですね。殿下の恋愛耐性が強すぎて、まずは心を折らねば隙が生じないと考えたのでしょう」
「ねえエルマ……。なんだか、オネエ様の姿を見ているだけで、だんだん私も、動悸がしてきたのだけど……すごく、オネエ様が魅力的に見えるっていうか……」
「サブリミナルですね」
香による身体攻撃、過去まで遡った精神攻撃、
テーブルの反対側で見守っていた大罪人たちも、リーゼルの本気ぶりに、静かにドン引きしはじめた。
「うっわ……あの香、めちゃくちゃ中毒性が高いやつだよ……えげつな……」
「久々に彼の本気を見ましたね……」
「あれはもはや誘惑と言うより、攻撃ではないのか」
「む……なんだか、俺まで、眩暈が……」
動揺しながら、ひそひそと囁き合う。
動体視力に優れたイザークなど、うっかりサブリミナルが効いてしまい、呻きはじめた。
いや、彼だけではない。
遠巻きに二人を見守っていた周囲は皆、リーゼルの繰り出す渾身の誘惑術――の流れ弾に、次々と当てられていった。
「やばっ、香をちょっと吸っちゃった……! くらくらする……」
「く……、話術だけでなく、五感全てを揺さぶりに掛かっていますね……!」
「俺には世界一美しく素晴らしい妻が――!」
「目が……! 目が……!」
いろいろとぶっ飛んでいる大罪人たちでさえこれなのだ。一般人のイレーネたちなど、ひとたまりもなかった。
「はぁ……っ、リーゼルオネエ様、……っ、素敵……!」
「やばいなー、ちょっと僕も、彼から目が離せなくなってきた……?」
視線の先、ワイングラスを傾けるリーゼルが、ひどく魅力的に見える。
琥珀色の瞳は、まるで熟した樹液のような濃密な色香を湛え、薄い唇にはミステリアスな微笑み。
グラスの脚をなぞる指先も、頬杖をついたまま小首を傾げる仕草も、ただの女ではあり得ない、複雑で奥深い艶に満ちている。
堂々たる女王というよりは、沼に引きずり込んでくる魔女のような、蠱惑的で、不思議な磁力。
喉が渇く。
視線が彼から離せない。
いつしか全身が、彼の存在に溺れたがっていた。
ああ、これが恋なのだろうか。狂おしく彼を求め、跪きたくなる。
一言命じられれば、命だって捧げるのを躊躇わぬ、嵐のように凶暴な感情。
ふら、と、ルーカスが椅子から立ち上がった。
見ているイレーネにはわかる、彼はその場で跪こうと言うのだろう。
這いつくばり、足に口付け、永遠の忠誠を誓う。
先ほどまであんなにそれを阻止しようとしていたくせに、今や彼女はそれを自然なこととして受け止めていた。
だってそうだろう。
こんなの、逆らえない。
自分だってそうする――。
「ルーカス殿下……」
そのとき、イレーネの横で大人しく推移を見守っていたエルマが、ぽつんと呟いた。
「それでよいのですか……?」
小さな小さな独白。
非難と言うよりは、素朴な驚きと、微量の戸惑いを含んだ声。
だがそれを聞いた瞬間、イレーネは、自身をいつの間にか取り囲んでいた膜のようなものが、ふっと消失したかの感覚を抱いた。
ぼんやりとしか追えていなかったルーカスの行動が、ようやくくっきりと像を結ぶ。
ふらついたように見えていた彼は、思いのほかしっかりとした足取りで床に膝を突き――それから、すぐに
「え……?」
「落としたぞ」
驚きに目を瞠るイレーネたちの前で、ルーカスはリーゼルに向かって、滑らかな仕草で片手を差し出す。
その手の中には、ごく小さな貝殻が収まっていた。
「とどめに使った、暗示の香――だろう?」
「…………!」
リーゼルが静かに息を呑む。
ルーカスは器用に片方の眉を上げ、小首を傾げてみせた。