16.「普通」の品定め(6)
「あん、危ない」
不意に窓から吹いてきた夜風に、騎士を模した指人形がテーブルから落ちてしまったのを見て、ハイデマリーは慌てて片手を差し出した。
柔らかな白い手は、勢いづくあまり、人形をかえって天井近くまで跳ね飛ばしてしまったが、なんとかテーブルの上、ダイニングの間取り図の辺りまで戻ってくる。
ハイデマリーはそれを丁寧に、テーブルのイラストが描かれた部分に置き直すと、他の人形たちを動かし、バランスを整えた。
「……おい。その腹であまり屈んだりするのではない」
「お気遣いありがとう、テレジア様。でも受け止めてあげないと、繊細なお人形が壊れてしまうもの」
ハイデマリーはくすりと笑って、騎士の人形をよしよしと撫でる。
お茶の時間にしましょう、と言って、テーブルの絵の描かれたあたりに人形を移動させる様子は、さながらあどけない女児のようだ。
が、にこやかに人形を操る彼女から、得も言われぬ異様な雰囲気を感じ取って、テレジアは無意識に眉を顰めた。
(なんなんだ、この女は……)
一見する限りでは、ただただ美しい、儚げな女。
だが、娼婦さながらの噎せ返るような色気をまとったかと思えば、貴族子女のような気品を見せ、かと思えば、幼子のように無邪気に人形遊びを始める。
その言動はとりとめがなく、対峙するテレジアに本能的な警戒心を与えた。
(この女を見ていると……なにかひどく、
テレジアは顎を引き、じっと向かいの相手を検分する。
緩く結い上げた銀の髪、白磁のように滑らかな肌。
穢れを感じさせない美しい瞳は、不思議なことに、世間知らずだった妹にも似ていた。
どこか浮世離れした、神聖さすら感じさせる美貌。
(まとう雰囲気が気になるのか……? それとも、他に何か……?)
自身が何に反応しているのかわからず、険しい顔で凝視していると、突然、
――どごぉおお……ん!
外から爆音が響いたので、テレジアは咄嗟に腰を浮かせた。
「な……っ!?」
「あらあら、盛り上がっているわねえ」
が、目の前の女性はさして気にした素振りもない。
想定内だとでも言うように、のんびりと窓の外を眺め、それからしばらくして、なぜか「あら」と目を瞬かせた。
「テレジア様はご存じでして? ドラゴンは、唐揚げで塩が『普通』なのですって。わたくし、知らなかった」
「……は?」
「ふふ、失礼。気になる話題が
軽やかに詫びられ、テレジアの眉間の皺がますます深まる。
先ほどの爆音と、ドラゴンの話がなぜ繋がるのかがわからない。
それに、この部屋にはテレジアと彼女の二人しかおらず、しんと静まり返っているというのに、「聞こえた」とはいったいどういうことか。
だが、それらの問いを口にしても、
「わたくし、とても耳がいいの」
ハイデマリーはふふっと笑うだけだ。
(仮にどこかの会話を拾ったのだとしたら――まさか、棟も異なるダイニングから?)
不意にぞく、と背筋の冷える感覚がして、テレジアは顔を強張らせてハイデマリーを見た。
美貌の女王はそれに気付くことなく、熱心に指人形を並べ直している。
テレジアと話したいと誘ってきたわりに、彼女は相手の動向にはまるで無頓着のようだった。
「ああ、困ったわねえ。姫君と騎士をくっつけてあげたいのに、この席の配置だと、どうしても邪魔が入ってしまう。どう並べてあげたらいいのかしら?」
彼女は目下、指人形の席次に悩んでいるようだ。
そんなもの適当に並べればいいではないかと思うが、彼女は「これはおもてなしの訓練だもの。ゲスト全員が気持ちよくなれるよう、よくよく人間関係に配慮して並べなくてはね」となぜか意気込んでいる。
医者の恰好をした人形を姫の隣に座らせ、やはり考え直して移動させ、代わりに魔女の人形を騎士の横に付けたあたりで、ハイデマリーは溜息を漏らした。
「だめだわ。姫君への皆の愛が強すぎて、手の打ちようがない」
本気で嘆いているようである彼女を、テレジアはつい異様なものを見る目で見つめてしまう。
すると、ハイデマリーはちらりと視線を上げ、きまりが悪そうに微笑んだ。
「ごめんなさいね、あなたを放ってこちらに夢中になってしまって。でもね、親としてはつい、子どものことが気になってしまうの。娘に見立てた人形の扱いを間違えたら、あの子が不幸になってしまう気がして……。この親心、テレジア様なら、わかってくださるでしょう?」
あいにくテレジアは、人形遊びと現実を混同するような幼い精神の持ち主ではない。
だが、それ以上に気に食わないことがあり、つい彼女は言い返していた。
「さっきから母だの親心だの、思わせぶりに……いったいおまえは何が言いたいんだ」
「テレジア様は情愛深い方ですね、と言いたいだけですわ」
「なんだと?」
テレジアは眉間の皺を深める。
鋭い目つきでひとにらみすれば、権力とその気迫も相まって、大抵の相手は青褪めたものだ。
が、目の前の女は困ったように肩を竦めるだけだった。
「あら、わたくしの認識が違っていて? だってそうでしょう、あなたはとても情愛深い方。大切な者に降りかかった禍を自分のことのように受け止め、茨の道を進んでまで、責任と秘密を守り通す方だわ」
「…………!」
ハイデマリーの口調は迂遠そのものだ。それでも、テレジアに息を呑ませるのには十分だった。
「おまえは……何を知っている……?」
「すべてを」
答えは短く、揺るぎない。
ハイデマリーはその藍色の瞳を猫のように輝かせ、じっとテレジアを見つめた。
そこには、聖女のような神聖さと、相手から言葉を奪うような、奇妙な迫力があった。
「言ったでしょう、わたくし、とても耳がいいの。だから、
「な……にを……」
圧倒され、腰を引いたテレジアを憐れむように、ハイデマリーは優雅に立ち上がる。
彼女は美しい顔に憂いの表情を乗せて、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
「ねえ、どうか怖がらないで。わたくしはあなたにお願いしたいだけ」
「願い……?」
「あなたは、これから降る雨の意味に気付いてしまえる、この場で唯一の人。私もあの雨の日のことを誰にも言わないから、あなたもどうか、これから降る雨のことを、周りに告げないでほしいの」
ハイデマリーはそっとテレジアの手を取り、親しい友人のように、ソファに隣り合って座らせる。
相手から立ち上る芳しい香り、そして、見るだけで頭の芯が溶けてゆくような心地のする美しい瞳。
テレジアはぼうっとなって、ただ虚ろに言葉を反芻した。
「雨……?」
「一生とは言わないわ。そうね、雨が止むまで……夜明けくらいまでかしら。あなたは、ただ黙っていてくれればそれでいい。これまでのように、誰にも縋らず、秘密をそっと、身の内に閉じ込めておいてくれれば」
燭台の揺れる光を、淡く弾き返す銀の髪。
複雑に結われた髪が、また一筋はらりと肩に零れるのを見て、テレジアははっと息を呑んだ。
一気に意識が覚醒し、抱いていた違和感の正体に気付く。
「――まさか、おまえ……!」
窓の外――濃紺の夜空に、その時、細い雨の粒が落ち始めた。
***
(んふ、なかなかいい男じゃなァい)
間近で遠慮なくルーカスを観察しながら、リーゼルは内心で唇を吊り上げた。
甘いマスクに精悍な体つき。
先ほど披露した剣技は惚れ惚れするほどだったし、声は荒げども乱暴な口は利かない品のよさや、意外な面倒見のよさも高得点だ。
まだ二十になったばかり、という点で青さも目立つが、エルマの「友人」――ひいては恋人候補としての年齢的釣り合いを考えるなら、それも許容の範囲内と言えた。
(気さくで、身分差を気にせず振舞う豪胆さもあるけれど、同時に自分の立ち位置や、周囲との距離感は慎重に計算している気もする。要領のよさと、それを外面のよさに隠せるだけの強かさがあるってことね。こういう男って、えてして本性はドライなのよ。弟タイプね。星占いで言うなら双子座)
にこやかに相槌を打ちながら、つらつらとそんなことを考える。
リーゼルは
言葉選びやちょっとした仕草、視線の動きや座り方まで網羅的に情報を総合し、見る間に相手の性質を掴んでゆくのだ。
詐欺師モーガンもその手のことは巧みだが、リーゼルのそれは、「女の勘」という無意識的な要素まで加わる分、よりダイナミックとも言えた。
(女慣れは……相当しているわね。ただ、誠実さも感じられる。恋人である間は、惜しみなく愛情を注ぐタイプね。それってつまり『相手に興味がある間は』ってことだけど……そこがちょっと気に掛かるかしら)
リーゼルはワインをひと口啜るまでの間に、ルーカスのおおよその恋愛遍歴や、恋の終焉の原因までも当たりを付けてしまった。
恐らく、飽きっぽい性格のはずだ。
もともとの性質に加え、ずっと「選ぶ側」にいた傲慢さから、情を引きずることなしに、躊躇いもなく相手を切り捨ててしまえる。
自らが手塩をかけて育てた「
(もし、あたしの可愛いエルマを、そこらの女のように弄ぶのだというなら、今の内からねじ切って捻り潰す。それでもって……きれいに潰したら、あたしの奴隷にしてあげてもいいかも)
娘に近付く男を容赦なく撃退しようとする
今、同じタイミングでワインを口に含んだルーカスは、確実に先ほどよりもリーゼルに心を許しはじめている。
そろそろ、さりげなく彼自身の話題に移行していってもよいだろう。
話を聞き出し、感嘆してみせ、まずは好意と信頼をきっちり引き上げてゆく。
そこで滑らかに洗脳や暗示を施せば、男の欲望を引き出すなど造作もない。
リーゼルが望めば、性別すら超えて、大陸中の誰もが這いつくばり、愛を求めて手を伸ばすのだ。
(――ま、唯一手を伸ばさない人間がいたとしたら、あの女くらいかしらね)
脳裏にちらりと誇り高い娼婦の姿がよぎるが、リーゼルは瞬きもせずにその思考を振り払った。
今対処すべきは、目の前の色男だ。
愛の言葉を囁かせてやってもよいし、戯れに求婚させてみてもよい。
(ああエルマ、あなたはショックを受けるのかしら。でも、それって必要なレッスンだわ。後であたしがちゃんと慰めてあげる――あなたのことも、ルーカスくんのことも)
内心では魔女さながらに唇を吊り上げ、しかし表面上はあくまで気さくに、リーゼルは「美味しい」とワイングラスを揺らした。