香川県の実家に帰った宮崎さんは、三四三空で思い出深い松山への思いを断ちがたく、まもなく松山へ移り住んだ。海軍の退職金で家を建て、自動車免許をとって郵便自動車の運転手をやったり、知人のブルドーザー会社の雇われ社長などをやったのち、妻の実家の家業である酒店を継ぐことになる。
宮崎さんの酒屋は、客にコップ酒を飲ませる一杯飲み屋を兼ねていて、夕方になると勤め帰りの客が立ち寄り、世間話に花を咲かせていた。戦争中の話も、酔った勢いのホラ話や眉唾物の武勇伝などもふくめてよく話題にのぼったが、そういうときにも宮崎さんは自分の話はいっさいせず、いつも聞き役にまわっていたという。
しかし、宮崎さんの心身に刻まれた戦争の傷跡は、なかなか癒えるものではなかった。
「夜眠っていて、頭の上をハエや蚊が飛んだりすると、突然『撃てーっ!』と叫ぶんですよ。そこまで心のなかに戦争がしみついているのかと、涙が出そうになったこともあります」
と奥さんは言う。
「海軍に入って、憧れていた戦闘機に乗れた、というのは、たとえあの戦争で死んでも本望だったと思います。戦争も、受け止め方は人それぞれでしょうが、あの時代にわれわれがやるべきことはそれしかなかった。悔いなし、と思ってますよ」
と、宮崎さん。だが、相当長い期間、戦争の恐怖にさいなまれていたとも言う。
「いまでも夜通し眠れんことがあります。どうせやるなら、戦闘機乗りとして恥ずかしくない働きをしたいと思い、はじめのうちは撃墜機数を戦友と競争したこともありました。しかし、長いあいだ戦ううちに、達観してしまったというか、お前、何機墜とした?なんて言いもしなくなりましたね。
最初のうちは、戦果を挙げるのが嬉しかった。でも、撃墜してるうち、次々と敵機を墜としているうちに、だんだん怖ろしくなってきたんです。辛いんですよ、墜とすのが。俺もいつかはああいう形で墜とされるのかな、と我が身に置きかえて考えると、ゾッとしてた。だから、マロエラップで敵の顔を見てしまったときも、とどめを刺せなかったんだと思います。
それをいちばん強く感じたのは、硫黄島の戦いでした。
ものすごい大空戦が終わって、ふと海面を見ると、あちこちに飛行機が墜ちたあとが丸い輪になって残っていました。低空を旋回しながら数えてみると、70いくつもあったんです。あの短い時間でこれだけ多くの人間が死んだと思うと、しみじみと虚しさを感じましたね……」
空戦中、敵機を撃墜したときのことは、多くの搭乗員にとって、心ならずも人の命を奪った、できれば忘れてしまいたい心の「傷」である。しかも空戦のたびに、朝、笑いあった仲間の何人かはふたたび地上に戻ってこない。グラマンF6Fが登場してからはなおさら、撃墜した敵機の数より戦死する戦友の方が多い状況が続いた。そんな、自分が撃った弾丸で墜ちる敵機や、還らぬ戦友に自分の姿を重ねたときの感慨を、
「怖ろしくなった」
と、きわめて率直な言葉で、宮崎さんは吐露してくれたのだ。事実、硫黄島の戦い以降、宮崎さんが敵機を撃墜した記録はない。
私が戦争体験者のインタビューを始めた平成7(1995)年当時、二五二空がグラマンF6Fと初対決したときの零戦搭乗員は、宮崎さんのほかには誰も残っておらず、いわば唯一の語り部だった。
宮崎さん宅を訪ねてのインタビューは、都合8回におよんだ。宮崎さんはいつも、約束の時間の前には路面電車の停留所で待っていてくれた。話はたいてい夕食時におよび、近所の鰻屋にご一緒する。食事が終わると、宮崎さんは必ず、「ごちそうさま。美味しかったよ」と店の人に声をかける。
どちらかといえば強面な雰囲気だったが、じつに気配りのゆきとどいた、思いやりのある人だった。こんな心根の優しい人が、かつて零戦の操縦桿を握って戦っていたのだ。
宮崎さんはその後、肝臓を病み、平成24(2012)年4月10日、92歳で亡くなった。
いまも、宮崎さんの迫力ある大きな声と、そんな印象とは裏腹に見せた繊細な気配りや優しさを思い出す。そして、空戦が「怖ろしくなった」という言葉に込められた真情について、思いをめぐらせている。
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