ウェーク島を叩いた米軍は、その手をゆるめることなく、昭和18(1943)年11月21日、ギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸を開始した。ふたたび宮崎勇さんの話。
「11月24日、零戦の両翼に60キロ爆弾2発ずつを搭載し、マキンの敵上陸地点を爆撃せよ、と命令されました。マロエラップから、周防大尉以下19機で出撃しましたが、戦闘機に爆弾を積むほどみじめなものはありません。
操縦の自由がきかず、敵機が襲ってきても手も足も出ないんです。この日は目標にたどり着く前にF6Fの邀撃を受け、10機が撃墜されました。翌25日にも零戦24機が爆装して行って7機がやられ、26日にも行け、と言うから周防大尉が怒りだしてね、単機で司令部のあるクェゼリンに飛んでいって、作戦を立てた参謀たちを怒鳴りつけてきたそうです。この日の出撃は、それで中止になりました」
マキン、タラワの日本軍守備隊は間もなく玉砕、その後、マーシャル諸島各基地への米軍機による攻撃はさらに激しさを増していった。宮崎さんも連日の邀撃戦に明け暮れるようになる。
「敵は主に双発爆撃機のノースアメリカンB‐25。せいぜい10機ぐらいのものだけど、これが毎日来るんだから。
われわれ搭乗員は飛行機の近くで、暑いからふんどし一丁で待機してる。レーダーがないので、見張員が敵機を発見すると、ダダダーッと機銃を撃つ。で、ふんどし姿のまま飛行服をかかえて、飛行機まで20メートルぐらい、ダーッと走る。整備員は飛行機の下に1人と、操縦席にも1人が乗って待機していて、すかさずコンタクト!とエンジンをかける。エンジンがブーンとかかると、われわれが整備員と交代して飛び乗る。そのままブォーンとふかして、機首の向いてる方向へ飛び上がってゆく。上昇しながら脚をおさめて飛行服を着る、その間に敵の編隊が来るんです。
早いときは爆弾が投下される前に射撃ができます。毎回、2機か3機は確実に墜とし、捕虜にした敵の搭乗員は陸軍さんにあずけました」
約2ヵ月にわたって米陸軍機の空襲を受け続けたマロエラップに、昭和19(1944)年1月30日、こんどは米機動部隊の艦上機が来襲した。敵機はF6Fをふくむ70機以上。対する零戦は、連日の戦闘に消耗し、可動機はわずか11機になっていた。
「この戦闘中、私は1機のF6Fが、海面すれすれの超低空をフラフラ飛んでいるのを発見しました。追いかけて、後ろについていつでも射撃できる態勢になったんだけど、敵は気づいているはずなのに反撃しようともしない。さらに近寄って操縦席をのぞき込むと、敵の搭乗員は疲れきった表情でこちらを見るだけでした。――それを見たら墜とせなくなりましてね。
空戦してるときは相手は飛行機だから。搭乗員の顔が見えないから戦えるんだけど、顔を見てしまったら人間同士ですから。甘いと言われるかもしれんが、どうしてもとどめを刺せなかった。もっとも、戦後、アメリカから照会が来たところによると、その搭乗員は結局、そのあとすぐに海に突っ込み、戦死したらしいです」
この日、撃墜された零戦は1 機だけだったが、残りも全機が不時着もしくは地上で撃破され、マロエラップにおける航空兵力は完全にゼロになってしまった。
飛行機を失った二五二空では、壊れた零戦から機銃をおろして総員が陸戦隊となり、米軍の上陸に備えることになる。敵の一方的な艦砲射撃や爆撃を受け続けること1週間。2月5日、マロエラップから搭乗員のみが脱出して内地で再起をはかることになり、宮崎さんら17名は同日夜、一式陸攻3機に分乗して思い出深い基地をあとにした。
昭和19(1944)年2月中旬、内地に帰還した二五二空の残党は、千葉県の館山基地でただちに再建にかかった。3月末には訓練基地を青森県三沢に移す。6月、マリアナ諸島に米軍が来襲、それを迎え撃つため「あ」号作戦が発動されると、二五二空も、横須賀海軍航空隊を中心とする「八幡空襲部隊」に編入され、硫黄島に進出することになった。
宮崎さんが硫黄島へ進出したのは、二五二空としての第二陣、6月25日のことである。すでに前日、6月24日には米機動部隊が大挙して来襲、F6Fとの大空戦の末、二五二空は飛行隊長・粟信夫大尉以下10名を失い、八幡部隊全体の零戦の損失は34機にのぼっていた。対する米軍の損害は、空戦によるものわずかに6機。
7月3日、4日にも大規模な空戦があり、これには宮崎さんも参加したが、このときのF6Fは、マーシャルで対戦したときと比べても、じつにしつこく空戦を挑んできたという。もはや、F6Fにとって、零戦は恐るべき敵ではなくなっていたのである。
硫黄島上空における3度の空戦で、またもや二五二空は壊滅し、ふたたび内地で再編成することになった。
宮崎さんはさらに、昭和19(1944)年10月にはフィリピンに進出。レイテ島に上陸する敵攻略部隊を迎え撃つが、ここでも零戦隊はF6Fに敗北を喫し、残った搭乗員の多くは、折から始まった神風特別攻撃隊に編入され、爆弾を積んだ零戦もろとも敵艦に体当り攻撃をかけていった。
特攻隊に指名されなかった宮崎さんは、「飛行機をとりに内地へ帰れ」と命じられ、帰ったところに転勤命令が出て、第三四三海軍航空隊(三四三空)戦闘第三〇一飛行隊に転じた。三四三空の主力戦闘機となる「紫電改」は、2000馬力級エンジンを搭載、グラマンF6Fとも同等に渡り合える期待の新鋭機である。
三四三空は本拠地を愛媛県松山基地に置き、昭和20(1945)年3月19日、呉に来襲した米機動部隊艦上機の邀撃で華々しく初陣を飾ったが、宮崎さんはこの頃から体の不調を覚えるようになっていた。
「話は遡りますが、ラバウルからマーシャルに移る頃、同じ部隊で歴戦の武藤金義上飛曹が、『俺、ちょっと調子がおかしいんだ』と言う。腕をこすったら、赤くなってそれが消えない。私もやってみるとそうなる。そのときはそれぐらいで済んでましたが、三四三空に移った頃には、掻いたところが赤くなってなかなか消えないだけでなく、高度5000メートルを超えて飛行すると頭が割れるように痛くなる。軍医に診てもらうと、長い空戦生活の疲労からくる『航空神経症』とのことでした。いまはどうか知らんが、搭乗員に特有のこんな症状を合わせてそう呼んでいたんです」
結局、その後は上空哨戒や済州島付近に出没した敵潜水艦攻撃などには出撃したものの、大きな空戦に参加する機会はあまりないまま、長崎県の大村基地で終戦を迎えた。
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