日米英間の開戦時、当時の航空機の常識を覆す航続距離と運動性を持つ零戦は、米英が日本を技術後進国と侮っていたこともあり、空戦においてはほぼ無敵を誇っていた。
だが、戦況が徐々に逆転していくなかで、零戦は、米軍が次々に投入してくる新鋭機に圧倒され、戦闘機隊は幾度となく壊滅させられることになる。その渦中に身を置き続け、終戦まで戦い続けた歴戦の搭乗員は、落日の零戦を駆りながら、何を見て、何を感じていたのか。
昭和15(1940)年7月、日本海軍に制式採用された零式艦上戦闘機(零戦)は、同年9月13日、中国大陸重慶上空で、中華民国空軍のソ連製戦闘機を相手に撃墜27機(日本側記録)、損失ゼロという鮮烈なデビュー戦を飾り、大陸の制空権を握った。対米開戦の準備のため、零戦隊が内地に引き揚げるまでの1年間の戦果は、撃墜約100機、地上での撃破約170機に達し、戦闘による損失は、対空砲火で3機が撃墜されたものの、空戦で撃墜された零戦は1機もいなかった。
昭和16(1941)年12月8日、日本がアメリカ、イギリス、オランダなど連合国との戦争に踏み切った後も、零戦は、その長大な航続力を生かして、ときに敵の想像もおよばぬ長距離を飛翔して神出鬼没の活躍を見せ、すぐれた運動性能と、中国戦線で実戦経験を積んだ搭乗員の技倆もあいまって、敵機を圧倒し続けた。零戦は、日本軍の占領地域の拡大にともない、東南アジア一帯からニューギニア、ソロモン諸島へと戦いの場を広げていった。
ソロモンで戦死した、ある搭乗員の遺稿となった手記には、撃墜され、日本軍の捕虜になった米軍爆撃機・ボーイングB-17のパイロットが、日本側の訊問に対し、
“I saw two Zeros! And next second, I found myself in the fire. They were the angels of the hell to us” (2機の零戦を見た! 次の瞬間、私は炎に包まれていた。やつらは「地獄への使者」だった)
と、戦慄しながら答えたと記されている。
「地獄への使者」――それが、敵である連合軍パイロットが見た零戦の姿だった。
だが、昭和17(1942)年8月7日、連合軍の南方からの反攻拠点となり得るオーストラリアとアメリカとをむすぶ交通路を遮断するため、日本海軍が飛行場を設営していたガダルカナル島に米軍が上陸。島をめぐる攻防戦が激しくなって以降、その優位が揺らぎ始める。
日本海軍航空部隊が主要な拠点とするニューブリテン島ラバウル基地からガダルカナル島までは、零戦の航続力でも限界に近い約1000キロ。8月下旬にブカ島、10月上旬にはブーゲンビル島ブインと、前進基地が次々に整備されたが、ホームグラウンド上空で待ち構えるグラマンF4Fワイルドキャットなどの米軍戦闘機に対し、長距離飛行のハンデがある上に、帰りの燃料を積んだ重い状態で戦わざるを得ない零戦の損害は、目に見えて増加していった。
昭和18(1943)年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退。その後もラバウルの日本海軍航空部隊は、ソロモン諸島を島伝いに攻めてくる米軍を相手に必死の戦いを繰り広げたが、次々と繰り出される敵の新型機を前に、次第に苦戦の度を深めていった。
この頃、米軍が、ボートシコルスキー(チャンス・ヴォート)F4Uコルセアや、ロッキードP-38ライトニングなどの新鋭高速戦闘機を投入、さらに戦力を増強してきたのに対し、零戦はエンジンを二速過給機付きとし、翼端を短縮した三二型、翼長を元に戻し、燃料タンクを増設した二二型と、若干の性能向上は果たしたものの、あくまで小改良にとどまっている。
そして同年6月16日、日本側が総力を挙げてガダルカナル島を空襲した「ルンガ沖航空戦」で大敗を喫したのを境に、零戦の戦いはほぼ防戦一方の凄惨なものとなっていった。
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