そんな、太平洋の空の覇権争いに終止符を打ったのが、米海軍の新型戦闘機・グラマンF6Fヘルキャットの登場である。
F6Fは、従来のF4Fのエンジンが1200馬力だったのに対し、離昇出力2100馬力という強力なエンジンを持ち、最高速度は時速327ノット(約605キロ)と、日本側で実戦配備が始まったばかりの零戦五二型(翼端をふたたび短縮し丸型に整形、単排気管のロケット効果で速度向上を図る)よりも約20ノット(約37キロ)優速である。弾丸の初速が速く、威力の大きい12.7ミリ機銃6挺を主翼に装備、パイロットを保護するため背面に堅牢な防弾板と自動防漏タンクを備え、速力、上昇力、運動性、あらゆる点で大幅に性能がアップしていた。零戦五二型は、従来型に比べて性能が向上し、生産途中からは主翼内燃料タンクに自動消火装置も装備されたが、いかんせんエンジンが1000馬力級のままでは限界がある。
昭和18(1943)年9月19日、米機動部隊が突如としてマーシャル諸島の南に位置するギルバート諸島に来襲。タラワ、ナウル、マキンの日本軍基地をのべ111機の艦上機をもって空襲して去った。南太平洋で零戦が苦戦している間に、いよいよ米軍による中部太平洋への侵攻がはじまったのである。
この米機動部隊は正規空母6隻、軽空母5隻、戦艦、巡洋艦、駆逐艦などからなる大部隊で、搭載する戦闘機も、グラマンF4FからグラマンF6Fに、機種が更新されていた。
そして10月6日、こんどはウェーク島の日本軍基地が米機動部隊の急襲を受けた。午前2時42分(日本時間。日の出は3時46分)、ウェーク島の日本軍レーダーが敵機を捕捉、ほどなく、グラマンF6FやダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機、グラマンTBFアベンジャー攻撃機など約400機が来襲する。
これを迎え撃ったのは、第二五二海軍航空隊(二五二空)の零戦である。二五二空は、前年の昭和17(1942)年11月から昭和18(1943)年2月にかけて、ラバウルを拠点に、熾烈なソロモン航空戦を戦ってきた歴戦の零戦隊で、搭乗員も、支那事変以来のベテランをふくむ一騎当千のつわものが揃っている。ところが、その零戦隊が、グラマンF6Fに敗北を喫したのだ。
この日、ウェーク島を発進した二五二空零戦隊はのべ26機。機数が圧倒的に足りない上に、離陸直後という不利な態勢から果敢に空戦を挑んだが、14機撃墜(うち不確実4機)の戦果を報告したのと引き換えに16機が撃墜され、残りの飛行機も、17機の一式陸攻をふくめ地上で全滅させられるという、惨憺たる戦いになった。空戦による米軍の実際の損失は、F6Fが6機(別に地上砲火による損失12機)にすぎなかった。
この戦いが零戦とF6Fとの初対決だったが、F6Fに軍配が上がったのは明らかである。これは、それまで、少なくとも敵戦闘機に対しては優勢を保っていると信じられていた、零戦の神話が崩れ去った瞬間だった。
二五二空零戦隊は、ウエーク島からマーシャル諸島、ギルバート諸島の広い範囲に分散配備されている。ウェーク島が空襲を受けたとの報に、二五二空と陸攻隊の七五五空を麾下におさめる第二十二航空戦隊司令官・吉良俊一少将は、ただちにマロエラップ環礁の零戦隊と陸攻隊とをウェーク増援に向かわせた。零戦隊は塚本祐造大尉が率いる7機、陸攻隊は七五五空の7機である。
マロエラップからウェークまでは約千百キロ。
〈〇八二〇(午前8時20分)発進、一三一二(午後1時12分)G戦(グラマン戦闘機)×三、次ニ数機ト空戦開始、一三二〇(午後1時20分)敵戦斗機(戦闘機)×十数機ト空戦〉
と、現存する「二五二空戦闘行動調書」に記録されている。
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