14.「普通」の品定め(4)
「…………!?」
大きな満月に照らされたドラゴンは、さながら神話の住人のようだ。
よくよく目を凝らせば、ドラゴンにはいくつかの腕が生えており、その中の一番立派な
そして、その頭上――そびえたつような立派な角の間に、小柄な少女が跪いている。
ドラゴンは火を噴き、左右に激しく身をくねらせて旋回するが、少女はびくともしない。
彼女は鼻筋にすっと指を滑らせる仕草をして、そこに何もないと気付くと、ふと苦笑を浮かべた。
それから、ドレスの裾の内側から、すらりと巨大な牛刀を取り出した。
「ちょま……っ! どこから出てきた牛刀ーーーーーー!?」
刀は彼女自身と同じくらいの長さがあり、到底ドレスで隠しおおせるはずがない。
イレーネは絶叫し、ホルストやリーゼルたち大罪人もさすがに突っ込んだ。
「まったく、刃物は危ないから毒を持ち歩くように言ってるのに!」
「んもう。護身ナイフは必要とはいえ、裾から出すときに脚を見せちゃダメじゃないの!」
残念ながら、突っ込みの観点は、少々異なっているようだったが。
エルマは両手に握りしめた牛刀を、ゆっくりと天高く掲げ持つ。
まさか、と見守る一同の視線の先で、
「――はっ!」
彼女は気合い一閃、それを素早く振り下ろした!
――ごう……っ!
風が唸り、一部はかまいたちとなって監獄の壁をぴしりと弾く。
――しゅぱぱぱぱぱぱぱっ!
牛刀を操る動きが縦横無尽なものになると、風はいよいよ台風の様相を呈した。
「きゃああああああっ!」
壁の穴から吹き込んできた強風に、咄嗟にイレーネたちは顔を庇い、そして次に目を開けた時には――
「…………なっ!?」
「やっぱりぃいいいいいい!」
ドラゴンは骨と皮、そしてブロック状となった肉に分かれ、空高く、放射線状に浮かんでいた。
「心なしか花火っぽい!?」
イレーネが思わず叫ぶと、それを聞き取ったらしいエルマがふと振り返り、宙に浮いたままにこりと微笑む。
それから、何ごとかを呟くと――唇の動きを読んだモーガンは「『ターマヤー』……?」と首を傾げた――、くるりと身を引き寄せ、着陸態勢に入った。
くるん、くるん、くるん。
自由落下しながらも、エルマの身体は美しく回転を続ける。
何度目かの回転のときに、彼女は猫のようにぐんと身体を伸ばすと、大きく壊れた監獄の壁のへりを掴み、そこから勢いをつけて反回転した。
――しゅとっ!
Y字の形に両手を上げて、獄内への完璧な着地を決める。
突然目の前に帰還された格好の一同は、思わず拍手を送ろうとしかけたが、それよりも早く、エルマは素早く身をよじり、壁の外に向かってぐわっと何かを広げた。
大きな布のように見えるそれは、よく目を凝らせば、彼女たちが先ほど「
――ぐん……っ
淡い光を発するスライムは、振り回された遠心力によって、夜空めがけて、まるでナンのように薄く引き伸ばされてゆく。
ちょうど最大まで広がりきったその瞬間、エルマより一拍遅れて落下していたものたちが、一斉にスライムの「クッション」に到達した。
「はっ!」
短い掛け声とともに、次にエルマは、広がりきったスライムを収斂させてゆく。
上に乗っていた、ドラゴンのコマ切れ肉が、骨が。
エルマが予めドラゴンの鉤爪に引っ掛けておいた、狩りの収穫物すべてが。
そしてイザークが、ルーカスが、一斉に監獄の内側へと引き寄せられていった。
――すととととと、と…………っ
最後だけは静かな音を立てて、それらがイレーネたちのすぐ目の前に並べられてゆく。
ドラゴン肉の横に、気付けば正座させられていたイザークとルーカスに向かって、エルマは「まったくもう」と両手を腰に突いた。
「【暴食】のお父様。危うくドラゴンに捕食されるところだったではありませんか」
「面目ない。味見に、夢中に、なるあまり、背後が、おろそかに……」
「私だけが相手なら問題ございません。ですが本日は殿下も一緒です。ご覧ください、殿下は事態に取り残されて、すっかり黙り込んでいらっしゃるではありませんか」
彼女はそう言って、ぐったりとしたルーカスを指差す。
マントル付近から成層圏付近まで急上昇・急降下を強いられた彼は、のろのろと顔を上げた。
「え……?」
正直、肉体的な負荷が強すぎて、展開に頭が付いていかない。
なにを言いだすんだ、という表情をどう受け止めたのか、エルマはしっかりと頷いた。
「実は私、この狩りが始まった瞬間から、殿下が必死の形相で突っ込んでばかりなのが、少々気に掛かっておりました。特に、【暴食】のお父様がドラゴンを拳で気絶させたときの、殿下のあの驚愕と絶望が入り混じった表情。それを見て、殿下は我々の狩りのスタイルに強い疑問を抱いているのだと、確信せざるをえませんでした」
ルーカスはわずかに目を見開く。
(エルマが……自分たちの非常識さを、理解した……?)
そこは表情を読まずともわかってくれよとは思うが、それでも感動を禁じ得なかった。
ルーカスの顔に歓喜の色が滲んだのを見て取り、エルマは「なにもかもわかっている」と言うように重々しく頷いた。
「一年という短い期間ではございますが、私も外の世界を見てきました。その過程で、何度も何度も、監獄の『普通』とシャバの『普通』は異なるのだということを、身をもって学んでまいりました」
今、エルマがイザークを見つめる目には、与えられた価値観を鵜呑みにする善良さだけでなく、自ら知恵を付けようとする聡明さが浮かぶ。
ぽかんとするイザークに、エルマは凛とした口調で続けた。
「【暴食】のお父様。僭越ながら申し上げます。ドラゴンを拳で昏倒させ、丸焼きにして食すというお父様のスタイルは、シャバではまるで『普通』ではないのです」
「なんだと……?」
家族に眉を顰められても、堂々と意見を述べるエルマの姿に、ルーカスは、そしてそれを見守るイレーネは、思わず胸が熱くなるのを感じた。
エルマが、真っ当なことを言っている。
常に常識外れだったこの少女が、今や自分と大罪人の間に立って、「普通」を説こうとしている――!
「そうだ。そうだとも――!」
「シャバでは、ドラゴンやヒュドラといった
だが、その感動は、一瞬で地面にべしゃっと
「…………はっ!?」
「私もいつ指摘しようかとやきもきしたのですが……。お父様がドラゴンを仮死状態に留めたのは、丸焼きにこだわるあまりですよね。ですが、シャバではむしろ、即座に頭を落とし、揚げ物にするのこそが
違う。
そうじゃない。
だがエルマは、もはやドヤ顔と称して差し支えない表情になっている。
彼女は胸を張ると、「そうなのか……!」と驚くイザークに言い切った。
「ええ。私もシャバで、いろいろな『くびなが』を丸焼きにしては驚かれたものでしたが、先日ヒュドラを唐揚げにした際は、大層喜ばれたものでした。なので、間違いございません」
エルマは誇らしげに告げ、それからイレーネをちらりと見て付け足した。
「そして頂く際は、ソースではなく、塩が『普通』です」
得意げに言い切って、エルマは「差し出がましいようですが」とイザークに拳を突きつける。
その中には、ダイヤモンドと見まごうような、美しい結晶が載っていた。
「先ほどのドラゴンの涙から、塩を精製してみました。どうぞご用立てくださいませ。――お父様、繰り返すようですが、ドラゴンは唐揚げ、そして塩。これが、シャバの『普通』というものなのですよ」
その、邪気の無い笑顔。
ルーカスとイレーネは同時に天を仰ぎ、力なく呟いた。
「もしや……俺たちはエルマに、とんでもない成功体験を植え付けてしまったんじゃないか……?」
「ごく一部の嗜好が、エルマの中で、『シャバの普通』になろうとしていますわ……」
だが、二人の焦燥などいざ知らず、イザークは感嘆の声を上げるだけだ。
「エルマ……おまえ、成長、したな」
「いえ。ひとえに、殿下やイレーネといった、素晴らしい方々によるご指導の賜物です」
「そうか……」
神妙に答えるエルマに、イザークは感じ入るものがあったらしい。
ふと目頭を押さえると、もう片方の手でぽん……とルーカスの肩を叩いてきた。
「ルーカス・フォン・ルーデンドルフ。俺は、認める。おまえは、エルマの、『普通』の師匠だ……」
「なんだそれ!?」
「娘を……よろしく頼む……」
なにかそういうことになったらしい。
すっかり展開に取り残されたルーカスをよそに、大罪人たちはまばらな拍手を送る。
「わー、『普通』の師匠だってー」
「よかったわねェ」
こんなにおざなりな祝福を受けたのは初めてだ。
「いやはや感動的な光景ですねえ。主旨が行方不明気味ですが、本人も相手を認める発言をしておりますし、二戦目もまたルーカス様の勝利ということで。さて、敗者の【
モーガンが穏やかかつ雑な進行を見せる。
どうやら、お茶好きなラトランド人である彼は、
彼はちゃきちゃきとリング撤収の指示を飛ばすと――クレメンスがまた絶叫していた――、今度はその場に豪奢なティーセットを出現させる。
ルーカスが呆然としている間に、今、優雅な茶会が始まろうとしていた。
「おい……!」
なんなのだ、これは。
彼らの気分一つで、食事会が品定め会になり、ダンジョン攻略になり、茶会になる。
あまりに取り留めのない展開に、根が真面目なルーカスは顔を引き攣らせたが、その時、
「殿下」
彼の裾を、そっと引く者があった。
エルマである。
「さすがでございますね」
彼女は、露わにした夜明け色の瞳に、純粋な称賛を浮かべ、こちらを見上げていた。
「殿下が無事に家族からの『肝試し』をくぐり抜けられるものかと、傲慢にも私、少しひやひやしていたのですが、まったく無用な心配でしたね。【怠惰】のお父様や【暴食】のお父様相手に、あっさり勝利を認めさせてしまうなんて」
「いや……」
どちらもルーカスの実力というよりは、エルマの介在によって、不可解な展開に行きついただけなのだが。
ルーカスは微妙な顔つきになったが、エルマはそれを吹き飛ばすように愛らしくはにかみ、両手を合わせた。
「それに、副次的ではありますが、私の『普通』についての成長ぶりも、家族に認めてもらえて……。思えば、家族に物申したことなど初めてで、ドキドキしましたが、私、とても自分が誇らしいです」
それは恐らく、モーガンに向かってロンダリングより結婚詐欺を勧めたり、イザークに向かって、ドラゴンの丸焼きより唐揚げを勧めたことを指すのだろう。
ルーカスは遠い目になる。
だが、
「これも、ひとえに殿下のおかげですね。――本当に、ありがとうございます」
桃色に上気した頬を晒され、純粋な敬意の籠もった眼差しを向けられ。
それでもなお、「むしろ『普通』から全力で遠ざかっている!」などと否定することは――悲しいことに、ルーカスにはできなかったのである。
「…………そうか」
「はい。感謝の気持ちを込めて、ドラゴン唐揚げは、私も腕によりをかけて調理いたしますね」
「………………………………そうか」
ただそれだけ、短く頷くと、イレーネやフェリクスから、えもいわれぬ生温かな眼差しが向けられるのを感じる。
ルーカスは静かに視線を逸らした。