7.「普通」のディナー(2)
「クレメンスだ」
「…………!」
名を呼ばれ、相手――アントンに報告書の書き直しを伝えに来たクレメンスは、ぎょっと一同に向き直る。
それから、フェリクスとテレジアを順に眺め、ふんと皮肉気な笑みを浮かべた。
「――これはこれは、王太后陛下にフェリクス陛下。いや、『元』とお呼びするべきですかな? 国民を欺いた大罪のお噂はかねがね。再びお会いできて光栄ですよ」
言葉には、苛烈とも言える毒が滲む。
鋭い眼光には、宰相時代に装っていた穏やかさの欠片も残っていなかったが――、
「いいね、クレメンス。実にいいよ」
「候のそのブレなさは、尊敬に値すると俺も思いますよ」
「ロットナー元侯爵閣下……よくぞこの監獄で、かつての悪役キャラを崩壊させずにここまで来ましたね……っ」
「……ほっとしたぞ」
フェリクスどころか、テレジアまで含む面々から一斉に真顔で頷かれ、クレメンスは嫌そうな表情になった。
「……監獄送りにした政敵が、五体満足で生き生き暮らしている姿を目の当たりにして、出てくる感想はそれでよいのか……?」
「ふふ、常識を問われちゃったー。やっぱクレメンスはこうでなきゃ。心身ともに健全でよかったねえ」
腕をもいでよし、といった手紙まで添えた本人が、しれっと言い切るのを見て、クレメンスは顔を引き攣らせる。
が、クレメンスには悪いが、そんな真っ当なリアクションを維持する彼の存在は、監獄の異常さに食傷を起こしていたルーカスたちにとって、一服の清涼剤でしかなかった。
おかげで、ルーカスたちは気絶することもなく、エルマによる監獄ツアーを最後まで終え――もちろんその後も衝撃の連続だった――、こうして休憩室で一服しているという次第なのである。
「いやあ、面白かったねえ。エルマがあんな仕上がりになるのも納得の環境だよねー」
ぐったりとした一同をよそに、フェリクスはのほほんと書物のページをめくりながら言う。
そのあまりに泰然とした様子に、ルーカスは唇の端をゆがめた。
「……義兄上の、その動じない心の持ちようには頭が下がりますよ」
「そりゃだって、想定の範囲内だからねえ」
「は?」
軽く目を見張れば、相手は変わらずページに視線を落としたまま、なんでもないことのように告げた。
「エルマが『家族』と呼ぶ大罪人に、この監獄は支配されている。彼らは皆エルマのことを溺愛していて、彼女のために、それぞれの能力を生かしてこの監獄を快適な城に整えたそうだよ。傾国の娼婦に、神殺しの英雄、一国を破綻させた詐欺師に、聖獣を殲滅した狂戦士、一国の貴族令嬢を丸ごと洗脳した誘拐犯に、脳を開き肉人形すら作り出せると噂の狂博士。それから――」
そこで、フェリクスは頬杖を突いたまま、くすりと笑う。
「暫定、魔族の娘――エルマ。合わせて七人。それが、『至高の七人』と呼ばれる大罪人にして、ヴァルツァーという王国を支配する者の正体さ。一人でも厄介な彼らが、何人も寄り集まって本気を出したなら、そりゃあこんな魔境ができあがってもおかしくないさ」
「…………」
ルーカスは絶句する。
あっさりと披露された監獄の真実。
その内容そのものにも驚いたし、まさか、このへらへらと笑ってばかりの異母兄が、そこまでの情報を掴んでいるとは思わなかったのだ。
「ふふ、どうしたの、ハトが豆鉄砲食らったような顔をして。エルマ自身が『至高の七人』の一人だっていうのがショックだった? それとも、お歴々の華々しい肩書にびっくりした?」
「いえ、……いつの間に監獄の内実をそこまで把握し、……かつ、なぜ今まで放置していたのかと――」
動揺しながら答えると、フェリクスは呆れたように肩を竦めた。
「君がとろすぎるんだよ。エルマの育った環境に興味はあるけど、踏み込むのは憚られるからしませんって? 馬鹿だねえ、そこは即調査一択でしょ。放置したのは――彼らの行動や能力が異常だと理解はしていたけど、彼らの興味がエルマの養育にしかないこともまた理解していたから。牙を剥かない猛獣なら、わざわざ駆除する必要はないでしょ」
むしろ、彼らが手塩にかけて育てたエルマを、フェリクスは戦力として搾取しているのだ。
「ここに孤児でも一個隊分放り込めば、世界最強の軍ができるかなあ」
あはは、と笑うフェリクスは、やはり人道的に何かが欠けている。
だが、その情報収集能力や、国の利益のためならどこまでも冷酷になれるその在り方は、――やはり王なのだ。
ルーカスは、口を引き結ぶと、ややあってから問うた。
「……義兄上は、なぜあの軽薄なエルヴィンに、してやられたままなのです。はっきり言って、彼の主張など、あなたが本気を出せば力技でねじ伏せられる。そうでしょう? それをなぜしないのですか?」
「うーん」
フェリクスは、不意に飽きてしまったように、ぱたりと本を閉じた。
「なんでだろうねえ。物証を押さえられて手も足も出ないから? どう思われます、王太后陛下?」
彼はそこで、ずっと沈黙を守っていたテレジアに向き直った。
よそよそしい口調で問えば、相手もまた、視線すら返さずに無言を貫く。
しん、と急に重苦しくなった休憩室の空気に、ルーカスは眉を顰めた。
「義兄上。なんでもすぐに茶化して誤魔化すのはおやめください。俺はこの事態に納得してないですし、ついでに言えば、エルマをこれ以上搾取するなと申し出た件も、話が着いたわけではまったく――」
「君ってさあ」
ところが、フェリクスは途中で遮る。
彼は相変わらず、にこやかに続けた。
「僕の思っていた以上に面倒見がいいというか……馬鹿だよね。なぜ反撃しない、とか、エルマをこれ以上搾取するなとか……僕が王であり続けるって、頑なに信じてるんだ?」
だが、その緑色の瞳は、まるで笑っていない。
侮蔑、と呼んでも差し支えない色が、そこには浮かんでいた。
「それは――」
「もう少し、身の振り方を考えた方がいいんじゃない? どうするのさ、王位剥奪どころか、処刑まで見込まれる僕たちに、のこのこ付いて来ちゃって。監視役なんてしょせん建前。拘置期間中に僕たちに便宜を図った、とかなんとか難癖を付けて、エルヴィンは君も処分するつもりだよ。まさか、そんなこともわからない?」
フェリクスは曲げた人差し指の関節で、こん、とテーブルを叩く。
押し黙る異母弟に対し、いつもと変わらぬ調子で話し続けた。
「とろいんだよ。エルマの正体とか、僕の素性とかさあ。少し考えればわかるだろうに、丁寧な解説を、ただ口を開けて待ってるなんて」
それは、痛烈な批判だ。
フェリクスはいつだって、相手を苛立たせる物言いをする。しかし、これだけ明確な攻撃性を滲ませてきたのは初めてだ。
あまりの毒々しい発言に、傍で聞いていたイレーネは首を竦める。
だが、
「――ええ、そうですね」
ルーカスの返答は冷静だった。
「俺は馬鹿なので、本人の口から説明されないと、どうしていいか判断できないのです」
真っすぐ異母兄を見据える視線には、愚かさよりもむしろ、潔さと意志が滲む。
「身の振り方? 決めませんよ。あなたの口から、ちゃんと事情と理由を説明してもらうまではね。なにせ――馬鹿なので」
きっぱりと言い切ると、フェリクスはほんの少しだけ目を見開いた。
だが、それもすぐ剣呑に細めてしまう。
「ふぅん――」
再びなにかを言おうとしたようだが、しかし、それは途中で掻き消えてしまった。
なぜならば、
――どん……っ!
廊下の向こうから、監獄全体を揺るがすような爆発音が聞こえたからである。
「きゃああっ!」
「――…………!?」
「なんだ……!?」
一同はぱっと顔を扉に向ける。
ちょうどそのタイミングを計ったかのように、休憩室にやってきた者があった。
「失礼いたします」
エルマである。
彼女は着替えたらしく、王宮お仕着せのメイド服ではなく、シンプルな――けれど明らかに上質とわかるドレスを身にまとっていた。
眼鏡も外し、地味な化粧も落とした彼女は、どこからどう見ても、最上級の美少女だ。
久々にドレスアップした姿の、その破壊力に、一同はそれまでの険悪な空気や、爆音についても忘れてしまう。
が、エルマの次の言葉で、乱暴に現実に引き戻された。
「食事の準備が整いましたので、ダイニングへとご案内いたします。今夜は星がきれいですね。吹き抜けを用意しましたので、星見をしながらのディナーとしゃれこみましょう」
「――…………」
「……吹き抜けを」
「『用意』しました……?」
先ほどの爆発音って、まさか。
顔を強張らせる一同に、エルマは嬉しそうに微笑む。
「四季折々の自然を愛でながら、食事を堪能する。それが、普通のおもてなしだと教本にありましたので。皆さまにはありきたりな趣向となってしまうかもしれず、恐縮ですが、楽しんでいただけますと幸いです。――さ、どうぞ」
初っ端からこの暴投。
どう考えても、ろくな展開が待っていないやつだ。
その場で固まる彼らをよそに、今、監獄のディナータイムが始まろうとしていた。