2.「普通」の里帰り(2)
聞き間違いかと思ったが、訂正も説明もない。
どうやらこれは本当であるらしいと理解した彼らのうち、中でもルーカスは、ひどく剣呑な表情を浮かべた。
「おい、今なんと言った!?」
「ですから、妊娠したと。経過は良好……」
「経過は今聞いていない! 相手は誰だ!?」
肩を掴んでの問いに、エルマは戸惑ったように眉を寄せる。
それから、眼鏡越しにもそうとわかるほど、沈鬱な表情を浮かべた。
「わかりません……」
「わからない!?」
ルーカスは息を呑み、それから剣呑に声を低めた。
「……本意ではないということか? 言え。相手は誰だ」
「いえ、本意でないということは無いと思うのですが――」
「はぐらかすな、言え。殺しはしない。……誰だ?」
いよいよ殺気すら
「誰だと思います?」
「知るか!」
なぞなぞではあるまいし、と吠えるルーカスをよそに、エルマはふいと顔を俯けた。
「個人的にはお父様であってほしいというか、それ以外に選択肢は無いと思うのですが……ですがなんと言ってもあの母ですので、誰でもあり得るというか、一周回ってありえないというか、さらに半周回ってやはりありえる……ああもう、なぜ【嫉妬】のお兄……お姉様ときたら、肝心なことを書いて下さらなかったのか……。いくら獄内がお祭りムードでお忙しいとはいえ……」
唇に指を当てたまま、ぶつぶつと呟きはじめた辺りで、ルーカスたちはようやく何かおかしいと気付きはじめた。
「……『母』?」
「え? ええ」
「それはつまり、その、元娼婦だという……?」
「ええ。母が妊娠したと、家族から手紙をもらったのです。――は。前職時代の知り合いがお相手、という可能性も……?」
エルマは返事もそこそこに、再び思索の海に沈んでゆく。
どうやら、今朝方手紙を受け取って以来、こうして悶々と母の妊娠について考え続けていたらしい。
お相手は……だとか、祝いの品は……だとか、名付けはどうすれば……などと唸るエルマを見て、一同はがくりと脱力した。
――主語を言ってくれよ。
どっと安堵するとともに、いやいや、考えてみれば
ルーカスはようやく、他者の妊娠の報を聞いた際に、真っ先に告げるべき言葉を思い出した。
「それは、おめでとう――でいいんだよな? というか、相手については、なにしろ外部と隔絶されたヴァルツァー監獄での話なのだから、獄内の人物と考えるのが普通なのではないか?」
「いやぁ。外部接触厳禁の監獄からしれっと手紙が届いてる時点で、いろいろお察しだよねぇ?」
横でフェリクスがぼそっと呟くのを聞き、はっとなる。
そういえば、これまでのエルマの話を総合するに、エルマの「家族」とやらは、のびのびと獄外へ遊泳やピクニックに行ったりする輩なのであった。
「……まあ相手のことは一旦置くとして、なにしろ重大な慶事だ。さっさと返信するなり、祝いを贈るなりすればいいではないか」
その言葉を聞きつけると、エルマはぱっと顔を上げた。
「――そのことなのですが、陛下、ならびに殿下」
「うん?」
急にお鉢が回ってきたフェリクスも、目を瞬かせる。
エルマは男性陣を見つめ、真剣な様子で言い募った。
「手紙によれば、母は周囲の過剰な反応を避けるため、妊娠をぎりぎりまで隠し通し、私にも伝えぬようほかの家族に頼んでいたそうです。痺れを切らした姉がこうして手紙を寄越してくれたのですが、――なんと、既に臨月に差し掛かっているとのこと」
「あれまあ。随分時間が経ってたんだ」
「はい。妊娠出産とは、常に何が起こるかわからぬ非常事態の連続とお聞きします。正直今この瞬間にも、お腹の子が飛び出してくるのではないかと、私は朝から、気が気ではございませんでした。このままでは、仕事も手に付かず、方々にご迷惑をお掛けするやもしれません。ですので――」
そこで、エルマは両手を組み、すとんとその場に膝を突いた。
「どうか、只今から、母の出産……できれば産後落ち着くまで、里帰りを許可していただけませんでしょうか?」
ルーカスは目を見開いた。
思いがけない事態だが、まあ、もっともな願いではある。
「それは、そうだな。獄内では女手も足りないだろうし――」
だが、
「だめー」
フェリクスが間延びした口調でそれを取り下げたので、ルーカスは眉を寄せた。
「――今なんと?」
「今すぐにはだめだよ。シュタルクを堕として欲しいって言ったでしょ? そうだねえ、シュタルクの経済か宗教心か文化を完全にこちらに依存させて、あとはラトランドやモンテーニュへの種蒔きまで済ませたら、ちょっとは休憩していいよ」
ルーカスの碧い瞳が見開かれた。
そんなもの、一流の工作員や大量の兵力を投じても、どうしたって一年以上かかる案件だ。
「義兄上。あなたの横暴ぶりも、いよいよ度が過ぎ――」
「時間がもったいないんだよね」
フェリクスは煩わしそうに手を振る。
それから、再び深々とソファに背を預けた。
「王たる僕の時間は、この国の誰のものより貴重なんだ。一介の侍女の私事と、一国の王の公務、どちらが優先するのが普通かなんて――自明の理だよねえ?」
国の命運を担わせる戦力だと表現したその口で、一介の侍女にすぎぬと言い放つ。
そのあまりの身勝手さに、ルーカスもイレーネも顔を歪めた。
愚王の仮面を被った、聡明なフェリクス。
たしかに彼は有能な王なのだろうし、その即位以降、ルーデンは着実に成長を続けているが――あんまりだ。
「…………」
エルマはショックのあまりか、すっかり黙り込んでしまっている。
「義兄上、お言葉ですが――」
こんな非情な目に遭っても、反論一つしない哀れなエルマに胸を痛め、ルーカスたちが剣呑な表情で口を開いた、その時だ。
――ばんっ
王の私室の扉が突然開いたため、一同はぱっと振り返った。
衛兵に守られているはずの扉には、上等なチュニックに身を包んだ一人の青年が、やけに気取ったポーズで佇んでいた。
「……ごきげんよう」
その人物は、癖のある豪奢な金髪を掻き上げ、にやりと微笑む。
それから、フェリクスの許可も待たず、かつかつと靴を鳴らして部屋に踏み入った。
「ご会談中でしたか。ですが、なにぶん緊急事態につき、非礼の段、ご容赦を?」
青年は、ふっと微笑み、颯爽と部屋を横切ってゆく。
(なんか……)
これまでに見たことのない人物に、どうした礼を取るべきか悩みつつ、イレーネは思った。
(なんかすごく……)
すらりとした長躯。
後ろに高位貴族と見える人物を数名連れながらも、けっして臆せぬ堂々とした姿。
目鼻立ちははっきりとし、明るい金髪や緑の瞳も、いかにも華やいでいるが、
(――なんか、うざい)
特に、濃ゆくて長い下睫毛が、見ているだけでうっとなる、とイレーネは思った。
それから、自身の感想を手掛かりに、目の前の青年の正体に思い至った。
癖のある金髪に、緑の瞳。
ルーデンの伯爵家出身側妃の息子にして、数年前国外――それこそシュタルクに追い払われた、第三王子。
「エルヴィン王子殿下……」
エルヴィン・フォン・ルーデンドルフ元王子の登場に、フェリクスとルーカスは目を見開いた。
「おやまあ、これは久しぶり。どうしたの? 僕の冠婚葬祭くらいにしか戻ってきちゃだめだよって、クレメンスから言い含めさせたと思ったけど。脳味噌から下睫毛に栄養が流れ過ぎて、覚えられなかったかなぁ?」
とぼけた口調には、隠しようのない棘が滲む。
が、エルヴィンは動じず、ふっと白い歯を見せて――いちいちくどい仕草だ――笑った。
「覚えておりますとも。ですが……いえ、だからこそ、私はこの場に参ったのです」
彼は芝居がかった所作でぐるりと背後を振り返ると、控えていた数名の人物に向かって、「例のものを」と合図した。
ルーデンのものとは少々異なる礼装に身を包んだ老人たちは、恭しくエルヴィンに小箱を差し出す。
水晶のようなものをくりぬいたその中には、透明な液体が湛えられていた。
「それは……?」
ルーカスが眉を顰めると、エルヴィンは我が意を得たりとばかりに頷く。
そうして、箱をずいとフェリクスたちに突きつけた。
「これは、我がシュタルクの聖具生産技術の
不法侵入者はエルヴィンの方だというのに、彼は妙に堂々としている。
実質的には国外追放されたのだとはいえ、身分としては王弟である彼が義兄を尋ねてきたことについて、臣下がなにを言えるでもない。
ルーカスは警戒を、イレーネは戸惑いを含みながら、ひとまずエルヴィンの一方的な行動を見守った。
「まずはこちらの水に、とある人物の血液を垂らします。血液でなければ、唾液でもいい。髪でも、肉片でも、その人物の一部を成しているものならば。今回は、遺髪を使いました」
エルヴィンの指さす先を辿れば、たしかに水底には、細い黒髪が一本だけ漂っている。
どことなく不穏な気配の漂う小箱を左手に掲げ、右手では胸元を押さえながら、エルヴィンはフェリクスに一歩一歩近付いていった。
「そして、この箱に、もう一人の――
そこでテーブルに置いてあったフェリクスのワイングラスを取り上げると、懐から取り出したハンカチで、さっと飲み口を拭った。
「たとえば、グラスに付いた、ごく微量の唾液でも」
「なにを――」
冷ややかに目を細めるフェリクスの前で、エルヴィンはハンカチを小箱に押し込んだ。
途端に、
――じわ……っ
透明であったはずの水が、ハンカチの触れたところから赤黒く濁ってゆく。
それを見て、エルヴィンは勝ち誇ったような笑い声を上げた。
「ほら! ほら見たか、偽の王め! ははは、シュタルクの忠臣たちよ、今こそ私は諸君に報いよう。この男は世を謀る大悪党。一方の私が、そして誇り高き技術の国シュタルクこそが、真実を見破りそれを告げんとする、正義だ!」
朗々たる言葉に、背後の老人たちは感極まったように手を打っている。
すっかり状況に取り残されているルーカスたちに、エルヴィンは大げさに肩を竦めて向き直った。
「ご挨拶が遅れましたね、ルーカス義兄上。今いったいこの場でなにが起こっているのか、女と剣にばかり溺れていた貴方にはわかりますまい? 異母兄弟のよしみで、解説してさしあげましょう」
彼は、濃い相貌に、にやりと笑みを乗せた。
「これは、血縁関係――真に親子であるかを鑑定するために作られた聖具。親子以外の人体が同時に触れれば、たちまち水は濁る、そのように作られている。……おっと、お疑いのようなら、何度でも、他の部位を使ってでも検証して差し上げますが」
エルヴィンは愉快でたまらないというように、水晶の小箱を指差した。
「先ほど加えた唾液は、フェリクス義兄上のものでしたね? そしておわかりですか、この黒髪は――我らが父、先王ヴェルナーのもの。こちらも、何度でも証明いたしましょう」
彼が何を言わんとしているかを理解し、ルーカスたちは顔を強張らせた。
ヴェルナー王の遺髪と、フェリクスの唾液を、聖なる水は反発させた。
つまり。
エルヴィンは睨むようにしながらフェリクスに指を突きつけ、言い切った。
「つまりね。フェリクス義兄上は――この男は、王の実の息子ではない。真なるルーデンの血統を受け継がぬ不義の子……偽の王ということですよ」
高らかな宣言に、ルーカスはぽかんとする。
いったい何の妄言を、と呆れの溜息を漏らそうとしたところで、ふと、異母兄が何も言わないでいることに気が付いた。
「……義兄上?」
フェリクスは興ざめしたような顔つきで、ただ黙っている。
いつまでも、何も言い返さぬ彼を見て、ルーカスは徐々に顔を強張らせていった。
「……本当なのですか?」
その時点で、彼はまだ、エルヴィンよりはフェリクスの方を信じていた。
エルヴィンはその母親の影響か、何かと芝居がかった、荒唐無稽な言動を取ることが多かったし、フェリクスがそんな彼にやすやす追い詰められるとは思えない。
さては、よほど痛烈な反論を考えているのだろうとでも思っていたのだが――、
「んー……まあ」
頬杖を突き、フェリクスがしれっと呟いた内容に、驚愕した。
「そうだねぇ」
彼は、それがなに、とでも言わんばかりの口調で、気だるげに頷いたのだった。