1.「普通」の里帰り(1)
ルーデン王城の名物と言えば、威容を誇る宮殿や広大な庭、膨大な蔵書を誇る図書室などが挙げられるが、ここ最近、そこにもうひとつ、あるものが加わりつつある。
それは建築物でなければ美術品でもない。
たった一人の人物のことを指す上に――その人物の正体とは、成人もしておらぬ少女であった。
名を、エルマ。
ひとたび彼女が庭に向かって旋回すれば、その庭木は一分の隙もなく剪定され、ひとたび彼女が手首を閃かせれば、どんな難解な言語で書かれた文書でも、たちまちのうちに翻訳される。
土いじりをすれば化石を探し当て、散歩をすれば鉱脈にぶつかり、ふと相手の顔を見つめればそこに隠された不倫事件の真相を見破りと、彼女が歩く先々では、常になんらかの奇跡が起こる。
王宮で働く者たちは、彼女の仕事ぶりを目の当たりにすることで、日々自身の「驚愕最高記録」を更新し、時に、悟りのその先へ到達したりもするのだったが――、
「……あれ? なんだ、こりゃ……?」
その日、エルマのこなした仕事を見た人々は、揃って首を傾げた。
「いた! エルマ!」
朝から王宮中を駆けずり回っていたイレーネは、ようやくお目当ての人物を廊下の先に探し当てると、ほっと肩の力を抜いた。
この一時間ほどの間、ずっと探していた同僚・エルマは、今は、壁の一つに掛けられた絵画の補修作業をしているところだった。
彼女がほんのひと振り筆を滑らすだけで、色褪せていた絵画が――夜の海辺を描いた風景画だった――みるみる鮮やかさを取り戻していく。
(なんだ、全然、いつも通りのエルマじゃない)
相変わらずの凄まじい有能さに、イレーネは胸を撫でおろしながら近付いてゆき、しかし、エルマが補修した海岸部分に視線をやると、ぎょっと目を見開いた。
波が寄せるだけだったはずの砂浜には、なぜか、真珠のような涙を流す亀が描き込まれていた。
「何描いてるのよエルマ!」
「……ウミガメの産卵です……」
「いやいやいや! なんで元には無かったウミガメが、ものすごい存在感で登場してるの!?」
「は」
肩をがくがく揺さぶると、エルマはようやく我に返ったように絵画を見つめる。
むしろ補修前よりも一層美しく神秘的に仕上がってしまった絵を前に、彼女は「しまった」とでもいうように顔を強張らせた。
「申し訳ございません。気が付けば、腕が勝手に動いておりました。補修し直します……」
しょんぼりとした表情も口調も、彼女が真実無意識だったことを告げている。
イレーネは眉を寄せて、
「……ねえ」
と慎重に切り出した。
「あなた、今日おかしいわよ」
「え……?」
「覇気がないし、眼鏡も心なしか曇ってるし。ぼうっとしているっていうか……なんか、関心が変な方向に向いているでしょ」
イレーネが変な方向、と言ったのは、ここに来るまでに、エルマの仕事ぶりを目撃したためだ。
輪郭だけを整えればよいはずの庭木は、なぜか無駄に芸術的な聖母子像の形に象られ、ルーデン語に訳すだけでよいはずの外国書籍は、なぜか難解な古代文字に訳され、調理場まで運ぶだけでよいはずの卵は、なぜかすべて孵化されていた――ついでに雌雄にも分けられていた。
挙げ句、ウミガメである。
「そちらの方がよほど凄いといえば、凄いけど……どれもこれも、命じられた業務とは異なるでしょう。訳本を見た図書室の文官なんて、語学堪能が売りだったって言うのに、何語かすらわからなくて、半泣きになっていたわよ」
「ああ……申し訳ございません。母を謳う詩があまりに見事だったので、つい古代ダズー語で表現してしまったのだと思います……至急修正いたします……」
「『つい』の因果関係がさっぱりわからないわ!?」
イレーネが素早く突っ込むと、エルマは「申し訳ございません……」と深々頭を下げる。
それでも依然として、心ここにあらずといった様子を感じ取って、イレーネは「もう」と眉を下げた。
「みんな、『なんかすごいからもうこのままでいい』って言ってくれてるけど……、エルマ、あなた、いったいどうしたのよ?」
「……『いつ胎動したのよ』?」
「いやだからほんとどうしたの!?」
おかしい。
やはり今日のエルマは絶対におかしい。
イレーネはひとまず友人の腕を掴み、無理やり医務室へ連れて行こうとした。
「また風邪でも引いたのではないの? これ以上被害が拡大する前に、さっさと休むべきだわ。とりあえず、八時間寝る! たとえ突然陛下からの呼び出しがあろうと、半日くらい待たせてしまえばいいのよ。私が許す!」
「あ」
だが、為すがままにずるずると廊下を引きずられていたエルマは、そこでぽつんと声を上げた。
「……そういえば昨日の夜、『翌日でいいから、なるはやで部屋に来てー』との陛下からの命を、
イレーネは無言で振り返った。
エルマの背後、廊下の奥には、ちょうど美術品としても通用する柱時計が置かれている。
現在――八時五分。
呼び出しから、ばっちり半日が経過していた。
「お……っ」
イレーネはエルマの腕をぎゅっと掴み直す。
「お馬鹿ぁあああああああ!」
それから、医務室ではなく王の居室に向かって、友人を引きずったままダッシュしはじめた。
***
「失礼いたしま――」
「お考え直しください、
平身低頭したイレーネが、恐る恐るエルマを部屋に引きずり込んだ時、そこではルーカスが、険しい表情でフェリクスに食って掛かっているところだった。
アウレリア国での一件以降、頻繁に見られるようになった衝突。
普段気さくなルーカスが、恐ろしい迫力をまとっているのを見て、イレーネは「まずいところに来てしまった」と身を縮こませた。
ルーカスはエルマたちの登場に気付き、やや表情を緩めたが、それでも毅然として義兄王に向かって抗議を続けた。
「なぜ今、俺たちにシュタルク国を征服してこいなどと言うのです。かつてのフレンツェルのように謀反の噂が立っているわけでも、アウレリアの時のように、向こうから仕掛けてきたのでもないというのに」
どうやら今回、エルマたちは――そしてもしかしたら自分も――、隣国の征服に巻き込まれようとしているらしい。
朝っぱらから剣呑なやり取りに、イレーネはびくびくとしながらエルマの腕を掴む。
エルマはといえば、男たちの鋭い応酬に怯えることもなく、ぼんやりと部屋を眺めていた。
「なぜって、シュタルクは良質な聖具を生み出す技術を持ってるじゃない。いつだって成長を続けたい、育ち盛りのルーデンとしては、とても気になるごちそうだ。近隣国を飲み込もうとするのは、国の本能のようなものでしょ?」
「シュタルク国は、我々の異母弟エルヴィンも住まう友好国。ルーデンの餌ではなく、同志です。禁忌の『同族食らい』をするというなら、相応の理由をお聞かせいただけますか」
フェリクスが指摘すると、すかさずルーカスが応じる。
上質な革のソファでワイングラスを弄んでいたフェリクスは、そこで「んー」と首を傾げた。
「だってあの
そこでイレーネは、フェリクスのソファの傍らに投げ出された、新聞の存在に気付いた。
ルーデン語によく似た文字で書かれたそれは、おそらく隣国シュタルクのものだろう。
かつてルーデンを去った第三王子が、今や新天地で、反ルーデン勢力をまとめ上げる旗印になろうとしている――ルーデンでも通じる単語を拾い読みするだけで、それくらいの情報がわかる。
記事には、甘ったるい容貌をした若者が、シュタルクの下層民と思しき者たちに向かって演説する場面が、一緒に描かれていた。
「だいたいこいつ、その母親ともども好きじゃないんだよねぇ。特にあの下睫毛の目立つ濃い顔を見ると、うっ、ってならない?」
「同意ですが、そんな個人的な感情を持ち出さないでください」
「あはは、でも同意ではあるんだー」
フェリクスは緩く笑って、それから目を細めてルーカスを見つめた。
「その点、僕は君のことは評価しているよ、ルーカス。だって、『相応の理由を言ってくれ』ということは、シュタルク征服を可能性として受け入れてる、ってことだからね」
王の言は絶対。国の成長は正義。
人道的に認められぬことでも、王権を維持する者としてはそうあるべきということを、ルーカスは理解している。
シュタルクを手中に収めてしまえば、たしかにルーデンとしては美味しいということも。
フェリクスはぞんざいな手付きでグラスをテーブルに置くと、異母弟に向かってにんまりと笑みを深めてみせた。
「その忠実さと、腹に隠し持った強欲さ。ああ、実に好ましいとも。……認めなよ、君が本当に反論したいのは、隣国にちょっかいを出すという行為そのものより、そこにエルマを投入するという、そこの一点だろう?」
不意にエルマの名前が出てきて、イレーネは小さく息を呑む。
ルーカスは不機嫌そうに押し黙り、エルマ本人はと言えば、やはりぼんやりと立ち尽くすだけだった。
フェリクスは膝に肘をついて、ぐいと身を乗り出した。
「ルーデンの兵士も動かさない、シュタルクの民も傷つけない。エルマを一人ひょいと王宮に放り込めば、たちまちシュタルクを無血開城できる――そんな、王族なら
「……何度も申し上げますが、これまで彼女が得てきた『戦果』は、あくまで奇跡のような偶然によるものです。彼女の力は未知数だし、不安定だ。そんな、たった一人の少女の肩に国の命運すべてをゆだねるというのは、到底まともではありません」
「まともでない? たった一人を送り込むだけで、相手国の王族が陥落するかもしれなくて、しかも失敗すればエルマだけが責を負えばいい。こんなノーリスクで、合理的で、真っ当な方法が他にある?」
フェリクスはもはや、エルマを王権拡大の駒と見なしていることを隠しもしない。
さすがにその扱いは、とイレーネは眉を顰め、こっそり傍の友人を見やった。
が、エルマは特に怒るでも悲しむでもなく、今度は天井の辺りをぼんやりと眺めている。
「……ねえ。ちょっと、エルマ? 今、陛下や殿下はあなたのことで議論していると思うのだけど……」
小声で囁きかけたのと同時に、ルーカスたちもエルマの様子がおかしいと気づいたらしい。
「曲がりなりにも、それが人の上に立つ者の発言で――エルマ? おい、どうした?」
「国の頂点に立つからこその発言だよ――って、あれ? どうしたの、エルマ?」
三人から問いかけられ、ひらひらと目の前で手まで振られて、やっとエルマは我に返ったように姿勢を正した。
「は。失礼いたしました。
「卵割ってなによ!?」
いよいよ調子のおかしいエルマに、イレーネが両手に頭を突っ込むと、男性陣も怪訝そうに首を傾げた。
「いったいどうした……?」
「どうしたもこうしたも、今朝からずっとこの調子なのですわ。心ここに在らずで」
イレーネは眉を下げると、エルマの顔を覗き込んだ。
「ねえ、私も聞きたいわ。いったい、何があったのよ」
三人からもの問いたげな視線を向けられると、エルマは顎を引き、黙り込んだ。
それから、長い躊躇いの後に、小さな声で答えた。
「――妊娠しました」
「…………」
一同、沈黙。
それから、三呼吸分ほどを置いて、声を揃えて絶叫した。
「はああああああああああ!?」
読者の皆さまも驚いてくださっていいのよ(懇願)
今回は、序盤は連日投稿、途中から隔日投稿で進めさせていただく予定です。
最後までお付き合いいただけますと幸いです。