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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「普通」は愛おしい

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0.プロローグ

 ふと腹が張った感覚を抱き、テレジアは刺繍針を持つ手を休めた。

 すっかり冷めてしまった紅茶のカップを取り上げ、もう片方の手で、大きくせり出した腹をそっと撫でる。


「どうした、坊や。ご機嫌斜めか?」


 囁く声は品のよい女性のものだが、口調はどうにも男っぽい。

 テレジアは、元は武勲に優れたロルバッハ侯爵家の、やはり男勝りの剣技で知られる娘だった。


 周囲を威圧するための声、と評されてきた己の声を、それでも極力やわらげ、テレジアは話しかけた。


「もしかして、雷が怖いのか? 大丈夫。母様が守ってやろう。世界一大切な坊や」


 窓の外では、つい先ほどまで晴れていたというのに、今やすぐそこまで暗雲が迫ってきている。

 黒い雲の合間に、ぴかりと稲妻が走るのを認めて、テレジアは刺繍道具を片付け始めた。

 もともと苦手な針仕事、暗い部屋ではますますできる気がしない。


「ふん、やはり刺繍など、クリスタの管轄だな。慣れぬことをするから雷も鳴るし、腹も張るのだ」


 あまり上手とは言えない縫い跡に向かって目を細め、テレジアは毒づく。

 何度も針で突いてしまった指先には、淡く血が滲んでいた。


 幼い頃から、彼女が興味を向けてきたのは剣技や乗馬、史学に政治。

 とても女らしいとは言えない趣味ばかりだ。


 二つ年の離れた妹クリスタはといえば、つんとした顔立ちの姉とは逆に可憐な容姿で、性格は優しく、しかも、ロルバッハ侯爵家の者としては珍しく、大量の聖力を保持していた。

 世代さえ合っていたならば、法国アウレリアに留学して、トリニテート候補生になっていただろうほどだ。


 現実には、引っ込み思案の性格ゆえ、留学の可能性など視野にも入れず、王妃として王宮に上がった姉に付いて、行儀見習いをする道をクリスタは選んだ。

 もっとも、テレジアの妊娠や、諸々の事情によって、その行儀見習いすら半年ほどで切り上げてしまったが。


「……まあ、あの子は、家で囲われてこそ幸せになれる娘よ」


 テレジアは扉に目をやりながら、ぽつりと呟く。


 廊下に面することなく、隣り合う姉妹の部屋を行き来するための扉。

 それは、身動きの取りにくい妊婦であっても、声さえ上げれば即座に助けを呼べるようにと、テレジアの命で作らせたものだった。


「……やはり、刺繍はクリスタにやってもらうとするか」


 テレジアは手元の刺繍に再び視線を戻し、溜息を落とす。

 その拍子にまた腹がぐぅと引き攣れて、彼女は眉根を寄せた。


「なんだ、怒っているのか? 許せ、イニシャルは母様自らが刺したぞ」


 腹をさすりながら、言い訳する。

 産まれてくる赤子に用意した産着には、既にFの文字が刺繍されていた。


「フェリクス、というのは長すぎたかもしれぬ。フェルやフィンにすればよかった。だが、……ルーデンの国を統べる王の名前だもの。やはり、誉あるものでないとな」


 フェリクスというのは、その昔、始祖とともにルーデンの国を興した三傑の一人の名であった。

 知恵者で、強い意志を持ち、世界を良い方向へと導いた賢者。

 その名には、テレジアの願いのすべてが籠っていると言っていい。


 腹の子の父親の愚鈍な有様を思い浮かべながら、テレジアは皮肉気に口の端を引き上げた。


「そうとも。凡愚な父からでも、優れた子は生まれる。私とおまえで、それを証明してやろうではないか。なあ――、…………っ」


 だが、不意に腹の痛みが強まって、テレジアは声を詰まらせた。

 昏倒を避けるために咄嗟に床に膝を突き、痛みをやり過ごす。


 が、いくつ数を数えてみても、痛みは遠のくどころか、ますます強まるばかりだった。


「……陣痛? もう?」


 脂汗を浮かべながら、自問する。

 だが、テレジアはすぐに首を振った。


 まだ臨月にすらなっていない。

 それに、聞いていた陣痛とは、どうにも異なる症状だ。


 息が上がる。

 めまいがする。

 耳鳴りがして、吐き気がして――そう、妙に喉がひりつく。


 瞬時に、ある恐ろしい可能性が脳裏によぎって、テレジアは青褪めた。


 妃となった、それも王の子を宿した女なら、誰もが恐れるもの。

 妊娠初期から早々に実家に帰省し、徹底的に人払いをしてまで、テレジアが避けようとしていたもの。


 ――毒。


「ぐ……ぅ」


 急に、腹の痛みが増す。

 それが、真に症状から来るものか、それとも毒を連想してしまった精神の働きによるものか、テレジアには判別がつかなかった。


 毒にはかなり注意を払ってきたはずだ。

 だとしたら、妊娠それ自体の経過に問題があるのかもしれない。

 いずれにせよ、まずい事態だ。


「……クリス、タ」


 テレジアはうずくまったまま、妹の名を呼んだ。


「クリスタ! 来てくれ……!」


 だが、扉の向こうから返事はない。

 もしかしたら妹も、この長い昼時間を持て余して、のんびりと寝ているのかもしれないが――いや、そんなはずはない。

 彼女はテレジアよりも数倍繊細で、空にこんな暗雲が立ち込めようものならば、すぐにそわそわとして、テレジアの部屋に駆け込んできたものだった。


「クリスタ! ……クリスタ!」


 ――ゴロゴロ……


 声にかぶせるように、雷鳴が轟きはじめる。

 魔物の唸り声のような低い音に、無性に不安が掻き立てられた。


「クリスタ……?」


 テレジアはじっと扉を見つめ、やがて口を引き結ぶ。

 それから、冷や汗を浮かべたまま、這うようにして扉に近付いていった。


 昼だからと灯りを入れていなかった部屋は、今やほとんど薄闇に覆われている。

 カーテンすら閉じていない窓の向こうでは、とうとう大粒の雨が降り始めた。


 ぴか、と、暗雲の隙間に閃光が覗く。

 一拍遅れて、大音声の雷が響き渡る。


 震える手でノブを回し、テレジアはぎこちなく繋ぎの扉を押し開けた。


 ギィ、と、軋んだ音がする。


 ――ピカ……ッ!


 ちょうどその時、稲妻が暗い部屋を照らし、そこに広がる光景を理解したテレジアは、極限まで目を見開いた。


「クリスタ……!」


 獣の咆哮のような鋭い雷鳴が、テレジアの耳を刺した。

本日もう1話更新します

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