▼行間 ▼メニューバー
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「友情」は悩ましい

108/169

36.シャバの「友情」は悩ましい(8)

本日、コンプエースさまにて「シャバ難」コミカライズが始まります!

よろしくお願いいたします!!

「答えなさいよ、ハイデマリー。あんたの引いた『太陽』は、本当に正位置だったのか」


 リーゼルは、掴んだ顎をぐいと引き寄せ、


「それとも逆位置――」


 そして、ふと口を噤んだ。


 ハイデマリーによって拒否されたからではない。

 逆に彼女は、すべてを受け入れるかのように、じっとこちらを見つめ返してきた。


 薄暗い居室の、さらに深い闇に閉ざされていた、天蓋の内側。

 乏しい光を集め、ようやく捉えた彼女の素顔は――やはり、どこまでも美しかった。


 今は青褪めて見える、陶器のように白い肌。

 繊細な鼻筋に、左右対称の唇。

 眉はそっと自然な弧を描き、長い睫毛とともに、藍色に潤む瞳を囲っている。


 人間離れした、麗しい相貌。


 しかし、化粧という彩色を落とした今、人を支配するかのような艶やかさは消え、逆に、庇護欲をくすぐるような、儚さと可憐さが際立っていた。


「あんた……」


 化粧は、女性を美しくするためのもの。

 そう信じてやまなかったリーゼルは、この時になってある事実を悟った。


 目の前の女は、自らの美しさを隠すために(・・・・・)、化粧をしてきていたのだと。

 それほどに、素顔を晒したハイデマリーは、リーゼルの心を惹きつけた。


 華やかで、婀娜めいた、女王然としたいつもの彼女は今ここにはいない。

 ただ、降りゆく淡雪のように、人目をいつまでも釘付けにして離さない、脆さを孕んだ美しさだけがあった。


 自身の性を女だと認識するリーゼルですら、そっと腕を差し伸べたくなる――


「――正位置だったわ」


 静かな声が響いて、リーゼルははっと、顎を掴んでいた手を緩めた。

 一瞬、言葉の意味が捉えられなかった。


「え……?」

「わたくしの引いた、『太陽』のカード。エルマとその周囲が迎える最終結果は、『太陽』の正位置だった」


 完璧な形の唇が、静謐な言葉を紡ぐ。

 藍色の瞳は理知の光を宿している。


 この女は、いつもこんな風だったろうかと、リーゼルはぼんやりと相手の顔を眺めた。


 それはまさしく、聖なるものの美しさだ。

 穢れなく、澄み渡っていて、見る者を厳粛な心持ちにさせる。


 だが、そう。

 人の足を受け入れたことのない真っ白な雪原が、庇護欲と同時に、嗜虐心をもくすぐるように、彼女の美しさもまた、どこか危うさを秘めていた。


 先ほど顎から離したはずの自分の手が、ふらりとハイデマリーの頬へと伸びていく。

 それも無意識だった。


「『太陽』の解釈は、先ほどあなたも言っていた通りよ。成功。勝利。祝福。きっとエルマは今頃、己の戦車のごとき性質を受け入れ、隠者の助力を得ながら、均衡を取り戻し、彼女なりの勝利を手にしていることでしょう」


 滑らかな肌。

 小さな顔。

 胸を突かれるほどに、華奢な骨。

 それに比べれば、ほっそりとした自分の手は、しかしやはり男性のそれだ。


 彼女はこんなにも小さく、可憐だったろうか。


「ただね、先ほどわたくしが口にしなかった解釈も、あるにはあるわ。『太陽』正位置の、もう一つの意味。それは、『誕生』」


 こんなにも儚げで、こんなにも愛らしかったろうか。


 まるで、自分の庇護を求めてくるような。

 自身の腕の中で守りたくなるような、……いや、いっそ、閉じ込めてしまいたくなるような――


「エルマと、わたくしたちを含むその周囲は、やがて『誕生』を目の当たりにすることになる。……リーゼル、わたくしね。妊娠して(・・・・)いるのよ(・・・・)


 今度こそ、リーゼルは弾かれたように身を起こした。


「――なんですって?」


 体に馴染んだ女言葉に、その一瞬、なぜか違和感を覚えた。

 しかし彼は、その違和感の正体を追究しようとする衝動を、本能的に押さえ込んだ。


 彼女の頬に伸ばしかけたままだった手に、そっとハイデマリーの手が添えられる。

 ほっそりとした指先は、切なくなるほど細く、冷たかった。


「やたら眠いのも、『おまじない』程度で気分が悪くなるのも、そのせい。まあでも、今回は(・・・)魔族との子ではないから、エルマのときに比べればだいぶ楽だわ」

「…………」

「心配させたくないし、十五年前のような大騒ぎにもしたくないの。少なくとも安定するまで……ギルにも、みんなにも、まだ内緒にしていてちょうだい。お願いよ」


 いたずらっぽく微笑む姿は、たとえいつも以上に可憐であっても、普通の彼女だ。

 しかし、それだというのに――なぜ、いつになく、こんなにも心が震えるのか、リーゼルにはわからなかった。


 いや……わかりたくなかった。


「知っているのは、あなただけ。だってあなたは、誰より大切な人だから」


 ハイデマリーはさりげなくリーゼルの手を取り、頬から離す。

 そうして、きゅっと手を握りながら、穏やかに笑いかけた。


「あなたはわたくしの、最高で、唯一の『女友達』だもの。――そうでしょう?」


 リーゼルは、無言で唇の端を引き上げた。

 息を呑むことも、顔を強張らせることさえ、彼の高い矜持が、それを許そうとはしなかったからだ。


「……はん」


 やがて彼は、軽く肩をすくめ、鼻を鳴らした。

 言葉が、ようやく追いついてくれた。


「――仕方ないわねえ。てんで魅力もない、友達もいないあんたの、唯一の女友達として、お腹の子の快適な生活を守ってやるわよ」

「ふふ、嬉しい」

「嬉しい、じゃないわよ。にやにや笑ってないで、早く寝なさい。睡眠不足は、美容と健康と胎児の敵よ」


 自分でハイデマリーを引き留めていたことを棚に上げ、立ち上がり、天蓋を下ろす。

 ソファに転がっていた「太陽」の札に気付いて回収すると、彼はさっさと部屋を出ていこうとした。


 とそこに、


「ねえ、リーゼル」


 寝台の奥から、声が掛けられた。


「大好きよ」


 既にまどろみの域に差し掛かっている、ハイデマリーだ。


 リーゼルは眉間にいくつも皺を刻み、ゆっくりと振り返る。

 それから、またゆっくりと顔の向きを戻し、今度こそ扉に手を掛けた。


「あっそ。――あたしは、大嫌いよ」

「知ってる」


 くすくすと笑い声が聞こえる。

 だがそれも、扉を閉じてしまえば聞こえなくなった。


 リーゼルはしばらく、不機嫌丸出しの顔で廊下を歩く。

 その途中、自分ともあろうものが、祝福の言葉を掛けそびれたことに気付き、なおさら彼は機嫌を損ねた。

 見るものすべてが腹立たしい。


 燭台の隅にほんのわずか積もっている埃が気になる。

 最近敷き換えさせたばかりの絨毯の柄がひどく気に食わない。

 五分以内にこのエリアの掃除番を見つけ出し――それも面倒だから、もうクレメンスでいい――、いびってやろうと決めた。


 と、


「【嫉妬】。我らが女王は、在室かな?」


 ちょうど廊下の向こうから、今日も無駄に精悍な佇まいをしたギルベルトが、盆を片手にやってきた。


 コジーをかぶせたティーポットに、繊細なカップにクッキー。

 恐らく、モーガンから託されたのだろう。


 リーゼルは無言で、ギルベルトのことを睨みつけた。

 獄内ではまあまあ好みのタイプのはずなのに、今は実に、まったくもって気に食わない。


「どうした?」

「……別に。あの身勝手な女王なら、もう寝てるわよ」


 必要以上に棘を滲ませてしまったが、ギルベルトは頓着する様子もなく、「そうか」と頷いた。

 それでも、踵を返さないところを見ると、部屋には向かうらしい。


 きっと傍らに座って、寝顔でも眺めるつもりなのだろう。

 無防備な素顔、それに触れることを唯一許された男の、当然の権利として。


「――ふん」


 リーゼルはもう一度鼻を鳴らして、ギルベルトの横を通り過ぎた。

 歩きながら、ふと思い立ち、先ほど回収した「太陽」のカードをポケットから取り出す。


 彼はひとしきり、その神秘的な太陽の絵を眺めると、わざわざひっくり返してから、びりりとそれを引き裂いた。

 腹いせを兼ねた、おまじないだ。


 太陽の逆位置は、「誕生」の反対。

 流産の危険を、あらゆる不安を、不幸を、ないことにしてしまいますように。


 小指の先ほどにまで細かくちぎると、彼はそれを、ぱっと宙に撒いてみた。

 美麗なタロットカードだった紙片は、燭台の光を弾きながらひらひらと廊下を舞う。

 豪奢な紙吹雪を見上げながら、リーゼルは肩をすくめた。


「……悩ましいわね、友情なんて」


 ひとつ息をつくと、前を向く。

 行き先を決めたからだった。


 クレメンスの部屋に奇襲をかけ、この紙吹雪を含めた廊下を掃除させるのだ。


 美しく背筋を伸ばして歩く彼は、もう、いつもの彼だった。

次話のエピローグは、お昼頃投稿予定です。

あともう1話、お付き合いいただけますと幸いです…!


  • ブックマークに追加
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
ポイントを入れて作者を応援しましょう!
評価をするにはログインしてください。
5巻最終巻&コミック3巻発売!
シャバの「普通」は難しい 05
シャバの「普通」は難しい comic 03

感想を書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。