36.シャバの「友情」は悩ましい(8)
本日、コンプエースさまにて「シャバ難」コミカライズが始まります!
よろしくお願いいたします!!
「答えなさいよ、ハイデマリー。あんたの引いた『太陽』は、本当に正位置だったのか」
リーゼルは、掴んだ顎をぐいと引き寄せ、
「それとも逆位置――」
そして、ふと口を噤んだ。
ハイデマリーによって拒否されたからではない。
逆に彼女は、すべてを受け入れるかのように、じっとこちらを見つめ返してきた。
薄暗い居室の、さらに深い闇に閉ざされていた、天蓋の内側。
乏しい光を集め、ようやく捉えた彼女の素顔は――やはり、どこまでも美しかった。
今は青褪めて見える、陶器のように白い肌。
繊細な鼻筋に、左右対称の唇。
眉はそっと自然な弧を描き、長い睫毛とともに、藍色に潤む瞳を囲っている。
人間離れした、麗しい相貌。
しかし、化粧という彩色を落とした今、人を支配するかのような艶やかさは消え、逆に、庇護欲をくすぐるような、儚さと可憐さが際立っていた。
「あんた……」
化粧は、女性を美しくするためのもの。
そう信じてやまなかったリーゼルは、この時になってある事実を悟った。
目の前の女は、自らの美しさを
それほどに、素顔を晒したハイデマリーは、リーゼルの心を惹きつけた。
華やかで、婀娜めいた、女王然としたいつもの彼女は今ここにはいない。
ただ、降りゆく淡雪のように、人目をいつまでも釘付けにして離さない、脆さを孕んだ美しさだけがあった。
自身の性を女だと認識するリーゼルですら、そっと腕を差し伸べたくなる――
「――正位置だったわ」
静かな声が響いて、リーゼルははっと、顎を掴んでいた手を緩めた。
一瞬、言葉の意味が捉えられなかった。
「え……?」
「わたくしの引いた、『太陽』のカード。エルマとその周囲が迎える最終結果は、『太陽』の正位置だった」
完璧な形の唇が、静謐な言葉を紡ぐ。
藍色の瞳は理知の光を宿している。
この女は、いつもこんな風だったろうかと、リーゼルはぼんやりと相手の顔を眺めた。
それはまさしく、聖なるものの美しさだ。
穢れなく、澄み渡っていて、見る者を厳粛な心持ちにさせる。
だが、そう。
人の足を受け入れたことのない真っ白な雪原が、庇護欲と同時に、嗜虐心をもくすぐるように、彼女の美しさもまた、どこか危うさを秘めていた。
先ほど顎から離したはずの自分の手が、ふらりとハイデマリーの頬へと伸びていく。
それも無意識だった。
「『太陽』の解釈は、先ほどあなたも言っていた通りよ。成功。勝利。祝福。きっとエルマは今頃、己の戦車のごとき性質を受け入れ、隠者の助力を得ながら、均衡を取り戻し、彼女なりの勝利を手にしていることでしょう」
滑らかな肌。
小さな顔。
胸を突かれるほどに、華奢な骨。
それに比べれば、ほっそりとした自分の手は、しかしやはり男性のそれだ。
彼女はこんなにも小さく、可憐だったろうか。
「ただね、先ほどわたくしが口にしなかった解釈も、あるにはあるわ。『太陽』正位置の、もう一つの意味。それは、『誕生』」
こんなにも儚げで、こんなにも愛らしかったろうか。
まるで、自分の庇護を求めてくるような。
自身の腕の中で守りたくなるような、……いや、いっそ、閉じ込めてしまいたくなるような――
「エルマと、わたくしたちを含むその周囲は、やがて『誕生』を目の当たりにすることになる。……リーゼル、わたくしね。
今度こそ、リーゼルは弾かれたように身を起こした。
「――なんですって?」
体に馴染んだ女言葉に、その一瞬、なぜか違和感を覚えた。
しかし彼は、その違和感の正体を追究しようとする衝動を、本能的に押さえ込んだ。
彼女の頬に伸ばしかけたままだった手に、そっとハイデマリーの手が添えられる。
ほっそりとした指先は、切なくなるほど細く、冷たかった。
「やたら眠いのも、『おまじない』程度で気分が悪くなるのも、そのせい。まあでも、
「…………」
「心配させたくないし、十五年前のような大騒ぎにもしたくないの。少なくとも安定するまで……ギルにも、みんなにも、まだ内緒にしていてちょうだい。お願いよ」
いたずらっぽく微笑む姿は、たとえいつも以上に可憐であっても、普通の彼女だ。
しかし、それだというのに――なぜ、いつになく、こんなにも心が震えるのか、リーゼルにはわからなかった。
いや……わかりたくなかった。
「知っているのは、あなただけ。だってあなたは、誰より大切な人だから」
ハイデマリーはさりげなくリーゼルの手を取り、頬から離す。
そうして、きゅっと手を握りながら、穏やかに笑いかけた。
「あなたはわたくしの、最高で、唯一の『女友達』だもの。――そうでしょう?」
リーゼルは、無言で唇の端を引き上げた。
息を呑むことも、顔を強張らせることさえ、彼の高い矜持が、それを許そうとはしなかったからだ。
「……はん」
やがて彼は、軽く肩をすくめ、鼻を鳴らした。
言葉が、ようやく追いついてくれた。
「――仕方ないわねえ。てんで魅力もない、友達もいないあんたの、唯一の女友達として、お腹の子の快適な生活を守ってやるわよ」
「ふふ、嬉しい」
「嬉しい、じゃないわよ。にやにや笑ってないで、早く寝なさい。睡眠不足は、美容と健康と胎児の敵よ」
自分でハイデマリーを引き留めていたことを棚に上げ、立ち上がり、天蓋を下ろす。
ソファに転がっていた「太陽」の札に気付いて回収すると、彼はさっさと部屋を出ていこうとした。
とそこに、
「ねえ、リーゼル」
寝台の奥から、声が掛けられた。
「大好きよ」
既にまどろみの域に差し掛かっている、ハイデマリーだ。
リーゼルは眉間にいくつも皺を刻み、ゆっくりと振り返る。
それから、またゆっくりと顔の向きを戻し、今度こそ扉に手を掛けた。
「あっそ。――あたしは、大嫌いよ」
「知ってる」
くすくすと笑い声が聞こえる。
だがそれも、扉を閉じてしまえば聞こえなくなった。
リーゼルはしばらく、不機嫌丸出しの顔で廊下を歩く。
その途中、自分ともあろうものが、祝福の言葉を掛けそびれたことに気付き、なおさら彼は機嫌を損ねた。
見るものすべてが腹立たしい。
燭台の隅にほんのわずか積もっている埃が気になる。
最近敷き換えさせたばかりの絨毯の柄がひどく気に食わない。
五分以内にこのエリアの掃除番を見つけ出し――それも面倒だから、もうクレメンスでいい――、いびってやろうと決めた。
と、
「【嫉妬】。我らが女王は、在室かな?」
ちょうど廊下の向こうから、今日も無駄に精悍な佇まいをしたギルベルトが、盆を片手にやってきた。
コジーをかぶせたティーポットに、繊細なカップにクッキー。
恐らく、モーガンから託されたのだろう。
リーゼルは無言で、ギルベルトのことを睨みつけた。
獄内ではまあまあ好みのタイプのはずなのに、今は実に、まったくもって気に食わない。
「どうした?」
「……別に。あの身勝手な女王なら、もう寝てるわよ」
必要以上に棘を滲ませてしまったが、ギルベルトは頓着する様子もなく、「そうか」と頷いた。
それでも、踵を返さないところを見ると、部屋には向かうらしい。
きっと傍らに座って、寝顔でも眺めるつもりなのだろう。
無防備な素顔、それに触れることを唯一許された男の、当然の権利として。
「――ふん」
リーゼルはもう一度鼻を鳴らして、ギルベルトの横を通り過ぎた。
歩きながら、ふと思い立ち、先ほど回収した「太陽」のカードをポケットから取り出す。
彼はひとしきり、その神秘的な太陽の絵を眺めると、わざわざひっくり返してから、びりりとそれを引き裂いた。
腹いせを兼ねた、おまじないだ。
太陽の逆位置は、「誕生」の反対。
流産の危険を、あらゆる不安を、不幸を、ないことにしてしまいますように。
小指の先ほどにまで細かくちぎると、彼はそれを、ぱっと宙に撒いてみた。
美麗なタロットカードだった紙片は、燭台の光を弾きながらひらひらと廊下を舞う。
豪奢な紙吹雪を見上げながら、リーゼルは肩をすくめた。
「……悩ましいわね、友情なんて」
ひとつ息をつくと、前を向く。
行き先を決めたからだった。
クレメンスの部屋に奇襲をかけ、この紙吹雪を含めた廊下を掃除させるのだ。
美しく背筋を伸ばして歩く彼は、もう、いつもの彼だった。
次話のエピローグは、お昼頃投稿予定です。
あともう1話、お付き合いいただけますと幸いです…!