35.シャバの「友情」は悩ましい(7)
ということは、と、エルマがふと状況を整理する。
「今期もまた、トリニテートは不成立ということでしょうか?」
「ああ」
それには、グイドが応じた。
彼は、呆然と周囲を見回しているレナートを宥めてから、エルマたちへと向き直った。
「これだけの不祥事だ。トリニテートは今期を機に、慣習自体を廃止する。悪しき野望の持ち主に搾取される聖力保持者を、もう二度と生むものか」
ちらりと、青灰色の瞳が、成長を止めたままのレナートと、教え子たちを捉えた。
彼は表情を一層引き締めると、おもむろにエルマの前に跪く。
そして、剣を捧げる騎士のように、あるいは誓願を立てる導師のように敬虔な口調で、エルマに告げた。
「エルマ殿。もはやトリニテートの座を君に捧げることはできないが、間違いなく君こそが、当代一の聖女であり、聖剣士であり、聖術師だ。なにしろ君は、
「いえあの……それは行きがかり上、そうなっただけと言いますか……」
「君は、ルーデンの威信をかけてこの場に送り込まれてきたのだろう。だが、この状況下、もはや聖鼎杯の表彰式を大々的に執り行うことはできない。必要ならば、トリニテートは廃止するが、君こそが実質的な聖鼎杯優勝者であると、俺からルーデン王に親書を送ろう」
「ええと……」
突如として捧げられた尊崇の念に、エルマは困惑顔である。
彼女は眉を寄せ、上司であるルーカスを振り仰いだ。
「この場合……私は、殿下並びに陛下のご命令を、守れたことになるのでしょう、か……?」
「…………」
ルーカスは無言でこめかみを押さえた。
一応表面上、「トリニテートを獲る」という任務については「失敗」したことになる――トリニテートという制度それ自体を破壊してしまったわけなのだから。
エルマとしてはそれを以って「平凡に徹しろというルーカスたちからの命令を守った」という認識なのだろう。
が、彼女はむしろ、そんな表層的な任務よりも、よりルーデンに益なす成果を上げたわけだ。
ルーデンを利用しようとする政敵を阻止し、他国の弱みを握った。
トリニテートにはならなかったが、観衆に強い印象を残すとともに、実質的なアウレリアの頂点の座を確約された。
(あの義兄上のことだ。チェルソが依頼を寄越してきた時点で、多少のきな臭さは感じ取っていたのだろう。そのうえで、俺たちを放り込んだ。……とすれば、これは満点、いや、「満点以上」の成果だ)
実に、最高。
そして――実に最低だ。
ルーカスはこめかみから手を離し、親指の背で唇を強く押さえた。
(結局、魔を払う聖なる国であってさえ、エルマは最高に有能な駒たりえると、証明してしまったわけだ)
人間離れした能力を持ち、魔族ではないかと思われていたエルマ。
聖域でも働けて、聖酒を飲んでも無事なことから、では「やはり魔族ではなかったのか、よかった」とはならない。
むしろ、状況はさらに謎と困難の度合いを増しただけである。
(魔族のように人々を篭絡し、しかし禍々しい魔力は持たず、聖女のように自在に動植物を操り、しかしそれは聖力ではないという。いったいこいつは、何者なんだ――)
単なるそのハイブリッドです、と正解を口にできるものは、残念ながらこの場にはいなかった。
今のルーカスにわかるのはただひとつ。
エルマが、とんでもなく異常で、とんでもなく有益な存在で、――だからこそ、なんとしても忍び寄る搾取の手から、守り通さねばならないということである。
「――……対話だな」
やがてルーカスは、深い溜息とともに告げた。
「え?」
「俺の一存では、なんとも判定しがたい。義兄上と話して決めるさ」
そうとも。対話だ。
ルーカスは、ぐるりと聖堂にいる人物たちを見回して思った。
三十年もすれ違ってしまったグイドとレナート。
ぎりぎりのところで意見を交わし合い、友情を確かめ合えたジーノとラウル。
両者の違いは、ただ、相手の言い分に対して聞く耳を持てたかどうかだ。
(話し合おう、義兄上と)
任務をごまかし、戦力を削ぐための小細工を弄するのではなく。
相手の腹積もりを、ただ憶測のままに気を揉むのではなく。
いい加減自分も、剥がれかかった「道楽者で、政治には疎い王弟」の仮面を捨て、あの義兄に向き合うべき時だ。
自分は彼の掌で踊らされるだけの駒ではない。意思を持った、人間なのだから。
「ひとまず、おまえは身なりでも整えとけ。俺はチェルソ卿を捕縛し直す」
ルーカスは祭壇の近くに落ちていた眼鏡を拾い上げ、エルマに押し付けると、自らは踵を返した。
捕縛に事情聴取、ルーデンへの報告の仕方の交渉に、対外的に流す情報の調整。やるべきことは山のようにある。
眼鏡を胸元に押し抱いたエルマは、てきぱきと動き出したルーカスの後ろ姿を見ながら、
「対話……」
ぽつりと呟いた。
それからなにを思ったか、ぐるりと首を巡らせて、所在無げに佇んでいる友人を見やる。
イレーネは、改めて抱擁を交わすグイドとレナート、そして話し込むラウルたち三人――の内、特にラウルとジーノの組合せを、ぼんやりと見つめていた。
「イレーネ」
呼びかけると、イレーネははっと顔を上げる。
その瞳には、腐の余韻のほかに、気まずさや安堵といった、複雑な色が浮かんでいた。
「……なに?」
「ひとまず、任務は一通り片付いたようです。ですので……今こそ、始めませんか? 我々の『対話』を」
「対話、って……。ああ、そうね……。って、え、待って、今この場、この状況で?」
イレーネは、困惑したように目を見開く。
周囲を見やり、声を潜めた彼女に、エルマは安堵させるような笑みを浮かべてみせた。
「ご安心ください。レナート様との対話体験を積んだことで、今の私は、どのような環境、どのような相手とでも、深く精神世界を感応させることが可能です」
「は!?」
「瞑想中の肉体の状態をご心配なら、人工呼吸器を用意しておきますが。それともやはり、熟年期に差し掛かるまで成長を待った方がよろしいでしょうか?」
「あなたいったい、どの次元の対話を求めてるのよ!?」
思わず絶叫したイレーネに、エルマはきょとんと首を傾げた。
「もちろん……『普通』の対話ですが」
「普通の対話は、まず瞑想なんてしませんから!」
「え」
目を丸くしたエルマに、イレーネは「だー、かー、らー……!」と両手で顔を覆いながら天を仰ぎ、――しかしゆるゆると、その手を下ろした。
「……もう、いいわよ。時間が掛るのも、覚悟の上だわ」
ふう、と深い溜息を落とす。
それから、唇の端を引き上げ、苦笑を浮かべた。
「あなたなりに『普通』を、模索してくれているのだものね」
「…………」
エルマは、夜明け色の瞳を見開き、黙り込んだ。
「ただ、悪いけど、瞑想を要する『対話』は、私の求めている対話ではないわ。それについては、また時と場所を改めましょう。――さて。仮にも部下の私たちが、殿下ばかりを働かせるわけにはいかないわ。なにかしら手伝わないと」
思考を切り替えたのか、肩をすくめて、イレーネは踵を返そうとする。
「……あの」
遠ざかろうとする友人の腕を、エルマは咄嗟に掴んだ。
「あの、待ってください」
「え?」
ひやりと滑らかな肌の感触に、イレーネがびっくりしたように振り返る。
珍しいことに、そんな彼女になんと続けていいものかを悩みながら、エルマは再び「あの」と呟き、無意識に唇を舐めた。
なぜか、今この瞬間に、彼女に伝えなくてはならないことがある気がした。
「心拍が通常より1割増、瞬きの回数は2割増、視線を逸らし、物思いにふける回想が飛躍的に増え、一日の平均値では常時と比べプラス3.6回でした」
「…………はい?」
文脈に取り残され、イレーネが胡乱な目つきになる。
エルマは、きゅっと腕に力を籠め、急いで続く言葉を紡いだ。
「
「そ、そう……?」
恐らくそれは、大好きな小説の舞台に立ち、大好きなキャラの実在モデルを目の当たりにしていたからだ。
どう反応してよいか迷い、イレーネは曖昧に頷いた。
「よ、よく見てたわね……?」
「人喰い樹の液で作った飴には、精神を落ち着け、体の緊張をほぐす作用があります。なので、初日、イレーネに喜んでもらえるかという思いもあり、それを作りました」
「…………」
思いもかけぬ言葉に、イレーネの目が見開かれる。
エルマは一層腕に力を籠め、身を乗り出した。
「歌声を聞いて育った植物は、通常のものより栄養価が高くなります。聖女の部であれだけ植物を成長させたのは、調理に使ってしまおうという打算もありました。ヒュドラの唐揚げは強い滋養強壮作用があります。だから……イレーネは食べるのが大好きだと言っていたので……喜んでもらいたくて、作りました」
エルマは、イレーネの顔を真っすぐに見つめ、前のめりになって告げた。
それは、必死、といってよい姿だった。
眼鏡を外したままの顔。普段隠されている夜明け色の瞳は、素朴な緊張をはらんで、ゆらゆらと揺れている。
「…………」
イレーネは、無意識に眉を寄せた。
そうでないと、理由の分からぬ涙が、滲んできてしまいそうだからだった。
「『普通』の対話方法というのが、お恥ずかしながら、未だわかりません。ですが、私なりに、害霊となったレナート様と精神世界に潜り込むことで、修行してきたつもりでした」
エルマは、熱を込めて話しつづけた。
自分の、握りしめた手がほんのわずかに震えていることや、頬がわずかに赤く染まっていることなど――それほど必死で、緊張していることなど、気付いてすらいなかった。
ただ、言葉を。
どんなくだらないことでもいい、みっともないことでもいい、自分の素直な心の内を、きちんと音に乗せて、相手に伝えなくてはならない。
そんなことを考えていた。
恐らくは、それこそが、害霊に貶められたレナートが、三十年の長きに渡って願ってきたことだったから。
「いつも快活なイレーネが、視線や心拍を不安定にさせていると、私の胸郭の奥の血流まで鈍る感覚がします。イレーネが喜ぶ姿をシミュレートすると、前頭葉が活性化するのがわかります。だから……私なりに、努力を重ねているつもり、でした」
あなたが心を乱していると、心配になる。
笑顔を思うと頑張れる。
そうした言葉遣いを、エルマは知らない。
それは、獄中にはない感情だったからだ。
結局エルマはなんと続けたものか悩み、一度口を噤むと、深く頭を下げた。
「『普通』がわからず、申し訳ございません。私が『普通』を誤るたびに、イレーネが怒ること、本当に申し訳なく思っているのです。いつもご心配をお掛けして、ごめんなさい。『普通』の会得には、まだ時間が掛ってしまいそうですが……それでも、どうか――」
友人でいてください。
最後の一言は、消え入りそうだった。
「…………ばか」
イレーネは、短く呟いた。
声の震えを、相手に気取らせるわけにはいかないと思った。
「ばかね、……私たち、二人とも」
そうして彼女は、苦笑いを浮かべた。
ばかだ、本当に。
互いに互いを心配し、思い合っておきながら、噛み合わず、そのことで自分を責めていたなんて。
「……悩ましいものね、友情なんて」
小さすぎた独白は、相手の耳にすべては届かなかったらしい。
エルマが「今なんて……?」と顔を上げたのに、イレーネはふっと微笑んで首を振った。
「おじショタの友情も、青い果実な友情も、どちらもムネアツで悩ましいわねって言ったの」
「おじショタ……?」
「さ、エルマ、早く殿下を手伝って、この場を片付けるわよ! 私たちにはやることがたくさんあるんだから」
イレーネはエルマの腕をきゅっと握り返して、いたずらっぽく唇の端を引き上げた。
「よくって? 二度は言わないから、一度で覚えるのよ。この状況の『後片付け』を済ませたら、私たちはなにがなんでも寮の部屋に引っ込むの。シャワーを浴びて、化粧も落として、最高に居心地のいい寝間着姿になったら、ベッドに寝そべりながら唐揚げを摘まむのよ」
それはさながら、彼女たちが出会った初日のような光景だ。
しかし、今、イレーネの突きつけるミッションは、実にささやかで、くだらなくて、親しさに溢れていた。
「私はお腹いっぱい食べるから、あなたはお腹いっぱいになるまで、私の謝罪を聞いてちょうだい。それが済んだら、薔薇ケモの推しについて意見を戦わせて、新刊のあらすじダービーをして、二次と三次におけるラウジノの差異について熱く語るの」
「はい……?」
「全部付き合ってくれなきゃいやよ。拗ねるわ。あなたは私の――一番の友人なのだから」
あえて傲岸不遜に言い切ってみせると、エルマはその夜明け色の瞳を、大きく見開いた。
「一番の……」
「さ! 行きましょ」
言ってから恥ずかしくなってきてしまい、イレーネは今度こそ踵を返す。
にわかに慌ただしくなった聖堂。
大きく風穴を開けられた洞窟の天井からは、力強い太陽が、さんさんと祝福の光を降り注いでいた。
明日9月26日、コンプエースさまにて「シャバ難」のコミカライズが始まります!
感謝の気持ちを籠め、次話と