32.シャバの「友情」は悩ましい(4)
「…………ぁ」
エルマは、小さな小さな呟きを漏らした。
先程感じた、胸を掻き毟りたくなるほどの衝撃。
呼吸が止まるほどの苦痛をやり過ごした今――なぜか、急に体が軽くなったからだ。
「…………ああ……」
自らの内側にある、温かで力強い血の流れを感じる。
指先に力が戻ってくる。
心臓を掴んでいたなにかの手が、ぐっと緩んだようだった。
力が漲る。
体から重みが消える。
そのまま浮いてしまいそうだ。
体も心も、浮き立つような高揚感に支配されていた。
こんな感覚は、初めてだ。
エルマは無意識に、赤い舌でぺろりと唇を舐めた。
ぞくぞくする。
ふと、視界の隅に、鎖で祭壇に縛り付けられたままの自分の体が映ったので、彼女は眉を顰めた。
無粋だ。
自分から自由を奪う存在など、あってはならないのに――。
「――
まるで女王のような口調でそっと呟けば、それだけで「周囲」は動いた。
洞窟に漂っていた水の気配が、鎖の周辺に凝る。
それは見る間に鉄を腐蝕させ、また鎖それ自体も実に従順に、自らを溶かしていった。
彼女が長い睫毛を数度瞬かせる間に、頑丈な鉄の鎖は、脆い音を立てて壊れた。
「ありがとう」
当然のことを労うような口調で告げて、エルマはゆったりと身を起こす。
それを追いかけるように、さらりと髪が肩を滑った。
緩く波打つ長い髪。
ほっそりとした肩を豊かに覆う様はいつも通りとも言えたが、一つだけ、決定的に違う点があった。
エルマの髪は、まるで陽光を集めて紡ぎあげたような、眩い金色をしていた。
彼女は無言で髪を摘まむ。
そして首を傾げた。
こつ、と靴音を鳴らして祭壇から降りる。
洞窟の奥、透き通るような水が溜まった場所に己を映し、全身の姿を確認すると、彼女はますます首の角度を深めた。
豊かに波打つ金色の髪に、まるで冬の湖のような、
唇は薔薇のように赤く、しなやかな肢体は香り立つような色香を滲ませる。
髪色こそ違えど、その佇まいは――まるで母ハイデマリーそのものだった。
「…………」
エルマはしばし沈黙する。
高揚感に沸き立つ精神の片隅で、一応、混乱はしていた。
が、
「銀髪ではなく、金髪。オッドアイではなく、両目とも変色。……セーフ」
ややあってから、彼女は神妙な顔で自身にセーフ判定を下した。
「『銀髪オッドアイ』に変身するとか、全然普通じゃないから!」とイレーネたちが叫んでいたことを、彼女なりに気にしていたらしい。
どうやら小説の主人公のように「覚醒」してしまったようだが、辛うじて「普通」の範疇でよかったと、彼女は胸を撫でおろしていた。
――論点はそこじゃねえよ、と突っ込める人物は、残念ながらこの場にいなかった。
エルマはぐるりと周囲を見回す。
薄暗い洞窟内に怪しげな祭壇、床には打ち捨てられたなにがしかの遺骸。
いかにも禍々しい雰囲気を湛えつつも、片やでは、聖酒や香油、聖剣に聖像といった、神の光を宿すものたちも多く転がっている。
そのどれもが、エルマには等しく心地よく、親しみやすいものに感ぜられた。
いや、今は特に、後者のほうが好ましいか。
エルマはふと、祭壇の横に転がっていた酒瓶に気付き、それを拾い上げてみた。
中に残っていた液体を
かっと喉が燃えるような感覚があり、ついで体の内側から、抑えきれない歓びの感情と、純粋な力が湧きあがってきた。
「ふふ……っ、ふふふ」
陶然とした表情で、唇についた滴を舐めとる。
それからエルマは、若かりし頃のハイデマリーそのものの姿で、両手で口を覆い、くすくすと笑いはじめた。
その様は、可憐であり、奔放であり、自由である。
無邪気な少女のようでいて、見る者すべてを篭絡する熟女のような、得も言われぬ貫禄がある。
喉を鳴らす猫を思わせる笑みは、淫蕩ですらあった。
――ハイデマリーの予想は正しかった。
なぜなら、
とどめを刺そうと酒なんて飲ませた結果、むしろ、相手の潜在能力を目覚めさせてしまったことをもしチェルソが知ったら、きっと衝撃のあまり、残り少ない頭髪まで禿げ散らかしてしまうことだろう。
聖女の血が発現したほうが、よほど魔族めいた言動になるという謎仕様が、今ここに爆誕していた。
「どーん」
なんだかものすごく楽しくなってきて、エルマは人さし指をアウル神の像に向けてみる。
抉られた片目に、ウインクでもされたような気分がしたからだった。
みるみる、周囲の岩壁から素材が合成され、石像が完全な姿を取り戻した。
「ふふっ」
ご機嫌になって、次々とあちこちを指してみる。
いびつな形をしていた湖が美麗な噴水となり、無骨だった岩壁が繊細な彫刻を施された石壁となり、どこからともなく、鮮やかな草花が咲きはじめた。
「んー……」
だが、光が足りない。
エルマはほんの少し唇を尖らせ――無駄に、かつ過剰に、可憐である――、それからぱっと閃いたように、もはや荘厳な大聖堂と化した洞窟の天井を見上げた。
「どーん」
斜め上の天井に向かって、すっと人さし指を立てる。
たちまち、
――すぅ……
まるで熱したナイフを入れられたバターのように、滑らかに天井の一部がくり抜かれ、洞窟内に光の矢が一斉に降り注いだ。
事物を支配し、攻撃するのが魔力だとしたら、聖力とは庇護を呼びかけ、周囲の「自発的な」協力を仰ぐ力だ。
ゆえに、純粋で究極的な聖力が発動するとき、そこには轟音も破壊音も響かない。
円形に落下した土石は、一瞬宙で静止したかと思うと、あくまで静かに地面に降り積もり、まるで自然の祭壇のような形を描き出した。
エルマはそこへ近づくと、真っすぐに注がれる陽光を見上げ、うっとりと目を細めた。
なんて、気持ちがよいのだろう。
少しばかり調子に乗って、エルマは両手をそっと重ねてみる。
では、両手を重ねて力を籠めたら、どんなことが起こるのか。【
これで難なく脱出もできるだろう。
が、そのときふと、脳裏にとある声が蘇った。
――……あなたは、どうしていつもそう、無茶をするの。
イレーネの声だった。
記憶にある彼女の声は、思いつめたように掠れていた。
――エルマ、私はね。あなたの、……あなたのそういう、…………っ
あのとき彼女は、なんと続けようとしていたのだろう。
わからない。
わからないがしかし、これまでに叱られた経験を様々な角度から比較検証するに、おそらく彼女は、エルマが「一人きりで」「周囲を頼らずに」なにかを解決しようとすると、怒っているような気がした。
「…………」
重ねた両手を、見下ろしてみる。
たとえばこの洞窟を半壊させて、地上に脱出することは、エルマにとってはなんの苦でもない、合理的な選択だけれど、それは「一人きり」で、「周囲を頼らない」行為だ。
もしかしたらこれもまた、イレーネたちの怒りを買うのかもしれないと思うと、急に肩がしょんぼりと落ちるような心地がした。
それはいけない。
エルマは軽く頭を振り、方針転換を図った。
自力での脱出はNGだ。
ここは大人しく悲鳴を上げて、救助を待とう。
(……幸運にも、私はまだ、「助けを呼べる」身の上なのだから)
頭の片隅に、まだ青年の声が残っていた。
エルマは土の祭壇の上に腰を下ろすと、軽く喉に触れてみた。
誰かに助けを求めるなど、初めてだ。
とても緊張する。
そわそわとしながら、まずはぽつんと、
「――助けて」
小さく呟いてみた。
が、両手で顔を覆い、すぐにぷるぷると首を振る。
照れが捨てきれていないし、悲壮感も緊張感もない。これではだめだ。
【
「た……助けて……」
ついで彼女は両手を握り合わせて、躊躇いを押し殺すために両目も瞑ってみせた。
だいぶいい感じだ。
だが、名指しで呼べばいいのだろうか。
それとも「誰か」などと付けたほうが、より緊迫感が出るのだろうか。
エルマは一瞬の逡巡のうえ、どちらをも採用することにし、全力で叫んだ。
「イレーネ……! いえ、誰か……! どうか、助けて――!」
切羽詰まった、情感豊かな渾身の叫び。
もしこれが採点競技だったとしたら、技術点演技点ともに高得点を叩き出せそうな、かなり理想的な悲鳴と言えただろう。
が、惜しむらくは、莫大な聖力をまとった状態で、そんなにも高らかに「願い」を口にしたらどんなことになるのか、その認識がエルマには欠落していた。
厳密に言えば、初めて手にした力ですっかり「酔ってしまった」彼女は、今自分が聖力を揮っているのだという理解すらなかった。
結果。
――……ィ……ン
それは、ともすれば「悲鳴」が聞き入れられず、残酷にも静寂だけが応じた光景――のようにも見える。
が、もちろん違う。
それは言うなれば、大波が押し寄せる前に、潮が一度大きく引いていく、その過程の現象なのであった。
エルマの声は、洞窟内を満たし、光に溶け、風に乗りながら空を駆け抜けてゆく。
雲を揺らし、海をさざめかせ、ときに生き物の心の内を渡りながら、瞬く間に世界中へと広がっていった。
――……ィ……ン
聖力の発動それ自体は、あくまでも――静かに。
しかし、引ききった波が、ある時点を境に猛烈な勢いで押し返してくるように、
世界のどこかで、鳥の群れが一斉に羽ばたく。
火山が噴火し、穏やかだった川の流れが濁流へと転じ、森では動物たちが大地を揺らしながら、ある方向を目指して一斉に駆けはじめた。
風が吹く。
雲がちぎれる。
辺境のぶどう畑では木々が突然ざわめきはじめ、長いポニーテールを揺らした少女がはっと顔を上げた。
ティーカップを取り落とした貴婦人が、突然暴れ出した火に驚いた料理人が、患者の脈の乱れに目を見開いた少年が、切れた弦に頬を弾かれた音楽家が、あらゆる人々が、胸騒ぎを覚えて、わけもなく空を見上げる。
純粋で凶暴なまでの「なにか」が、ある場所をめがけて唸りを上げていた。
――ご……っ
遠くで、低くて鈍い音がする。
――ごごご……っ
それは、時間を追うごとに、大地を揺らすような音量を伴って、辺り一面に響き渡った。
――ごごごごごごごごごご……っ!
いや、「大地を揺らすような」ではない。
実際に、大地を揺らしているのだ。
洞窟の周囲の地盤が、一斉に隆起する。
それによって「邪魔な」樹木や建築物が振り落とされると、今度はそのある一点を貫くようにして海水が押し寄せた。
波はしかし見る間に引き返し、代わりに大量の動物たちが、まるで道を作るようにして駆け抜けてゆく。
踏み慣らされた大地を、今度は植物たちが、枝や蔓を凄まじい勢いで這い伸ばして行った。
そう。
洞窟の聖堂――エルマの所在地を目的地として、今、世界が自ら
祭壇に腰掛けていたエルマは、急激に目の前の空間が開け、見る間に色鮮やかな緑の絨毯が出現していくのを、悠然とした表情で見守った。
裂けた岩壁から伸びた緑の道が、とうとう足元にたどり着いたので、エルマは意を迎えるように微笑んで立ち上がる。
相変わらず、全身が高揚感に満たされていた。
しかし、彼女がねぎらいの意を込めて片手を挙げたその瞬間――その瞳がふっと曇った。
聖力を一度に使いすぎたのだ。
藍色に潤んでいた瞳が、いつものような紫がかった夜明け色を取り戻し、髪は毛先から再び黒へと戻っていく。
全身から力が抜け、エルマはふらりと祭壇に座り込んだ。
そのまま目を閉じ、くたりと横になる。
白い肌に長い睫毛の影を落とし、薔薇の唇をほんのわずか開いて眠る彼女は、さながら天使か妖精かといった美しさだ。
だが同時に、それはさながら、酔っぱらってハイになった人物が、破壊行動の限りを尽くしたあげく、突然スヤァ……と穏やかな眠りに落ちるような、身勝手極まりない姿でもあった。
「き……っ、きゃあああああああああっ!」
「おいっ、ここは暴れずに掴まるんだ……っ! 弾き飛ばされるぞ!」
と、そこに、男女の元気な絶叫が響き渡る。
身近に知った声だったので、うとうとしていたエルマは、ぱちりと目を開き、その場にむくりと起き上がった。
目をこすりながら見てみれば、イレーネとルーカスである。
彼らは、なぜか蔦性植物に全身をぐるぐる巻きにされ、できたばかりの「道」の上を、怒涛の勢いで運ばれているのであった。
よく見れば、彼らの背後には、ラウルやグイドの姿もある。
「…………! エルマ!」
先頭にいたイレーネとルーカスは、エルマの姿を見つけると、はっと顔を上げた。
というわけで、
その戦闘力、53万…!