31.シャバの「友情」は悩ましい(3)
「なにその夢……」
聞き出した夢の内容の不穏さに、リーゼルは眉を寄せて呟いた。
それはつまり、教会――それも神殿を自由にできるほどの上層部がトリニテートを殺害し、邪悪な存在に貶めていたということだ。
ハイデマリーの「能力」を考えるに、それは夢というより、現実として起こりえた、あるいは起こってしまった出来事なのだろう。
彼女は詳しくは語らなかったが、逃走劇も苛烈を極めたに違いなかった。
リーゼルが黙り込んでいると、ハイデマリーはなんでもないことのように肩をすくめた。
「同情でもしてくれていて? なら結構よ。わたくしはわたくしで、その後楽しくやっていたもの。娼館で教わった染髪と化粧は、わたくしの命を何度も救ってくれただけでなく、純粋に、かけがえのない財産になったわ」
なにげない口調に、強がりの色はない。
教会からの追跡を逃れるために、純潔を売り渡し、髪色を隠し、素顔を封じることすらも、彼女は楽しんでみせたのだろう。
その意を汲んで、リーゼルは表情を皮肉っぽいものへと戻し、ふんと鼻を鳴らしてみせた。
「あんたの意地わるそうなすっぴんと、無駄に目立つ銀髪じゃ、隠すのにも随分技術がいったでしょうね」
「ひどいわ、素顔を見たこともないくせに。それに、わたくし、昔は金髪だったのよ」
「は?」
思いがけない告白に、リーゼルがつい目をつい瞬かせると、ハイデマリーは寝台で足をぶらぶらとさせたまま、こともなげに続けた。
「エルマを授かったときに、聖力の一部と髪の色を失ってしまったの。わたくしの体の聖力と、彼の魔力とが反発したのね。つわりもひどかった。あの時はつらかったわ」
「…………」
この女はいつもそうだ、とリーゼルは思った。
髪の色を失うほどの苦痛。
それは、「つらかった」の一言で済まされるようなものではあるまい。
聖力とは、それを持つ者にとっては血液のような存在だと言われる。
それを、聖女と目されるほどに大量に保持していた女が、突如として失うのだ。普通なら叫びを上げ、のたうち回ることだろう。
だが彼女は、少なくともリーゼルの知る限り、苦しむ様子を見せることは一度もなかった。
決して他人に弱みを見せない――そういう女なのだ。
「……エルマが、あんたみたいにひねくれた女に生まれなくてよかったわよ。魔族とはいえ、父親似でなによりだわね」
「そうねえ……」
胸に兆したなにがしかの感情を、嫌みな口調にすり替えて、唇の端を持ち上げる。
するとハイデマリーは、ぶらつかせていた足を、ふと飽きたように止めた。
「あの子って……やはり、父親似なのかしらね?」
「少なくとも性格はあんたと違うわね」
「そうかしら。……まあ、わたくしも、基本は魔族寄りだとは思っていたのだけど。あの子、感情が高ぶると目が赤くなるし」
「待って、そのくだり聞いてないわよ」
ぎょっとしたリーゼルによるツッコミは、軽やかに聞き流された。
「でも、お酒を飲んだ時の反応とかが、不思議なのよねえ。――ねえ、知っていて? 聖力持ちにとって、酒は妙薬。飲めば飲むほど力が湧くものなのだけど、魔族にとって、酒は毒なの。特定の花の香りもそう」
「……エルマが酒に弱いってこと自体は、もちろん知ってるわ。あんたがえげつないザルだってこともね」
面倒見のいいリーゼルが、一度ツッコミを無視されてなお、ぼそりと嫌みを呟く。
もちろんハイデマリーは、それを春のそよ風のように受け流した。
「獄内でも、エルマが誤って酒を飲んでしまって、何度か倒れたことがあるじゃない? ホルストあたりは魔族の性質が酒によって傷つけられたせいだと考えているみたいだけど……わたくしは、ちょっと違うと思うの」
彼女は、考えをまとめるように、シーツに添えた己の手をじっと見つめた。
「だって、本当の魔族ならね、お酒を飲んでしまった途端、体中が焼け爛れるのよ。けれどエルマは、体や精神の動きが鈍くなり、意識を失う。これって、防衛反応のようなものではないかしら」
「防衛反応?」
「ええ。酒を――妙薬を注がれて、一気に膨らんでしまった
ハイデマリーはくすりと笑った。
「つまりね、普段のあの子は、
けれど、と続けて、彼女は小首を傾げた。
「――もしあの子の聖女の血が解放されてしまったら、どうなるでしょうね。きっと、いつものあの子以上に、危なっかしくなるに違いないわ」
なにが面白いのか、美貌の娼婦はくすくすと喉を鳴らしつづける。
鈴のように美しい声に、リーゼルは目を細め、また一歩寝台に近寄った。
「ご機嫌じゃないの」
「そうかしら」
「ええ。あんたがまだ隠し事をしている証拠だわ」
「――…………」
笑い声が、止まった。
いつまで経ってもベールを脱ごうとしない女王のもとに、リーゼルはとうとうたどり着く。
二人を隔てている優雅な紗を、彼はその中性的な手でそっと撫でた。
「……あんたは、いつもそうよ。なにかを隠しているときほど自然に振舞い、嘘を吐くときほどきれいに笑う。そして――」
リーゼルは突如として天蓋の布を払い、シーツに添えられていたハイデマリーの細腕を引き掴んだ。
「なにを――」
「苦しいときほど、身を隠す。まるで、死に際に隠れる猫のようにね」
ほっそりとした優雅な女王の腕。
けれど、その肌は氷のように冷え、肌は白を通り越し、青かった。
「……離してちょうだい」
「あんたの過去は聞いたわ。でも、
「離して」
口調こそ疑問の形をとっているが、リーゼルの中ではほとんど仮説が完成している様子だ。
腕を払おうと抗うハイデマリーを、男の膂力で押さえつけ、リーゼルはぐいと彼女の顎を捉えた。
「ねえ、知ってるわよね。『太陽』の逆位置の意味は、『死』。あんたが最後に引いたカードは、本当は逆位置だったんじゃないかしら」
リーゼルは、その琥珀色の瞳で、至近距離からハイデマリーを見据えた。
青白い肌、わずかに乱れた呼吸。
緩慢な体の動き、それとは裏腹に、速い脈。
己の過去を「捨て札」にしてまで、彼女が隠し通そうとしている真実を、ひとかけらも見逃さないために。
「ハイデマリー。あんた本当は――死にそうなほど、具合が悪いんじゃないの?」
リーゼルが立ち上がったソファには、彼が持ち込んだ「太陽」のカードが、光の矢を逆さまにした状態で残されていた。