30.シャバの「友情」は悩ましい(2)
「……チェルソ枢機卿」
「おーや。さすが、取り乱しはしないと」
小柄な体に、貧相な面。おどおどとした毛髪と表情の持ち主で、今回の任務の依頼者であったはずの――チェルソ・ロベルティ。
彼は、以前までの遠慮がちな佇まいをかなぐり捨てたように、にぃと唇の端を引き上げてみせた。
「ですが、すでに、体に力が入らないのではないですかなぁ?」
言われてみて、全身がやけに重いのに気付く。
鎖で縛りつけられているからというよりは――だってこのくらいなら、普通、軽く力を籠めれば破壊できる――、体そのものの動きが鈍っているのだとわかった。
頭がぼうっとして、思考が散漫になる。
息苦しくて、体の重心が定まらなくて、全身が熱い。
これらは、そう……まるで、強い酒や花の香りに接してしまったときの症状によく似ていた。
同時に、エルマが学院に足を踏み入れたときからうっすらと感じていた症状でもあった。
「私に……なに、を……」
「なぁに。強い酒を飲ませただけです。まじないに使う花の蜜もともに、ね」
呂律の回りにくい舌で尋ねると、チェルソはいやらしい笑みで応じた。
「ふむ。酒やクローバーで弱るということは、やはり魔の者、ということですかな? だとしたら、残念。もし君の体が聖なるものたちを受け入れるなら――つまり、君に聖女の素質があるならということだが――、今度の『
ついで、いかにも演技がかった様子で眉を下げた。
「実に期待外れですなあ。当代の候補生たちを圧倒する力……見知った聖力の気配は感じないが、かといって禍々しい魔力という感じでもない。突然変異とも言うべき、変わった聖力の持ち主なのかと思いきや、結局単に、俗悪な魔力でしかなかったなんて。きちんと見極めておいてよかった」
私が信仰を捧げるのは、異端とはいえ、あくまで唯一なるアウル神なものでねえ。
チェルソは芝居がかった仕草で肩をすくめながら、そんなことを嘯く。
つまりこの聖鼎杯を通して、彼は豊富に聖力を持ち合わせる人物の見極めをしていたのだろう。
それを裏付けるように、彼はひょいとおもちゃの剣を持ち上げてみせた。
「そうそう、これ。せっかく、君の正体がなにかを見極めるために、名剣カリブルヌスを聖剣にすり替えようとしたのに、私が引き換えに手にしたのはカリブルヌスなどではなく、こんなくだらない、血のり付きの剣だった。いったいこれは、どういうつもりで? 私の野望を見通していると、挑戦でもしてきたつもりですかなあ?」
だとしたら、と呟きながら剣を投げ捨て、チェルソは低く凄んでみせた。
「君は、その寿命を縮めてしまったようだ。もっとも――たった数日の差だろうけれど」
エルマはぼんやりとした頭で、少なくとも剣の件は知らないな、などと考える。
しかしそれを口にする前に、チェルソが再び話を続けてしまった。
「私の糧となる聖力を持たぬのなら、君に用などない。中途半端に真相に触れてしまった君には、悪いがこの場で死んでもらおう。だが……そう。せめてもの情けとして、君が知ろうとして、けれどこの先得ることのない真実のすべてを、教えてあげようではないか」
両手を広げ、聖堂に響き渡る己の声に酔うチェルソを見ながら、エルマはなんとなく、ずっと誰かに陰謀を披露したかったんだろうなこの人、と考えた。
口調まで、次第に「ぼくのかんがえるさいきょうのラスボス」みたいな感じで、ちょっと傲岸不遜なものに変わってきている。
「ふ……。私は枢機卿陣の中で誰より早く、そして長くこの地位を得、維持し続けてきた。それは、古代アウレリア語と聖術構築に精通した私の明晰さもさることながら、トリニテートに伍するとも評価される、膨大な聖力によるものだ。……そして、その膨大な聖力の源泉。ふふ、それは――」
「トリニテート、つまり大量の聖力を保持している聖術師や聖女を害霊に貶めることで、聖力をかすめ取ってきたのですよねわかります」
ここぞ迫真、といった様子でチェルソが悪っぽい笑みを浮かべた瞬間、エルマが割って入った。
「聖剣によって聖力を過剰に注ぎ込んで歪め、受け止めきれなくなった肉体と魂を切り離し、害霊化させる、と」
要領よくまとめられ、チェルソはちょっと顎を引いた。
「……な、なかなかいい線まで掴んでおるではないか」
が、彼もさるもの、すぐに態勢を立て直す。
今度は左手を胸に当て、右手を高らかに広げると、眉を寄せて首を振った。
「だが、そう。その素晴らしい構想は、残念ながら、重大な瑕疵に見舞われてしまった。聖女の脱走だ。表向きは病死となっている前代の聖女候補だが、実は――」
「実は脱走してしまったのですよね。結果、聖女と聖術師の二人を害霊化させるはずだったのが、一人分しか聖力を確保できず、しかもトリニテート不成立が神の怒りに触れたのか、アウレリアはルーデンの属国に落とされてしまって、チェルソ殿におかれては諸方向に悔しい思いを噛み締めたとなるほどよくわかります」
またもエルマにカットインされ、チェルソは今度こそ引き攣った表情を浮かべた。
「君。なぜそれを……?」
「8割は精神世界で覗いてまいりました。2割は脳内補完です」
「は?」
チェルソは一瞬胡乱な顔つきになったが、すぐに「なるほど、害霊と接触したことで記憶を媒介したか……」などとそれっぽくシリアスな表現で言い直し、再び影の実力者役へと舞い戻った。
「ふふ、だがその重大な瑕疵すらも、巡り巡って私に恩恵をもたらした……。君、なぜ私が親ルーデンに徹し、わざわざルーデンの人間を聖鼎杯に引き込んだかわかるかね? わからんだろうなあ。それというのは――」
「ルーデンからの候補生を害し、反ルーデン派を犯人に仕立て上げることで、ルーデンによる反ルーデン派の一掃を狙ったのですよね。ついでに、ルーデンが支配を強め、言語や文化が一層ルーデン色に染まることで、アウレリア宗教界の知識、ひいては権力を、中枢であるご自身に集中させたいとの狙いがあったと」
「君は! 目上の者を! 立てることを! 知らんのかね!?!?」
とうとうチェルソは顔を真っ赤にした。
「先ほどから自分ばかりぺらぺらと! なんなんだね君は!」
「申し訳ございません。なにぶん、鎖に繋がれた状態で黒幕の告白を聞く、という場面に不慣れなもので、勝手がわからず」
素直なエルマは、祭壇に押し付けられた体勢から、ぎこちなく頭を下げた。
「ついでに申し上げますと、先ほどから気分が優れないのです。差し支えなければ巻きの進行をお願いしたいのですが……」
「いや、気分を優れなくさせたのは私だから! 差し支えるに決まってるから! 逆になんで差し支えないって思ったんだね君!?」
すっかりペースを乱されたチェルソは、健気に揺れる毛髪に両手を差し込んで叫んだ。
「進行がめちゃくちゃだ!」
自己演出型だな、とエルマは冷静な判断を下した。
チェルソは、真っ赤にした顔をぐしゃぐしゃに搔き乱す。
まるで癇癪を起した幼児のような、明らかに心の均衡を欠いた態度――おそらく彼の精神は、既に大いに破綻しているのだろう。
彼はひとしきり叫ぶと、突然それをやめ、ついで笑い出した。
「はは……っ、はははははっ! ははははははは!」
甲高い笑い声も、しかしぴたりと止まる。
彼は暗い瞳でエルマを見下ろすと、唇を歪めた。
「随分余裕があるようだが、それもここまでだ。……これがなにか、わかるかね……?」
そうして彼が取り出したのは、やけに安っぽい瓶だった。
表面は細かな傷で曇り、中に揺れる液体は、なんの変哲もない水の色。
魔族退治に使われる聖水よりは、安酒でも収まっていそうな様子であった。
が、コルクのはまった蓋からわずかに漂う匂いを拾ったエルマは、本能的に顔を顰めた。
「それは……」
「酒だよ。燃えるほどに酒精を強めた、ただの安酒」
だが、と彼は笑い、横たわるエルマの元へと近付いてきた。
「魔族には、これが堪えるのだろう? ははっ、聖力の持ち主にはむしろ助けとなる酒精が、それも単なる安酒が、まさか教会が高値で売りつける聖水よりもよほど魔族を苦しめるとは、ひどい笑い話だ。……だが、そう。そうした知識は、下賤の民に知られることなく管理されるからこそ、尊い」
きゅ……、と音を立てて、コルクでできた栓を取る。途端に、辺り一面に、普通の人間でも噎せ返りそうなほどの酒精の匂いが広がった。
「知は力なり。その通りだ。そしてその崇高な知恵は、ごく一部の選ばれた人間によってのみ継承されねばならぬ。事実、ルーデンの属国となってから、古代アウレリア語をまともに読めるのは、私くらいしかいなくなった。有象無象の民など、粗忽なルーデン文化をありがたがっておけばよいのだ。その中で、私が――私だけが、アウル教の真義を解し、力を得る」
チェルソは、香りに当てられて身動きできずにいるエルマの顎を掴むと、ぐいと瓶を傾け、無理やり中身を注ぎ込んだ。
「――…………!」
「ほうら、たんと飲むがいい。私からの餞別だ」
顔をそむけようとするが、叶わない。
魔族でなくとも、そのあまりの度数の高さに、ほんの数滴口にするだけで昏倒してしまうほどの酒精だ。
吐き出しきれずに呑み込んでしまったぶんだけであっても、致死量と言える。
これにはさすがに、エルマも眉を寄せ、苦悶の様子を見せた。
「――…………っ、…………ぅ」
激しく頭を振った拍子に、眼鏡が小さな音を立てて滑り落ちる。
露わになった美貌、そしてそれが苦しげに歪められているのを見て、チェルソはようやく留飲を下ろしたように頷いた。
「苦しむがいい、魔族よ。おまえを遣わせたルーデンの怒りを、ぞんぶんに掻き立てられるよう……苦しんで、息絶えよ」
酷薄な表情を浮かべて言い切ると、踵を返す。
これが反ルーデン派の仕業だと誤認させるために、いくつかの工作が必要だったためだ。
薄暗い洞窟には、息を荒げるエルマだけが残された。
「…………は、…………ぅ、ふっ、…………んは……っ」
心臓が暴れている。
呼吸がうるさい。
暑い。
寒い。
耳鳴りがする。
彼女はおそらく、その人生で初めて「死」の気配を身近に感じた。
「…………っ、は……っ、ぁ…………!」
小刻みに震える体。
その内側では、無数の感情と思考、映像が入り乱れては消えていった。
やはり自分は魔族だったのか、という、諦念の混じったような驚き。
酒を口にするなと教えた【貪欲】の兄の憂い顔。
いつも真意の伺えない――けれどどこか悲し気な笑みを湛えていた母ハイデマリー。
突然降りかかった危機への戸惑い。
このくらいの局面なら切り抜けられると信じていた自分への不甲斐なさ。
自分を心配して怒っていた友人の姿が、今こんなにも胸に迫る。
「…………ィ、…………っ、は…………!」
そのときたしかに、エルマはなにかを叫ぼうとした。
が、それがなんだったのかを自分で理解するよりも早く、暴れる呼気が声を奪ってしまう。
苦しい、と、初めて思った。
「――……た、…………っ!」
誰かに縋るための、とても無力で、無縁だった言葉。
それを口にしようとしたその瞬間、
――どくんっ
ひときわ大きく心臓が波打って、エルマは限界まで目を見開いた。