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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「友情」は悩ましい

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29.シャバの「友情」は悩ましい(1)

 そこは、白い世界だった。


 すべての輪郭が溶け、音も消え去った、まるで雪原のような、それとも雲の中のような場所。

 その世界の片隅から、時折、泡のようなものが湧きあがり、ふらりと空間を漂っては、弾け消えてゆく。


 天地も前後も定かではない、不規則な動き。泡の大きさも様々だ。

 ただしそれらは皆、ふらりと揺れる膜の表面に、なにがしかの光景を写し込んでいて、そっと手で触れると、弾ける前にひときわ鮮やかに輝いた。


(そう……――)


 意識の雪原に佇んだ少女――エルマは、静かに頷いた。


(これが、あなたの記憶なのですね。……レナート様)


 害霊、と呼ばれた者の名も、既に知っていた。

 聞き出したのではない、気が付けば「既に知っていた」のだ。


 エルマとレナートは、まるで胎内で母親を共有する双子のように、精神世界という白い闇の中で、両者のすべてを分かち合っていた。


 知識も記憶も、感情までもが、もはや個々の輪郭を失い、混ざり合う。

 エルマはぼんやりと記憶の泡を目で追いながら、なるほど、と神妙な顔で首を振った。


(これが「対話」……。たしかにこれに比べれば、イレーネと私のそれは、単なる言葉のキャッチボールに過ぎなかった……)


 それで充分である。

 が、ようやく「普通の対話」を会得したと考えたエルマは、斜め上の方向に思考を駆け上がらせた。


(イレーネがこのレベルの「対話」を求めているのだとすると、互いの性格趣味嗜好過去のすべてが筒抜けになるわけで、……私はべつに構わないものの、一般的に思春期のただなかにいる人間にとって、その状況はいささか辛いのでは。やはり熟年期くらいまで成長を待ってから「対話」したほうが……? それに、瞑想中は仮死状態になるわけだから、イレーネが「対話」初心者だった場合に備えて、周囲の環境を整えておかねば)


 一般的な人間は、そもそも瞑想などできない。

 が、エルマはレナートの記憶の泡をぼんやりと辿りながら、傍らでは、来るべきイレーネとの対話に向けての準備事項に、忙しく思考を巡らせた。


 と、たまたま触れた記憶の泡が、ぽう、と淡い光を放つ。

 その中に、興味を惹かれる人物の姿を見て取り、エルマはふと視線を向けた。


 幼い少女だ。

 五歳ほどだろうか。


 顔も体つきも華奢だというのに、その美貌は既に完成され、どこか老成した雰囲気が漂う。


 彼女ととてもよく似た雰囲気の持ち主を、エルマはごく身近に知っている気がした。


(けれど……この女の子は、銀髪(・・)ではない(・・・・)


 少女の、まるで太陽の光で紡いだような金色の髪を見て、エルマははてと首を傾げる。


 世界で一番美しいのは母だと思っていたが、もしかしたら自分の見識が狭いだけで、巷には彼女くらいの美貌の持ち主も、ちらほらいるのかもしれない。


 エルマの考えを肯定するように、少女の関わる記憶の泡が次々と揺らぎ、光を放っていった。

 それでエルマは、泡に浮かぶ美貌の少女が、過去の聖女候補生であったことを知った。


(聖女。ならば……お母様には申し訳ないけれど、やはり別人……)


 エルマの知るハイデマリーは、この世の誰より美しくて気高くて愛情深いが、まず間違っても聖女というタイプの人間ではない。


 あっさりと別人として結論付け、エルマは再びレナートの過去を辿った。


 聖術師候補生としての厳しい修行の日々。

 同齢の友人と交わした誓い。

 その彼の裏切り、それへの煮えたぎるような怒り。


 レナートは衝動のままに教会の門を叩いた。


 翌日に聖鼎杯を控えた深夜、月光も射さぬ深い闇。

 彼を驚きながら、しかし優しく受け入れたのは、今より三十年分だけ若々しい頭髪を持った――チェルソであった。


(……意地に、なっていた)


 ふと、若い男性の声が響く。

 いや――外から聞こえるように思われたそれは、もしかしたらエルマの声なのかもしれない。

 だって、「ここ」では、己と他者の区別などないに等しい。


(ひとりで、いいと。……誰も……友などいらない、と)


 わずかな幼さを残した青年の声は、彼とエルマの心を行ったり来たりしながら、うわんと周囲に広がっていった。


(私は、ひとりでいい。誰も要らない。ひとりで夢を、掴み、ひとりで……過ごす)


 彼のように、怒りを源泉としていたわけではないが、そうした在り方はエルマにも容易に理解ができた。


 ひとりでいい。

 頼る必要などない。

 だって、自分にはたいていの局面を切り抜けられる能力があるから。


(誰かに……イレーネに、迷惑をかける必要などない)


 ただ、自分ひとりで処理できることだからと、取り組んでいるだけなのに。


 なのにイレーネには、いつも怒られたり、心配されたりする。

 エルマにはそれが不思議だったし、――少しばかり、哀しくもあった。


 声は、時折混ざり合いながら響きつづける。


(支え合う必要などない。グイドなどいなくとも、私はひとり、聖術師となり、この国を、守り、導く……その能力が、私にはある)

(喜んでもらいたいだけなのに。頼らず、迷惑を掛けず、……ただ、私の出来ることをして、喜んでもらいたい。……それくらいの能力は、私にも、あるはずなのに)

(ひとりでいい。グイドなど要らない。頼らない。――……ああ、でも、だから私は……)


 が、青年の――レナートの声が、悲し気にくぐもる。


 ふわりと舞い上がった泡の一つが、儚い光を放って、とある光景を描き出した。

 聖術師の座を約束してくれたチェルソが、巧みに地下の神殿へとレナートを誘い出す場面だ。


 逆さに掲げられた祈祷布、片目を失った神像。

 いかにも禍々しい空間に、レナートは危機感を抱きはじめる。が、内心で立てた絶縁の誓いが、彼に悲鳴を上げさせることを躊躇わせた。


 態度を豹変させるチェルソ。

 引き倒され、祭壇に拘束された自身の肉体。

 怪しげな陣。

 勢いよく振り下ろされる聖剣。


 その時になってようやく、レナートは、自分が誰に救いを求めていたかを理解した。


(だから私はあの時……素直に助けを求められなかった)


 しかし彼がその名前を叫ぶよりも早く、――切っ先が、彼の心臓を貫いた。


(ああ……)


 哄笑するチェルソが見える。

 見る間に肉体が乾燥して縮み、魂だけが砂となって浮き上がったレナートの姿が見える。

 肉体を、言葉を、自由を奪われ、チェルソに使役されるだけの害霊となった彼の姿が。


 害霊とは、肉体から切り離され、歪んでしまった聖力の塊。

 辛うじて発話の許される聖なる言語(古代アウレリア語)で、害霊と化したレナートがなんと叫んでいたのかを、エルマはようやく理解した。


(『グィー』。あれは悲鳴でも唸りでもなく……。あなたはずっと、親友(グイド)の名を、呼んでいたのですね)


 返事はない。

 ただ代わりに、世界が揺れるような激しさで、一斉に記憶の泡が立ち上り、強い光を放っては弾けていった。


 その最後の泡が消えたとき、――エルマはゆっくりと、閉じていた瞼を持ち上げた。


「…………」


 ずしりと、自身の肉体の重みを感じる。

 ぼんやりと目だけを動かして周囲を見回し、彼女はぽつりと呟いた。


「……地下、聖堂?」


 逆さに吊るされた祈祷布。片目を抉られたアウル神の像。

 時折ぽとりと滴を落とす岩の壁、湿った水の匂い。


 どうやらここは、先ほどまでいたはずの闘技場でも、保健室などでもなく、洞窟をくり抜いて作った、聖堂のような場所らしい。


 そう。レナートがかつて誘い込まれた、あの場所だ。


 ずし、と、胃の腑が重くなるような感覚に眉を寄せながら、エルマはようやく身を起こそうとした。


 が、できない。


 どうやら自分は、頑丈な鉄の鎖で祭壇のような場所に縛り付けられているのだと、それでようやく気付いた。


「――お目覚めですかな?」


 とそこに、ゆったりと声が掛けられる。

 おもねるような、猫なで声。振り返らずとも、声の持ち主の正体は明らかだった。


「……チェルソ枢機卿」

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