【光浦靖子さんインタビュー】手芸にハマったきっかけは?

バリ伝知らずにバイクに乗るな



とまで俺は言いたい。

なぜならば、『バリバリ伝説』(しげの秀一作)は、単なるバイク漫画
じゃないんだよね。
『巨人の星』、『あしたのジョー』と並ぶ日本の歴史の中の金字塔とも
呼べる作品であって、社会現象を引き起こした稀有な漫画作品の
一つだからだ。
読売ジャイアンツの原監督も江川卓さんも「『巨人の星』があったから
こそ野球をやった」と熱く語っていた。
『あしたのジョー』に至っては、ボクシングファンのみならず、倒れても
倒れても立ちあがるジョーに多くの人が心を熱くした。1970年前後
には大学生の卒論テーマで「ジョーは死んだのか」についての考察
を取り上げるのも流行ったりした。特に「倒れても立ち向かう」という
ジョーの姿は、当時の若者の世相を反映して爆発的な人気を得た。

そして1980年代は『バリバリ伝説』だ。
これが単なるバイク漫画・レース漫画だったら『キラーBOY』のように
一部のマニアに受けただけの作品で終わったことだろう。
同時期の人気漫画で『ふたり鷹』(新谷かおる)というバイク漫画が
あったが、こちらはフィクション風味全開で、それは新谷ワールドで
面白いことは面白いのだが、あまりにもリアルさに欠けた。
『バリバリ伝説』が他の作品と異なっていたのは、登場するマシンの
ディティールの正確さ、走行シーンのリアルさと共に、主人公巨摩郡
(こま ぐん)を中心に登場人物の成長を克明に描いた点だった。
傷つき倒れ、そして立ち上がり新たな境地を自らの手で切り拓いて行く。
若者は熱狂した。
1983年から週刊少年マガジンに連載が開始された当初、主人公グンは
高校2年生17歳だった。私が22歳だから、タイムリーな同世代としては
5歳年下ということになる。
そして、連載終了の1991年はグンは25歳のグランプリライダーと
なっていた。
この漫画の特筆すべき点は、グンと恋人や友人の成長記を描いて
おり、多くの作品がその途中で未来を見つめて終了する作が多い中、
世界グランプリの頂点、世界チャンピオンになるところまでをきっちりと
描いていることだ。一般的な作品では含みを持たせて終わらせるケース
が多い。
それでも、一つの(しかも余人には掴み得ない)頂点に達したとはいえ、
さらにグンの挑戦はこれから始まる、というラストにしている。
最大限の期待に応え、そしてさらにそれ以上の希望を読者に持たせる。
これが人気がでない筈がない。
爆発的人気のまま足掛け9年、実質8年間にわたり連載が続けられた。
むさぼるように読んでいたのは若者だけではない。
当時、昼休みに喫茶店などに行って昼食を取ると、サラリーマンのおじさん
たちも食い入るように『バリ伝』を読んでいた。私よりも年が6歳も10歳も
上の人たち(=『あしたのジョー』世代)が食い入るように読んでいた。
間違いなく、『バリバリ伝説』は時代を作った金字塔とも呼べる作品だった。

『バリ伝』が社会に及ぼした影響はすごいものがあった。
おりしも、世界中、つまりこの地球上では全世界(といっても先進国)に
おいてグランプリレースの人気が沸騰しつつあった。
ヨーロッパを中心として各ラウンドごとに各国を転戦するオートバイの
ロードレースである世界グランプリは世界最高峰に位置するバイクの
レースだった。
そして、その世界選で戦われるトップを走るマシンは、すべて日本製
だったのだ。
日本は日本刀の国、バイクの国である。
だが、何人もの日本人がこれまで世界GPに挑戦しても、単独ラウンドで
優勝することはあっても、世界チャンピオンになった日本人は一人も
いなかった。1977年に日本からのエントリーで片山敬済が350ccの
世界チャンピオンになったが、片山選手は帰化手続きをしておらず、
国籍は韓国のままだった。

(ホンダワークスマシンNS500のポジション合わせに余念がない日本代表
の片山選手/1984年 世界GPパドックにて。最高峰W
GP500ccに全戦フル
出場の日本選手は1977年の
350cc世界チャンピオンの彼だけだった)






劇画の世界とはいえ、『バリバリ伝説』の主人公グンは1991年(作品中
では年代をあえて不明にしている)に世界最高峰WGP500ccクラスの
世界チャンピオンになった。
その2年後、まるでグンのように、原田哲也という若者が世界グランプリ
全戦初参戦の年に250ccクラスの世界チャンピオンを獲得した。

ここに歴史上、初めての日本人チャンピオンが登場したのである。
その後は各クラスで何人も日本人のチャンピオンが出た。
ただ、惜しむらくは、世界最高峰クラスでチャンピオンになった日本人は
一人もいない。
一番可能性があったと思われたのが、歴戦の世界チャンピオンを後ろに
従えて鈴鹿を誰よりも早く走って転倒した阿部典史選手だったが、成績
不振でWGPの最高峰クラスからスーパーバイククラスに転向を余儀なく
され、活動を続けている中、一般道での交通事故で残念ながら亡くなって
しまった。
現在、MOTO GPと名前を変えた世界グランプリだが、歴代チャンピオン
獲得数の世界記録を塗り替えている現役GPライダーのイタリアのバレン
シーノ・ロッシは子どもの頃に阿部選手にあこがれてレースの世界に
没頭した。阿部の大ファンで「ろっしふみ」とひらがなでヘルメットに
ペイントしてWGPを走ったりしていた。
阿部選手も『バリバリ伝説』の大ファンだったことは有名だ。
彼だけでなく、バイクのレースをする選手ライダーはすべて『バリ伝』を
読んでいたといっても過言ではない(どころでなく全員が読んでいただろう)。
バイクに乗らない人も乗る人も、日本人の多くが『バリバリ伝説』には心を
奪われた。
そして、私もその一人だった。

『バリ伝』の作品の中では好きなカットがいくつもあるが、意外と
ほのぼのしたところで、オリジナルコミック15巻カバーに使われた
この絵は私は気に入っている。


この雰囲気、とても親近感があるからだ。

そして、マイナーなカットだが、この絵もかなり気に入っている。

マニアックな『バリ伝』ファンならば「あ、どこどこのどの時のシーンの
カット」とすぐに判るだろう。
この時のグンの様子というのは、コースを走っていた人間には
とてもよく理解できるカット割りだ。言葉はいらない。
この絵を見ただけで「うっ」とこみ上げるものがある。

ただ、私の中で、グンの恋人の一つ年下の伊藤歩惟(あい)ちゃんの
イメージはやはりこれ

が強いので、二人の成長を描いているとはいえ、WGPに
行ってから時を追うごとに「女性」になって行く歩惟を見ていると、
なにかどんどん遠くに行ってしまうような寂しさを覚えた。
(梅井のそれとは違うけどね)

こういう「女」になった歩惟ちゃんは、私の中ではなかなか
受け容れられなかった。


といっても、登場人物でいうなら、俺は個人的好みでいったら
絶対的に一之瀬美由紀のほうが伊藤歩惟よりもいいけどね(^^;

おもしろい考察をしているブログをみつけた。

→ 『バリバリ伝説』を実写化するなら・・・

おお~。伊藤歩惟ちゃんのイメージは、確かに大昔の
この人だとイメージに合うかもしれないけど、ノダメの
印象が強すぎて難ありかな(笑


それに、最近は実写化流行りだけど、コケる作ばかりなので、
『バリバリ伝説』の実写化だけはしないでほしい。
期待した『ワイルド7』においても、主人公飛葉のキャラクタが
まるで別人になっていて、原作者望月先生の飛葉の銃ウッズマン
へのてこ入れがあった映像化とはいえ、あまりに飛葉が飛葉で
ないのでかなりガックリきた。メンバー自体もまるでチンピラの
集まりみたいで、原作の「リーダー飛葉に絶対の信頼を置く」
という一番大切なところがズッポリと抜け落ちていた。
『バリバリ伝説』については、
1980年代のGPマシンでの実写など
まず不可能であるし、
現行MOTO GPの4ストマシンでの実写化
などはグンのマシンの
「シマザキスペシャル」やグンの走法その
ものを再現できない。

タイヤが暴れ出したら「カレーライスにして食っちゃうぞ」という
のがグンなのだから(笑
原作のディティールやキャラクタを活かさない実写映画化ほど
駄目な映画作りはないと思う。


ただ、スライド・ドリフト走法については、1984年の段階で
かつての世界チャンピオンだった片山敬済氏のメカニックを
勤めた経験を持つ
柳沢雄造氏本人が私に語っていた。
「これまではフレームのしなりでよじれさせながらグリップを
得る走法が主流だった。スライドがあったとしても慣性スライドだ。
だがタイヤのサイドウォールとフレームの剛性を上げて、あえて
滑らせてそれをコントロールする走法が今後出てくるのでは
ないだろうか。だが、現段階ではそれをすると転ぶだろう。トータル
としてのとしてのセッティングがまるで雲をつかむような段階だ
からだ。いや、たぶんまず転ぶね。フレディが使いつつあるが、
まだ他の者は完成されていない」と。
雄さんが俺用にシリアルナンバーではなく俺の名を刻印した
チャンバーをくれる数年前の頃の話だ。


『バリバリ伝説』が連載されている頃は、街中は主人公グンの
レプリカヘルメットであふれた。いわゆるグンヘルだ。グンヘル
だけでなく、レーシングライダーのオリジナルデザインのレプリカ
は人気があった。
(グンヘル)


ただし、俺は俺であるので俺は俺のオリジナルデザインに
ペイントしたヘルメットを被っていた。
コースを走る者は、例えノービスだろうと世界チャンプだろうと、
すべて同じ土俵に立つ者という意識があったからだろうか、コースを
走る者は、全員が自分のデザインのヘルメットを被っていた。
そこには、ある種の独立心という「走る者」の矜持があったように思う。
本気でコースに出る者どもは、誰かの真似でレースをやっているの
ではない。己自身をかけて己がレースに臨んでいた。仲間と共に。
ケニーロバーツ・レプリカやフレディ・スペンサー・レプリカなどを
被っている者でレースをやる人間などいなかった。はぁ?なにあれ?
と思われるのがオチだ。サーキットを走る者は、コスプレでレースを
やっているのではない。
一度こういうことがあった。
1977年か78年か失念したが、富士スピードウェイで某漫画家が
コースを一定時間借り切って独占し、自分の四輪車で走行しようと
していた。ボンネットには大きく「サーキットの狼」と書かれていた。
別ピットにいた一般レーシングライダーや関係者たちは「はぁ?」と
声をもらした。
「どれ、幻の多角形コーナリングを見せてもらおうじゃないか」と
パドック裏から直下のヘアピンを眺めた。
そのロータスヨーロッパは超遅かった。大八車が走っているのかと
思うくらいに遅かった。

ただし、スポンサーや広告としての関係から他者のデザインヘルを
公式レースでライダーが被ることは例外として時たまみられた。
グンヘルにしても、雑誌「ベストバイク」のオサ坊のヘルメットであった
のだが、『バリバリ伝説』で主人公のグンのヘルメットとして有名に
なってしまった。まあ、しげの先生とオサ坊の関係が劇画原作者と
アドバイザーという関係だったからデザインを劇画の中で使われたの
だと思うが、いつの間にかグンのオリジナルというように世間では定着
してしまった。これはフレディのヘルメット・デザインは実はフレディが
考えた物ではないというのに似ている。
このあたりをくすぐるエピソードとして、グンが大学に入ってから、
グンヘルを被っていたら、それをグン本人と知らない学生から
「君もグンヘルを真似たのか。でもちょっとラインが違うんだよね~」
みたいに言われて、グン本人がずっこけるシーンが描かれている。
ちなみに、清水国明氏は鈴鹿4時間耐久のレースに出るときに、
赤色部分を水色に変更したグンヘルを着用していた。

そういえば、唯一の最大の謎として、『バリバリ伝説』には、当時の
実在GPライダーが多く登場するのだが、この不世出の世界チャンピオン
だけは登場しなかった。
あたかも実在しないかのように全くこの男、フレディ・スペンサーを
作品内に登場させなかったのは、走りがあまりにもグンと被るからかも
しれない。



わが青春の『バリバリ伝説』。

レジェンドは私の中でまだ続く。

RIDE FREE!
だけど、皆さんもオートバイは安全に乗りませうね。



ちなみに、ピットでサインボード出してくれていたのが
今の俺のかみさんになってる(笑)
ただ、あまりに辛いことが多かったので、当時のことを
振りかえることは二人ともあまりない。
本気でレースをやると、ピクニックや「みんなでワイワイ」
とかいうのとは全く違う世界になるからだ。
コースにはボロボロのつなぎを着て、日々カップラーメンで
かろうじて命をつなぐ亡霊のような連中が多くあふれていた。
それが現実だ。

1991年、島田紳助は『風、スローダウン』というほろりと
良い映画を作った。ほろ苦く悲しい映画だけどね。


この映画作品の中での五十嵐いづみがとても良かった。
仮に『バリバリ伝説』を実写化するならば1991年だった
ならば可能だったことだろう。それはグランプリシーンが
タイムリーに原作と重なる時代としても、いくばくかの可能性
はあった。
そうすれば、『バリ伝』の「みぃ」こと一之瀬美由紀のイメージは
五十嵐いづみがぴったりだったように思える。

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