◆加賀藩では、残虐な「前田利家」を讚美して「桶狭間」の戦いの姿を生々しく描いた掛軸を各家の床の間に掛けて称賛した。
【前田利家桶狭間図】
■最近発見された明治時代の金沢出身の書道の大家「北方心泉」の「賛」と落款のあるコンテ画「前田利家の桶狭間の戦いの図」
「北方心泉」の作品は金沢市の文化財で「金沢ふるさと偉人館」にも展示される。
■「国史画帖 大和桜」
■「前田利家」が千人以上を磔・釜煎りにしたと残虐性を伝える 「瓦」❗❗
■「能登末森城の戦い」で「佐々成政」に従い「前田利家」と戦った五位庄赤丸村は前田家の占領で苦難の道を歩んだ!!
「前田利家」と「佐々成政」は元々、「織田信長」の家臣として、各々が鉄砲隊を指揮して一緒に戦っている。しかし、「織田信長」が京都の本能寺で暗殺されると、「豊臣秀吉」と通じた「前田利家」と「織田、徳川」と通じた「佐々成政」がその後継を巡って争った。
■「前田利家」に敗れた福井北庄城の「柴田勝家」の遺体は市中に打ち捨てられたと云う。今は福井市中の寺に妻の「お市」と共に小さな祠に葬られている。
■富山県と石川県の境界に在った「石動山」は「前田利家」の「焼き討ち」に会い、「上杉謙信」が復興した寺は全て焼き払われ、僧はなで斬りされ、全山は地獄と化した。この時には、石動山の三門に首一千余りを吊るし、生きる者は寺に寄宿した乞食や婦女子迄も殺戮した事が「荒山戦記」等に記載される。
■天正三年九月二日、「織田信長」は越前北庄城(福井市)に入り越前北庄城を柴田勝家に与え越前八郡を与えた。越前府中(武生市)と今立、南條二郡10万石には不破光治・佐々成政・前田利家の三人を配置し、府中三人衆として一人当たり三万三千三百石を知行した。三人は勝家の与力であると共に目付役とされた。前田利家は府中城(武生市)を与えられ、初めて大名となった。天正四年(1576年)五月、越前で発生した一揆について、前田利家は残忍の限りを尽くして成敗した。その仕置きは、「前田又左衛門尉(利家)殿、一揆千人ばかり、生け取りさせられ候なり、御成敗は磔、釜に入れられ、あぶられ候」と記載され、「前田利家」が如何に兇暴な殺戮集団の指導者で有ったかが判る。この一揆で殺害された者は野山に隠れていた女子供も含む12,000人とされる。
封建時代には、反発する者は捕えられ、民衆は「磔柱」に縛られて両脇を非人が槍で突き刺す「磔の刑」や大きな鉄鍋を熱して縛った民衆を放り込み悶え死ぬのを楽しんだ「釜煎り・釜茹での刑」、縛り付けた柱の周りに薪を積ませて火を点けて罪人を焼き殺す「火あぶりの刑」等で殺害されたと云う。後の「前田利常」も家臣には「逆らう者は首を刎ねて徹底的に弾圧した」と伝えている。(※「微妙公夜話」)
(※「百万石の光と影」浅香年木著 参照)
◆越中、加賀、越前では浄土真宗の一向一揆が強力であったから、信長は「山々、谷々残る所無く探し出して首を切れ 」と命じた。その中には赤丸浅井城に入城していた本願寺の坊官下間和泉も入っており、討ち取られている。
(※「肯搆泉達録」)
その殺戮は残忍を極め、「ひながたけ」と言う所に身を潜めていた都合一千人以上を引きずり出して首を刎ね 、生け捕りにした百人ばかりも惨殺したという。しかも、村々に残されていた女、子供さえも全員が引きずり出されて殺戮された。特に信長の命令を忠実に実行したのは前田利家で、手当たり次第に「撫で切り」にしてそれを武功として誇ったと云う。福井県「越前の里 味真野苑資料館 万葉館」には味真野「小丸城」から出土した瓦が保管されている。それには「前田又左衛門尉殿が一揆千人ばかりを生け捕りにし、磔・釜煎りにして処刑した。後の人に伝える為一筆記し置く」と刻まれている。ここでは「釜茹で」では無く「釜煎り」にしたと記されるから、熱した大釜の中に人間を放り込み、焼け死ぬのを楽しんだらしい。前田利家は「撫で切り」と「磔・釜煎り」の武将として怖れられ、利家はそれを武功としたとされる。
⇒「前田利家」については、「金沢市」・「高岡市」では町を開いた「貢献者」として吹聴し殊更にこの殺戮に明け暮れた封建領主を讚美する文化が根付いている。その背景には、武器で脅して殺戮を繰り返した前田家に対する「恐怖政治」が有り、その為に膨大な民衆が殺戮された事を忘れてはならない。封建時代の歴史はこの暴力集団が民衆の眼、耳、口をふさぎ、以前の歴史を抹殺して一方的に作り替えられた歴史であり、「嘘」で塗り固められた「加賀藩の歴史」は全てが疑い得ると云う事を忘れてはならない。華やかな金銀で飾られた加賀藩の文化は全てが民衆の血と汗と涙で購われた事を忘れてはならない。
■【福井県広報誌より抜粋】
🔽前田利家の福井県越前市での惨劇(※福井県越前市 「越前の里 味真野苑資料館 万葉館」 )
《恨みを残し瓦に刻まれた前田利家の惨劇!!》
「前田利家の越前市での殺戮」
福井県では「前田利家は一向宗門徒を虐殺した武将」として言い伝えられている。
武生 一向一揆では、山々に逃れた民百姓を徹底的に探しだし、女、子供に至る迄、熱釜に放り込んで焼き殺したり、磔に架けて虐殺した。その時逃れた農民達が怨みを記入した屋根瓦が残されている。伝承は前田利家の狂気を今に伝えている。
・前田利家は一揆勢の殺戮の為に鋳物師に鍋釜等の生産を中止させて農民を焼き殺す為の大釜を生産させたと言う。
《■福井の戦国 歴史秘話 40(福井県広報より)
凄惨(せいさん)な一揆弾圧を伝える瓦 。
《小(こ)丸城跡(まるじょうあと)出土の文字丸瓦と府中三人衆~》
▼昭和7(1932)年、工事の 時に発見された瓦の書物には以下の記述がある。
【後世に御らん(覧)じられ、御ため小丸城跡(越前市五分市 )物かた(語)り有るべく候、然れば町の乾櫓(いぬいやぐら)を掘削したところ、其の瓦とともに文字が刻まれた丸瓦に「 前田又左衛門(利家)殿、いき千人ばかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)はかま(釜)にい(煎)られ、 あぶられ候哉、此の如く候て、一ふて(筆)書とと(留)め候、」とあり、5月24日に一揆が起こり、利家 が一揆衆を千人ばかり生け捕ったうえ磔や釜煎で処刑したという。利家による苛烈を極める一揆弾圧の様子が記されています。文頭の「後世に御らん(覧)じられ、御物かた(語)り有るべく候」の文言からは、当時の人々がこの事件から受けた衝撃の大きさが伝わってきます。】
◆彼ら戦国武将が当地を去って
400年以上の歳月が流れた。凄惨な歴史を語る文字丸瓦が出土した小丸城跡は、本丸跡や土塁跡などが部分的に残されており、春は桜、秋は紅葉に美しく彩られ、訪れる人を楽しませてる。
▼「小丸城跡」
利家は、不破光治や佐々成政とともに、越前の一向一揆を制圧した織田信長から府中周辺の2郡を与えられます。利家は府中城(現在の越前市役所付近に比定)、光治は龍門寺城(越前市本町の龍門寺を含む一帯)、そして成政は小丸城を拠点としたとされます。一般に府中三人衆と呼ばれる彼らは、天正3(1575)年10月に宝円寺(越前市高瀬一丁目)の寺敷安堵や大滝神郷紙座の営業圏の確定などを3人連名で行っており、遅くともこの頃には彼らによる支配が始まっていたと思われます。しかし、その支配はあまり長くなく、利家は天正9(1581)年に信長より能登1国4郡を与えられ、成政も同年2月頃までに越中に移封されたと考えられています。》
■天正九年(1581年)三月、織田信長は前田利家を石川県羽咋郡志雄町の菅原に配置し、十月には利家に能登一国(約二十万石)を与えた。越前府中はこの時、利家の嫡男利長に与えられた。天正九年の暮れに七尾城に入ったが、翌十年には能登小円山城に移った。天正十年(1582年)六月二日、織田信長は突然、明智光秀の謀叛で、京都本能寺で自刃して果てた。信長自刃の報が伝わると、能登守護畠山氏の旧臣の温井景隆、三宅長盛、遊佐景光等が上杉景勝の支援を受けて越中氷見の女良に上陸した。 上杉謙信が能登七尾城を攻撃した時、 謙信は天平寺に寺領を寄進していたが、織田信長はこれを没収して、主家畠山氏を裏切り信長に通じた長連竜に与えた為、石動山天平寺は上杉景勝の支援を要請して織田氏に対抗した。 六月二十三日、旧臣等は石川と富山県境の石動山天平寺に入り、僧兵や信徒に迎えられた。前田利家は柴田勝家、佐久間盛成に支援を要請し、六月二十六日の明け方に畠山旧臣の籠る荒山砦と石動山天平寺・石動山城を攻撃して、寺院を全て焼き払い、子供も含めた衆徒4300人余りをなで斬りにして、千余人の首を山門に吊るした。その凄惨さは織田信長の比叡山焼き討ちを越える悲惨な有り様だったと云う。その時、石動山から流れ出る谷川は斬られた僧や信徒の遺体や首で埋まり、谷の水は真っ赤な血の川になり、下流の集落に流れ出て、正にこの世の地獄絵図になったと地元には伝えられる。
(※「前田利家のすべて」新人物往来社 参照、「地元の伝承」)
■天正十年、上杉景勝に内応した「長景連」は元能登正院川尻城主だったが、七尾城陥落の時に越後へ逃れていたが、前田利家が越中魚津城へ出陣した隙に海路、棚木城(※石川県能登町棚木)を攻めて籠城した。これに対して、利家は「長連龍」に千人の手勢を与えて同族の「景連」に総攻撃を加え、「景連」の首を安土の信長の下へ送り、その他の捕虜は七尾城へ移送して全員を虐殺した。その殺害は、「火焙り」、「釜煎り」にした。前田利家はこの人を入れて「釜煎り」にする「大釜」を全ての鋳物作業を中止して優先的に鋳物師に鋳造する様に命じた。ここでも前田利家の残虐な「釜煎り」の刑が執行され、民衆に見せつけたと云う。
(※「戦国の北陸動乱と城郭」佐伯哲也)
(※能登棚木城は上杉謙信が奥能登を攻めた時に、前田利家に従った長連龍の身内で上杉謙信に通じた長景連が居城としたが、天正十年、越中魚津城へ出陣していた利家は長連龍に手勢千人・中筒三挺を与えて抹殺を命じた。結果、長景連は首を安土城へ送られ、一族、家臣は全員、「釜煎り」・「釜茹で」の刑に処せられ、極めて残虐な形で殺害されたと云う。その為に、前田利家はワザワザ鋳物師に「大釜」を急いで鋳造させたと云う。
(※「釜煎りの刑」⇒罪人の手足を縛り上げて熱した大釜の中に放り込み、焼け死ぬ迄過熱した。前田利家が頻繁に使った刑罰で、越前武生でもこの刑罰を用いて民衆全員を虐殺したと云う。)
■天正12年9月9日(1584年10月12日)に能登国末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)で行われた攻城戦は「末森の合戦」と言う。越中領主佐々成政は高岡守山城の神保安藝守氏張、五位庄柴野城主寺島牛之助(牛介)、寺島牛介の兄の小島甚助( 斉藤甚助、槻尾甚助とも記載される )、赤丸浅井城城主中山直治を従えて、石川県羽咋郡の末森城に前田利家を攻めた。福岡町沢川村の土豪で能登に所領を持っていた田畑兵衛は越中から山越えで攻めようとしていた佐々成政の部隊を道案内すると称して意図的に山中を連れまわし、末森城に至るのを後れさせた。結果、佐々勢は末森城を攻め落とす事ができず、前田利家を支援する豊臣秀吉が越中の呉羽山に着陣し、佐々勢は戦わずして豊臣秀吉の軍門に下った。一時期は新川郡を与えられた佐々成政は九州肥後に転封され、神保氏張は九州へ同行した。柴野城主寺島牛之助は前田利家に鉄砲の腕前を買われて前田家に仕官した。高岡開町時の家臣名簿には寺島牛之助の名前がある。一方、浅井城城主中山直治は前田家に仕官せず、福井県敦賀市に落ち延びた。その時、持参した赤丸村近辺の住民に米を貸し付けていた証文が現在、敦賀市博物館に残っている。一方、佐々成政は強硬な検地政策を実行した為、地元の一揆を誘発し、秀吉から責任を取らされて切腹する。神保氏張は流浪して後、徳川家に仕えて旗本となり、現在の番町に屋敷を構えたと云う。(※神保氏の系図は静岡県立図書館に有る。中山氏はその後、敦賀の今井家に養子となり、今井家を継いだという。(※「中世城館調査報告書」高岡徹著)
■(※越中神保氏には富山城を拠点とした惟宗姓神保氏と高岡市の守山城を拠点とした平姓神保氏の二系統が在り、惟宗姓神保氏も徳川旗本となって神田神保町に屋敷を構えた。この二氏は何れも室町幕府管領畠山氏から賜姓され神保を名乗ったが、惟宗姓神保氏は元々、先祖を渡来人とする「惟宗」で在り、平姓神保氏は秩父平氏の「中村、二宮」を名乗っていた。⇒「神保系図」静岡県立図書館)
■「能登末森城の戦い」で「佐々成政」に従い、前田家に占領された赤丸村の統治は五位庄の中でも過酷を極めたと伝わる。
加賀藩の税率は基本的に「四公六民」と言われたが、赤丸村は61%、馬場村70%、三日市村の西村70%、高畠村67%、鳥倉村75%、舞谷村75%であり、木舟村51%、稗島村60%と言う酷税が課せられ、その他の地域は概ね平均でも40%代であったと云う。しかしこれは加賀藩の基本方針とは異なる表向きで、実際の「改作方針」は「六公四民」を目指して、新田開発の基本としていたとされる。但し、河川敷等の条件が悪い場所の新田開発では開発後数年は免2つ(2割)等の特典や諸役免除の特典を与えていた。前田家が越中に入った時には、越中、加賀、能登は一向一揆の影響が残っていたため、地元からの申し入れの生産高を認めていたが、慶長年間に入ると厳しく「検地」を行い、時には測量前の倍近くの面積にして税率が倍近くになるなどした為に、農民が村ぐるみで逃げてしまうケースも在ったと云う。
加賀藩では「改作法」と言う農業の増収政策が取られた。初期には、赤丸村は能登の鹿島半郡3万石を代々領した長九郎佐衛門の知行地であった為、加賀藩としては長氏に徴税を委ねていた様だが、加賀藩が直接改作法を実施したのは慶安4年に先ず越中の西礪波郡の五位庄の立野町、渡り村、柴野内嶋村、東石堤村、日詰村、高田嶋村から始まった。明暦2年(1656年)に百姓取り纏め役の「十村役」宛に納税割当書の「村御印」と言う命令書を発給した時には、砺波郡だけで約4万5000石もの増税を指示している。当時は富山県の土地が痩せていたのか、能登の能美郡では300歩で1段=1石7斗で計算されたが、富山県の砺波郡では360歩で1段=1石5斗で計算されており、この生産性の低い土地にこれだけの増税を指示した。(正保3年、1646年の砺波郡の石高は20万211石→明暦2年、1656年には24万018石の2割増しの生産を達成させている。これに対して、加賀4郡では423706石→384933石と減額され、能登4郡でも225006石→238482石と少し増加させている。)
この増税政策でも、富山県の西部が如何に厳しく増税されていたかが判る。
■「加賀藩三代前田利常」の統治思想。
【百姓というものは鷹の様なものである。鷹は食べ物を与えすぎて肉付きがよくなると鳥をとらえなくなる。百姓も同様で、肥えすぎると農業を疎むようにななる。しかし、鷹の肉付きが弱く成りすぎると鳥を取り逃がす。と同様に百姓も疲れすぎると田畑の耕作ができなくなる。】
⇒「百姓とゴマの油はしぼればしぼる程出る。」、「百姓は死なぬ様に、生きぬ様に」との農業政策を前田利常が採っていたのは有名でこの言葉は前田利常の統治思想としてよく引用される。
(※「加賀藩・富山藩の社会経済史研究」水島茂著→富山県史・福岡町史の編集委員)
(※「加賀藩史話」【微妙公夜話】:第三代前田利常)
■「富山県西利波郡 頭川村 年貢皆済目録」(※前田監物[3000石]からの年貢納入確認書)
(※小矢部川西岸の地域には60~75%、国吉郷頭川村には62%もの課税がされた。)
■当初は「全ての農地は領主のもの」と言う考え方で、納める米から差し引かれた分は何割か という考え方から税金の事を「免」と呼んだが、後には農民の生産した額から幾らを納めるかという考え方に変わり、「物成り」と呼んだと云う。しかし、当初の測量は縄や竹竿で測った為、いい加減な測量で「縄伸び」と呼んだ出目が大きく、その分農地面積が大きくなって重税に繋がるケースが多かった。その為に農民が自ら測量技術を学び正確な測量を期す必要があった。富山県では有名な「石黒信由」等に師事して測量術、和算を学ぶ十村役、肝煎、組合頭等の村役が多かった。平成26年に、重税に苦しんだ赤丸村の「組合頭」を勤めた「皆月家」からも和紙に書かれた測量図や和算の資料等が発見され、高岡市に寄贈された。
(※「加賀藩改作法の研究」坂井誠一、「福岡町史」、「舞谷村の昔むかし」参照)
■加賀藩は通常の諸係りの分担金の「万雑費」の他にも、赤丸、三日市村の住民には、県内の道路の築造、河川の改修、小矢部川の渡し場の船の築造と維持費、農産物の収集等の経費と労役を無償で負担させており、何度も各村の「十村役」や「肝煎」「組合頭」等の村役は加賀藩に減免の陳情書を提出している。加賀藩では特に富山県西部の「旧柴野城主寺嶋牛助」の所領の「五位庄」と能登に対して特別に重税を掛けた事が記録される。前田家の統治下で赤丸村は能登の名族「長九郎佐衞門」の知行地となっている。
(※富山県西部の「十村役」には、加賀藩から扶持を貰っていた「御扶持人十村の沢川村田畑兵衛」の下に「平十村の大滝村杉野家」「平十村の内島村五十嵐孫作」等が居た。)
(※「福岡町史」、「加賀藩農政史の研究」参照 )
■通常は八割を超す税負担は農民には耐えられない限度だが、このような課税の過酷さに加え、「十村断獄事件」と言われる隠し田の摘発と不正の密告による弾圧が行われ、五位庄立野村・国吉村の十村役五十嵐氏は投獄され、能登の能登島に流罪となり、獄死している。
藩政時代は村役も連座制で、関係者も「手鎖、入牢」の上、死罪も含む厳しい刑罰を課せられていた。加賀藩から各「十村役」や、「肝煎」には税金を示す「村御印」(奉書に区域の総石高や納税石高を記し公印を押した納税命令書)を交付して厳重に税金を納めさせた。生産性の低い十村役は交替させられ、百姓は追放された。百姓の追放は即、死を意味した。資産のある百姓は税が払えなければ財産や家族は売り払われ「水飲み百姓」、「頭振り」という「農奴」の身分に落とされた。赤丸村は加賀藩政期の初期には長い過去からの「吉岡庄」、「五位庄」の中心地として「赤丸組」で在ったが、加賀藩の厳しい「改作制度」に因って、赤丸組の十村役市エ衛門は「所払い」と言う追放刑に処せられ、後を継いだ弟の五衛門が十村役の下の「肝煎」となったが、「村御印」を紛失し、関係者が「手鎖、入牢」の上、厳しい取り調べが行われて、肝煎が亡くなった事が「高岡市福岡民俗資料館」の「十村役杉野家文書」に記載されている。これ等の事は、前田家恩顧の「高岡市」の資料や記録から見ると、単なる人事の交替や課税率の変更の経過を示す数字的データーでしか無いが、事実は人間の生死をかけた話しである。この事件の事実は、70%近い極めて過酷な税率を課された赤丸組の十村役の市エ衛門がその「村御印」に対して抵抗したか、否定的な態度をとった為に所払いの罰を受け、次いで弟の五右衛門が肝煎となった時にもこの税率を百姓に指示する事に消極で時間稼ぎの為にこの「村御印」を紛失したと称して隠した可能性もある。この家系は浅香年木氏の著作の「治承・寿永の内乱論序説」に拠れば、古くから小矢部市今石動(旧池田)や能越道高岡インター周辺の池田地区、氷見の池田地区等を開発した国人領主で、「源平盛衰記」で、木曽義仲を埴生八幡宮に案内した「池田次郎」の末裔ではないかと暗示されている。事実、この家の近くの赤丸城の周辺には「池田島」と言う地域が在り、「石堤村史」にも麻生谷地区を開発した事が記載されている。この家には加賀藩の奥村家から嫁が嫁ぎ、持参の「冑仏」が今も仏壇に祀られている。この家は1000年頃に高岡市の中心地の駅南地区を所有し、現在の総持寺の敷地はその寄進に拠るものと伝わる。又、代々、総持寺の門徒総代を勤め、相当の寄進を重ねてきた家系とも伝わる。この家には、この総持寺の千手観音像の胎内仏と伝わる鎌倉時代の僧形の仏像が仏壇に祀られている。更に、かつて高岡市福田地区に在った「イバラの宮」はこの家の持ち宮で、現在もその遺跡の一部が保管されている。この「イバラの宮」は福田の「荊原神社」の事ではないかと思われ、この神社が現在地に動く前に何処に在ったのかハツキリ伝わっていないらしいが、この池田家にはその神社の旧地の古びた写真も残されている。
歴史家の「歴史観」も、冷静な歴史的経過の一コマとしてしか認識されず、「加賀藩の報復」であった「事実」を認識していない者が多い。この加賀藩の封建領主としての過酷な占領政策は、過酷な刑罰に拠る血の制裁で民の口が塞がれた事で暗闇に封印され、歴史的には「加賀藩」の繁栄と兼六園、華麗な金箔や友禅等の文化等のみが喧伝され、金沢城、富山城、高岡城等の城郭に加賀藩の威勢が誇張されて、高岡市では前田利家から下賜された華麗な「曳き山」や「国宝瑞龍寺」、「漆器」、「金属工芸品」等が「加賀藩の善政」として伝えられる。しかし、その陰で幾多の領民が殺され、売られ、日常的に日々を生きる為に辺りの草を口にし、水をすすって生きた人々の涙や汗に触れる歴史家は少ない。又、歴史の真実も調べずに架空の想像で歴史を捏造している傾向が有り、以下の資料を見てもその背後の真実を察知できる人は少ない❗
■能登末森城で前田利家と戦った小矢部川西部分の住民は70%以上の過酷な税率を課されて苦しんだ ❗ ❗
■歴史から消え行く「赤丸組」の記録 ❗ ❗
■過酷な加賀藩の農政・税制
田圃は貞亨年間では一段歩(3OO歩✳石川県- 年代により変化有り)当たり、上上田(粗米8斗)上田(粗米7斗5升)中田(粗米6斗5升)下田(粗米5斗5升)下下田(粗米4斗5升)の基準が有リ、畑は7~8割で換算された。藩政時代の「石高」は中田を以て標準歩を定め、越中では草高一石当たり240歩(一段歩360歩当たり一石五斗高)、石川、河北、能登4郡では草高一石当たり200歩(一段歩300歩当たり一石五斗高)と定められていた。扶持米を以て「●●石大名」とか呼んだが、これは「分封高」と呼ばれた。石川県の標準の「中田」では一段歩当たり刈籾で二石六斗だが粗米にすると六斗五升になり、歩留まりは悪く、計算上は籾の収穫の五割を穫米(中田で計算したものを石高と呼ばれる。)として計算したので、殻付きで一段300歩当たり三石が穫米では一石五斗、租米(玄米)では京升で一石となる。当時は稲作技術が悪く、未熟米や割米等の「米」として認められない米の率が如何に多かったかが判る。又、代官米とも呼ばれた「口米」の制度が有り、一石当たり一斗前後の徴収手数料が認められていた。記録では、村役人や、米を検査、収納する係の不正も多く、計量時にわざとこぼした米は関係者の役得として横領されるケースもあった様だ。赤丸周辺の米は赤丸村領三日市の米蔵に収納された。
(※「加賀藩農政の研究」)
■当初は田の面積(古代では藁束何足という計算だった。)で知行していたが、後には稲籾の量で計算した。武士の知行高は籾の状態で「●●石大名」と呼ぶが、実質的には米にして1石の籾は半分の5斗の計算になり、更に精米やクズ米を引くと3斗から4斗になった。これから口米の一割、収納人夫賃等も引かれて地方の蔵に収納されたから、本当に豊かな階層はトップの僅かな人達であった。
農民は更にこの中から鍬、鎌等の道具、肥料、作業用具の費用等を引かれるから、もっと厳しい。
■加賀藩では、「村御印」で税額が決まっている為、税金・諸負担金や所定の米を供出できないと「拷問」や「刑罰」が与えられ、農地や道具、家財果ては娘を売りに出してまでも回収したと云う。(「小矢部市史」参照)
当時は「村御印」の税額を確保する為に十村役、肝煎、組合頭の村三役は年貢の払えない百姓に女、子供を売らせてでも年貢を徴収し、子供は銀二目(目は一両の1/60で、一両は約十万円)約3300円、成人の女は二十目、約33000円で10年の年季奉公に出され、俸給は年に米二斗~八斗とされたが、女の一般的な年五斗の奉公でもそれから衣類等の金額として米一斗三升が引かれ、残りは親が受け取った。奉公人は借金が嵩み、額が大きくなると妾奉公や女郎として女衒(ぜげん)の手で売買されて、実際には奉公の年季が明けない終身奴隷と成り、死ねばお寺に投げ込まれたり、川で自殺する等、悲惨な末路を辿った。川で自殺すると、その葬式費用は流れ着いた村の連帯で負担させられた為、村ではその費用負担を恐れたと云う。加賀藩では「頭振り」と呼ばれた無産の百姓が多く、日雇いや乞食(コジキ)と云われる物乞いで生活する極貧の百姓であった為、女、子供は幼児でも売られたと云う。加賀藩では貧しい下級武士達が内職でこれ等の子女を買い集め、隠れて遊女屋を営み、藩に摘発されるとその女郎も連座して禁牢と成り、やがて奥能登へ流刑となった。加賀藩には「里子」と云われる刑罰があったが、この刑罰に準じてこれ等の女郎は「御預け遊女」と呼ばれて中流以下の百姓に預けられ、苛酷な労働を強いられたと云う。身受け百姓がいない場合は肝煎が預り、百姓は遊女を勝手に使役しその生活費の月銀八十目は村から支給された。この「御預け遊女」は流刑人で有り、奥能登二郡から出る事は許されず、中には百姓の妻になった者も居たが、結婚して流刑を解かれた途端に離婚して姿を消す者も有り、終身奴隷として亡くなった者も居た。(✳「加賀藩史話」若林喜三郎著)
■男子成人1人は一年に一石の米を食べるとされていたが(女子・子供や時間労働者は別に計算された。)、農民は春に稲籾を借り、収穫時に2割近くの利子を付けて籾を返却、地主に云われるままに小作料を支払い、肥料や農機具を買い、生活をしていたが、小物成と云う雑費の徴収や築城・土木工事の際の賦役負担も賄なわなくてはならず、米を食べるどころか雑穀やクズ米も食べられない農民は山中や河川敷のわずかな土地を耕作して芋や豆を栽培し、山菜や栗・柿・桑の実等の木の実で腹を満たして生き伸びるしか術はなかった。正に「水呑み百姓」と呼ばれた所以であり、「水しか食べる物が無く、飢饉が続くと小矢部川には上流から死体が流れ着く為、各村では死体の始末費用の負担を恐れて、長い竹竿で死体を下流に押し流した」と古老は語る。村外れの小矢部川沿いには「三昧 サンマイ」と呼ばれた野焼きする火葬場が有り、死体がよく流れ着く場所には供養の地蔵が建てられた。しかし加賀藩はこの悲惨な状況にもかかわらず、農民の密告で「隠し田」を摘発して死罪を含む厳罰に処した。赤丸村の農民が移住した高岡市和田新村の十村役「和田佐助」は磔の極刑になったと伝える。又、労役に出られない者は「銀貨」を納めさせたと伝える。これも現金収入の無い庶民には大きな負担で、長男以外の者は商人・工業者への奉公、農業手伝い等で現金収入を得る必要が有り、当時、小矢部川流域に自生していた「破竹」や「菅」を用いた「菅笠」作りの内職は、農作業の必需品であるだけで無く、当時流行った「伊勢神宮」への「お陰参り」の必需品として全国に出荷されて加賀藩の財政を支える迄になったと云う。「お陰参り」では筆太に出身国の名前を書いた「菅笠」をかぶり、腰に「ワラジ」をぶらさげ、腰に「ひしゃく」を挿すスタイルが定番であった。「ひしゃく」は旅の途中で篤志家から路銀や食べ物を受け取る時に使用した。寛政年間から明治初め迄続いたこの習慣では全国から年間五百万人が伊勢神宮に参拝したと伝えるから、現在の参拝人数六百万人と比較して交通機関の無い時代に如何にスゴイ人数であったかが解る。この人数が往復で菅笠を使用するとすれば膨大な菅笠需要が有った事になる。現在も金沢市内には「笠舞」等の地名が残り、加賀藩の菅笠の集散地で有った名残を残している。現在ではこの「菅笠作り」は高岡市福岡町の「無形重要文化財」になっており、福岡歴史民俗資料館に関係の展示が行われている。平成26年の伊勢神宮の遷宮行事では「御神宝」の「御菅笠」の材料として唯一、福岡町産の「菅」が奉納されている。「御菅笠」は天皇の宮中行事で使用され、「菅」は同時に使用される「サシバ 別名大扇」にも使用されている。古代の習俗で貴人に付き人が大きな団扇で日陰を作っているが、それが「サシバ 別名大扇」で有る。
■明治に入り自由が叫ばれると、それ迄、圧政に加担していた七軒百姓と呼ばれた大百姓は次々と赤丸村を去り、その時に地域の古い記録も破却されてしまったと云う。
(✳「加賀藩農政史考」国書刊行会発行参照)
■寛永年間から畑を田圃に変える「畠直新開」や、小矢部川流域等の加賀藩の鷹狩場を田圃に変える「御鷹場新開」等が行われ、石高の増産が図られた。「向野新開」は福岡町の無形重要文化財になっている「菅笠」を伊勢から伝えた「大野源作」の子孫の「大野次兵衛」が開発し「次兵衛島」と呼ばれた「御鷹場新開」で、現在も子孫(25代目)の一族が赤丸村向野に住んでいる。石堤の「助九郎」が開いた「向野新開」は「助九郎島」と呼ばれ、現在の向野と石堤の農地に成り、助九郎は当初は向野に邸を構えたが、その後、石堤浅井神社の隣地に邸を移した。現在、石堤に多く在る「山本」という一族は「スケクロサ」と呼ばれる。「向野新村」はこの「次兵衛島」と「助九郎島」を合わせて村建てされた事が高岡法務局の「古図面」から解る。一方、前田家の占領地となった赤丸村西部の小作人は殆どが「頭振り」と呼ばれた無産階級になり、高岡市内の「和田新村」の新地開発に移住させられて開発に駆り出された。和田新村は和田の朝日山善宗寺(赤丸村朝日山長善寺を分割し、朝日山善宗寺、福岡町の長安寺と3つに分割した。)と共に赤丸村西部の真宗門徒を移して村建てしている。「和田新村」も貧困で悲惨を極め、和田新村を開いた「和田佐助」も村人を救う為に「隠し田」を耕作したとして加賀藩に捕縛されて「磔の刑」で刑死している。現在も和田の「神明社」に墓が有り、毎年、高岡市和田では「和田佐助」を偲んで、家々に「佐助の肖像」を書いた行灯を掲げている。正に非道、悪逆の加賀藩政である。これが「高岡市」が現在、賛美している加賀藩の実態だった。
(✳「城端別院善徳寺文書」富山県立公文書館所蔵、「和田善宗寺文書」の「和田佐助寄進状」)
■柴野城城主「寺島牛之助」は守山城の「神保氏張」に従い、当初、上杉謙信と戦ったが、敗れて後は神保氏張と共に上杉謙信に従い、上杉謙信から「五位庄安堵状」を授けられ、上杉家家臣名簿にも掲載されている。後に、佐々成政が越中を支配すると寺島牛之助は神保氏張と共に佐々軍に加わり、能登末森城で前田利家と戦った。佐々成政が従った織田信長の妹が神保氏張に嫁いでおり、佐々成政の娘が神保氏張の嫡男の妻であったと云う。佐々成政が豊臣秀吉に降伏し、後に九州に転封されると寺島牛之助は前田家に仕官して高岡開町時の家臣名簿にも載せられている。「二上山研究4号」に拠ると寺島牛之助と小島甚助兄弟は高岡市伏木の勝興寺の周囲に屋敷を構えていたと云う。又、寺島氏の一部は庄川沿川に領地をもらったが後に庄川が氾濫した為、赤丸村と石動町に領地替えされたと云う。赤丸村には現在も数軒の寺島家が残っている。寺嶋家は「三九郎家」と呼ばれ、藩政時代にはキリシタンを見張る「宗門改め役」を勤め、馬で郡内を巡視して監視と摘発を職分としており、赤丸村の浅井神社近くの山中には「三九郎三昧」と呼ばれる寺嶋家専用の火葬場と墓所があったと云う。
寺島牛之助の子孫は「寺島蔵人」と云い、高岡町奉行、算用場奉行等を歴任した。寺島蔵人は加賀藩の十村断獄事件等の圧政に異議を唱え、第十三代前田齋泰にうとまれて能登島に配流されそこで亡くなっている。元、寺島氏が所領とした五位庄の十村役五十嵐氏も密告により隠し田の疑いで能登島に流されそこで獄死している。寺島蔵人としては寺島家が所領とした五位庄の民が圧迫されいる事に義憤を感じていたものか?
十村断獄事件は農民に「隠し田」を耕作している者を密告させてその責任者の十村役、肝煎、組合頭という三役も厳罰にした。元禄十年、能登鹿島郡の十村は密告により処分され、十村役勘七は磔の極刑、肝煎、組合頭は首を切り獄門台にその首をさらされた。疑いが有るというだけで無実の十村役も能登島に島流しの刑となり、数人は獄死している。当時は罪人を石川県の能登島か富山県の五箇山に流した。民衆を弾圧して税を搾り取るだけではなく、道路造り等の土木工事や、米の集荷等の諸役も各村に割り付け、役人は米の検査の時にはワザとこぼして之を役得とする。加賀藩は莫大な借金を作っているにも関わらず、御殿を造営し、財政を顧みない。しかも民衆には着るもの、食べるもの、住居にも細かい規則を設け正に「百姓は生かさず殺さず」の政策を取っている。民衆は各寺院の門徒として管理し、婚姻、移動等も全て村役、寺院の了解と藩への届け出を必要とした。一方、加賀藩主は黄金に飾られた豪華な建物、衣装、道具を作らせ、有力な寺院を縁組や寄付行為等で懐柔して越中や能登の民衆からは徹底的に搾り取ったと云う。元々、民衆を救う為に各宗派の開祖は宗派を開いているが、加賀藩の時代には北陸で有力な浄土真宗寺院等は民衆を抑圧する為の加賀藩の傀儡と成った。「高岡市」では、現在でも加賀藩ゆかりの寺院に多額の資金を投入して、何処の国の都市かと見まがうほどの「時代錯誤」がまかり通っている。
■「加賀藩の刑罰」
加賀藩では磔、梟首(獄門✳さらし首)、刎首(斬罪)、禁牢、流刑、追放等が有り、犯罪者は市街地を引き回され、未決中は禁牢、預(主人、親類、町内)、徘徊止め等の処分が有って、高岡町奉行は刑事、民事で禁牢以下の閉戸、追い込み、遠慮、指扣等の処分を行い、これ以上の処分は公事場へ移送された。窃盗犯罪は出所時に刺青を行い、三回窃盗を行えば死罪になった。又、死刑の刑罰には「家財没収」が行われ、金銀、家財、農機具、衣類に至る迄全て没収され、磔になった者の息ち子は斬罪、梟首(獄門✳さらし首)になった者の息子は助けられた者もあったが親の罪の内容によってはその子も見せしめの為に刎首(斬罪)になった者もあった。又、親に連座して死刑になる場合もあったが、逆に親の代わりに刑罰を受けたいと申し入れた子については、孝行に免じて父親と息子が共に赦免されたケースもあったと云う。殺人、火付け、盗賊の他、直訴、反乱、貨幣偽造等は死罪、政治犯は切腹、磔、斬首の他、能登島、五箇山への流刑が行われた。高山右近が高岡城築城の時に前田家に仕官していた為に加賀藩では右近が海外に追放された後もキリシタンが多く、加賀藩では孫、子の代に至る迄も監視が続けられて、キリシタンが死んだ場合は役人が許可する迄遺骸を塩漬けにして保管させた場合もあった様だ。加賀藩では多くの者が処刑され、「高岡史料」(昭和47年高岡市役所発行)には「処刑せられし者、枚挙に遑あらず」と加賀藩の圧政を記録している。
(✳「指扣」は「差し控え」と呼ぶ)
●「富山藩の拷問」
責め道具、木馬責め(三角の木製の馬の背に座らせ股を責める。)、切石抱かせ(正座した膝の上に大きな切石を何枚も載せる。)、羽がえ釣り、逆釣り、鮟鱇釣り、塩転がし、箒木責め、塩責め→死罪(磔、獄門)、永牢、追放、追込、役義差除、減知行(※「富山藩」坂井誠一著)
◆【加賀藩高岡町奉行寺島蔵人と越中諸将】
「上杉謙信」は「柴野城主寺島牛介(高岡市柴野)」に【五位庄安堵状】を授けた。「上杉謙信」の家臣名簿に「守山城主神保氏張」、「柴野城主寺島牛介」等の越中の城主の名前が有る。「寺島牛介」の子孫は「寺島蔵人」(※原家からの養子)で高岡町奉行、算用場奉行等を歴任したが、加賀藩第十三代前田斉泰により能登島に島流しにされてその地で亡くなった。
▼吉江織部は上杉謙信の家臣で魚津城城主。名簿には「越中木舟城主石黒左近」や寺島牛介の兄弟の「小島甚助」等の越中諸将の名前も有る。
■加賀藩の収奪に喘いだ富山県の小矢部川西部、とりわけ、中世迄皇室直轄庄園「吉岡庄」として栄えた富山県西部の中心地「赤丸村」は、浅井神社48坊等の寺社施設の高岡市街地移転、住民の強制移転により原野となり、次いで合併した福岡町も学校、警察、金融機関等を全て赤丸村から撤去して、若者の住めない辺地にしてしまった。そして現在は、「中心市街地活性化法」という悪法を楯にして周辺区域が抹殺され、高岡市合併後は「赤丸村」は地図からも消された様だ❗
💢小学校、幼稚園、保育園、警察、金融機関等の全ての公共施設が廃棄され、ゴーストタウンへの道を歩む ❗
💢「まぼろしの村々」(室井浩一著)に掲載された「赤丸村の古代」
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