実家では、母娘の二匹の猫がいました。
娘猫は仔を産んでもお乳だけはやりに来ましたが後は完全に育児放棄。
母猫が世話をしてました。
娘猫はその調子の良さで甘え上手。
父の大のお気に入りでした。
そして、母猫は私に懐いてくれてました。
10数年間を私の部屋で暮らしていました。
辛くて泣いていれば、ずっと寄り添ってくれていました。
私にとってこの子が母親でした。(今も遺毛を持ってます)
なので、例え他所の猫でも苦難を放っておけません。
恩返しなのです。
そして、私には空想癖がありました。
ブログネームのふらんと言うのは、空想上の私の足長おじさんの名前です。
「君は一人じゃない。いつも見守っているから負けるんじゃない」
いじめと言うのは理不尽で孤独を痛感させられるものです。
世間体を気にする両親はいじめに合うのは恥ずかしい事とし、
「そんな事をされるのはアンタがちゃんとしてないからや 。」
知られれば怒られました。
だから、親には隠します。
ふらん(フラン)は長い間私の中に居て支えてくれてました。
(日系フランス人です。日本語名の他にフランソワと言う通称名がありました。
いかにも少女が思いつきそうな設定でしょ。ベルばらがドンピシャの世代ですから)
いじめを肯定するつもりは全くありませんが、大人になってもいじめが続いたことで、
自分の内側にあるどす黒いものに目を向けられるきっかけになりました。
私の心は、自信のなさで一杯で、 妬みと僻みと惨めさがそれを覆っていました。
それは表面を取り繕っても、にじみ出てくるのです。
人は異端の者を排除したくなるようですから…。
では、何故そうなったか、となると成育歴と考えずにはいられませんでした。
それに気づいた所で対処法はなかったのですが。
だけど、親になる自信が無いどころか、子供を愛せるかどうかも解らなかった私が、
産まれてきた長男を抱いた時に、それまでのマタニティブルーがさっと晴れ、
何があってもこの子を守る、
そう思えたのです。
私は自分の両親を完全に反面教師にして子育てをしました。
親になったら親の苦労が解る、と言いますが、どんな苦労があったのか!
と、私は言いたいです。
少なくとも子供に対して、お前みたい殺してやる、とか、産まなければ良かった(これは母)
などと思った事は一度もありません。
そして、私もそんな風に言われる程、親を困らせたこともありません。
子供がいなくなればいい、そう思うような事って一瞬だってないですよ。
長男には、私に叱られた記憶がない。と言って貰ってます。
叱ってないはずはないけれど、心に傷跡を残すような叱り方をしなかった、
と思っていいんじゃないか、と嬉しかったです。
一度だけ、ぐずる次男にイライラして、怒鳴った事があります。
(心のどこかにそうしたらスッとするんじゃないかと思ってました。)
そしたら、次男はポロポロ涙を流しました。それを見た途端、胸が締め付けられました。
「お母さんが悪かった。あんたにも言い分はあるんよね。ゴメンね。」
私も泣いて謝りました。
反面教師にした、と言うのは今、結果として思っているだけで、当時の私は、
周囲に惑わされたり、しつけだの、将来を危うんで、心配の余りにガミガミ叱る親よりも、
自由にさせて、いつもヘラヘラ笑っている母ちゃんのほうが子供にはずっといいんじゃないか、
そう思ってました。
欲しがる物は何でも買ってあげました。
欲しがらなくても、(男の子だから服には疎かった)流行の服や靴を揃えました。
たかがお金で幸福感やプライドが買えるなら安い物だ。
そう思ってましたよ。
私自身は今着ているフリースも20年物ですが、
私自身が働いて得たお金は全部子供に投資しました。
お陰で、今、親はすってんてんです。(笑)
長男をひどいアトピーに産んでしまったのは自分の認識不足で今でも申し訳なく思ってますが、
それ以外は大きな問題も無く、幸せに子育てをさせてもらいました。
あとは、最後までいい母さんでいられるか、です。
今は病弱のくせに、飲んだくれて掃除もしないで、猫ばかりにかまっている頼りない母ちゃんですが、
そのせいか、子供達も急に大人になってくれました。
長くなりついでに、最後に言っておきたいのは、
私の両親はともに、不幸な育ち方をしています。
父はお妾さんの子で、母は産まれた時に里子に出されています。
間に戦争を挟んでいるので話しは余計悲惨になります。
戦後、父の母に当たる人は父を旦那(私から言うと祖父)に押し付けて去って行きました。
同じく、戦後、母の方も里親に放棄され、たらい回しにあってます。(両方が10歳前後)
父も母も、普通の家庭を知らずに育ったのです。
外面を取り繕うのに精一杯で、家の中でしか感情が出せなかったのかもしれません。
母は、言い訳のつもりだったのか、こう言った昔話を私によく聞かせました。
話しの締めくくりには、
「アンタには産まれながらに家があり、両親が揃っているだけで、私よりずっと幸せ者や」
必ず言いました。
幼い私は頷くしかなかったのです。
虐待の連鎖と言う言葉があります。
両親には同情をします。
でも、そのつけを子供に払わせるのこそ虐待の連鎖ではないでしょうか。
この言葉を知る前に気づけた私は良かったんです。
いじめられた甲斐がありました。
そして、男の子しか産めなかったのも幸いしました。
母は、兄には優しかったです。小学生の間、ずっと兄の時間割を母がしてましたから。
兄の筆箱には、いつも長い鉛筆が揃い、持ちにくくなったと思うと私がお下がりとして貰えました。
女の子を産んでたら、理性では抑え切れず、母と同じ事をしていたかもしれません。

1999年が初版の本です。
私は38歳です。

笑ってしまうくらい両親に当てはまってしまいます。
この本の結論は、そんな親は子供の方から勘当してしまえー!ですが、
出会うのが遅すぎました。
気丈に生きてきた私ですが、50歳でガンになり、義父母の世話を余儀なくされて、
ついに折れてしまいました。
鬱を心の風邪と言う人もいますが、心の骨折と言う人もいます。
私は心の骨折と言う表現の方が正しいと思います。
長い間、背負ってきた重りに耐えかねて、ですから、超複雑骨折ですよ。
この本の中に、親が死んでも勘当は出来る。それは、墓に行って罵ってくることだ、
と書かれています。
私は毎月2度母と墓参りに行ってます。
いい娘ぶってて、こっそり罵りに行く気にはなれません。
今回、ブログに書かせて貰ったことで、心理上の線引きになればと期待してます。
長い文章にお付き合い下さって、本当に有難うございました。
これからはストレスフリーを目指してやって行きたいと思います。
私は空想癖はありますが、ブログには事実しか書いてません。
私の足長おじさんは亡くなりました。
私より10歳年上の設定で、当時13歳の小娘に23歳は凄い大人でした。
でも、彼の老醜を見たくなくて、飛行機事故で。
なのに、今でも若かりし頃の彼を夢で見ます。
とても幸せな夢です。


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娘猫は仔を産んでもお乳だけはやりに来ましたが後は完全に育児放棄。
母猫が世話をしてました。
娘猫はその調子の良さで甘え上手。
父の大のお気に入りでした。
そして、母猫は私に懐いてくれてました。
10数年間を私の部屋で暮らしていました。
辛くて泣いていれば、ずっと寄り添ってくれていました。
私にとってこの子が母親でした。(今も遺毛を持ってます)
なので、例え他所の猫でも苦難を放っておけません。
恩返しなのです。
そして、私には空想癖がありました。
ブログネームのふらんと言うのは、空想上の私の足長おじさんの名前です。
「君は一人じゃない。いつも見守っているから負けるんじゃない」
いじめと言うのは理不尽で孤独を痛感させられるものです。
世間体を気にする両親はいじめに合うのは恥ずかしい事とし、
「そんな事をされるのはアンタがちゃんとしてないからや 。」
知られれば怒られました。
だから、親には隠します。
ふらん(フラン)は長い間私の中に居て支えてくれてました。
(日系フランス人です。日本語名の他にフランソワと言う通称名がありました。
いかにも少女が思いつきそうな設定でしょ。ベルばらがドンピシャの世代ですから)
いじめを肯定するつもりは全くありませんが、大人になってもいじめが続いたことで、
自分の内側にあるどす黒いものに目を向けられるきっかけになりました。
私の心は、自信のなさで一杯で、 妬みと僻みと惨めさがそれを覆っていました。
それは表面を取り繕っても、にじみ出てくるのです。
人は異端の者を排除したくなるようですから…。
では、何故そうなったか、となると成育歴と考えずにはいられませんでした。
それに気づいた所で対処法はなかったのですが。
だけど、親になる自信が無いどころか、子供を愛せるかどうかも解らなかった私が、
産まれてきた長男を抱いた時に、それまでのマタニティブルーがさっと晴れ、
何があってもこの子を守る、
そう思えたのです。
私は自分の両親を完全に反面教師にして子育てをしました。
親になったら親の苦労が解る、と言いますが、どんな苦労があったのか!
と、私は言いたいです。
少なくとも子供に対して、お前みたい殺してやる、とか、産まなければ良かった(これは母)
などと思った事は一度もありません。
そして、私もそんな風に言われる程、親を困らせたこともありません。
子供がいなくなればいい、そう思うような事って一瞬だってないですよ。
長男には、私に叱られた記憶がない。と言って貰ってます。
叱ってないはずはないけれど、心に傷跡を残すような叱り方をしなかった、
と思っていいんじゃないか、と嬉しかったです。
一度だけ、ぐずる次男にイライラして、怒鳴った事があります。
(心のどこかにそうしたらスッとするんじゃないかと思ってました。)
そしたら、次男はポロポロ涙を流しました。それを見た途端、胸が締め付けられました。
「お母さんが悪かった。あんたにも言い分はあるんよね。ゴメンね。」
私も泣いて謝りました。
反面教師にした、と言うのは今、結果として思っているだけで、当時の私は、
周囲に惑わされたり、しつけだの、将来を危うんで、心配の余りにガミガミ叱る親よりも、
自由にさせて、いつもヘラヘラ笑っている母ちゃんのほうが子供にはずっといいんじゃないか、
そう思ってました。
欲しがる物は何でも買ってあげました。
欲しがらなくても、(男の子だから服には疎かった)流行の服や靴を揃えました。
たかがお金で幸福感やプライドが買えるなら安い物だ。
そう思ってましたよ。
私自身は今着ているフリースも20年物ですが、
私自身が働いて得たお金は全部子供に投資しました。
お陰で、今、親はすってんてんです。(笑)
長男をひどいアトピーに産んでしまったのは自分の認識不足で今でも申し訳なく思ってますが、
それ以外は大きな問題も無く、幸せに子育てをさせてもらいました。
あとは、最後までいい母さんでいられるか、です。
今は病弱のくせに、飲んだくれて掃除もしないで、猫ばかりにかまっている頼りない母ちゃんですが、
そのせいか、子供達も急に大人になってくれました。
長くなりついでに、最後に言っておきたいのは、
私の両親はともに、不幸な育ち方をしています。
父はお妾さんの子で、母は産まれた時に里子に出されています。
間に戦争を挟んでいるので話しは余計悲惨になります。
戦後、父の母に当たる人は父を旦那(私から言うと祖父)に押し付けて去って行きました。
同じく、戦後、母の方も里親に放棄され、たらい回しにあってます。(両方が10歳前後)
父も母も、普通の家庭を知らずに育ったのです。
外面を取り繕うのに精一杯で、家の中でしか感情が出せなかったのかもしれません。
母は、言い訳のつもりだったのか、こう言った昔話を私によく聞かせました。
話しの締めくくりには、
「アンタには産まれながらに家があり、両親が揃っているだけで、私よりずっと幸せ者や」
必ず言いました。
幼い私は頷くしかなかったのです。
虐待の連鎖と言う言葉があります。
両親には同情をします。
でも、そのつけを子供に払わせるのこそ虐待の連鎖ではないでしょうか。
この言葉を知る前に気づけた私は良かったんです。
いじめられた甲斐がありました。
そして、男の子しか産めなかったのも幸いしました。
母は、兄には優しかったです。小学生の間、ずっと兄の時間割を母がしてましたから。
兄の筆箱には、いつも長い鉛筆が揃い、持ちにくくなったと思うと私がお下がりとして貰えました。
女の子を産んでたら、理性では抑え切れず、母と同じ事をしていたかもしれません。
1999年が初版の本です。
私は38歳です。
笑ってしまうくらい両親に当てはまってしまいます。
この本の結論は、そんな親は子供の方から勘当してしまえー!ですが、
出会うのが遅すぎました。
気丈に生きてきた私ですが、50歳でガンになり、義父母の世話を余儀なくされて、
ついに折れてしまいました。
鬱を心の風邪と言う人もいますが、心の骨折と言う人もいます。
私は心の骨折と言う表現の方が正しいと思います。
長い間、背負ってきた重りに耐えかねて、ですから、超複雑骨折ですよ。
この本の中に、親が死んでも勘当は出来る。それは、墓に行って罵ってくることだ、
と書かれています。
私は毎月2度母と墓参りに行ってます。
いい娘ぶってて、こっそり罵りに行く気にはなれません。
今回、ブログに書かせて貰ったことで、心理上の線引きになればと期待してます。
長い文章にお付き合い下さって、本当に有難うございました。
これからはストレスフリーを目指してやって行きたいと思います。
私は空想癖はありますが、ブログには事実しか書いてません。
私の足長おじさんは亡くなりました。
私より10歳年上の設定で、当時13歳の小娘に23歳は凄い大人でした。
でも、彼の老醜を見たくなくて、飛行機事故で。
なのに、今でも若かりし頃の彼を夢で見ます。
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