ドナルドダックじゃない方

ハウス・ジャック・ビルトのドナルドダックじゃない方のレビュー・感想・評価

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
4.7
ジャックは家を建てたかった。だけどその家はいつまで建っても完成しない。作っては壊して作っては壊す。まるで「最後の言葉」を保留するが如く。どうも材質が気に入らないらしい。
なぜ材質なのか。ナチス・ドイツの軍需相&建築家であったアルバート・シュペールが提唱した「廃墟価値の理論」というものが劇中で引用されていた。
ジャックはいつかその家が崩れることは知っている。だから家が崩れても崩れた後に何かが残るようにしたかった。
これはなんのメタファーか。トリアーにとっての映画作りかもしれないし、ジャックにとっての人間関係かもしれない。「ぼくはぼくなりの方法で家族を作った」と言って、彼が例に挙げるのはどっかで引っかけた親子を無慈悲にぶっ殺したエピソードであった。死んだ家族は永遠にジャックの家族、それが彼の理論だった。殺して冷凍保存した子供の顔面を改造してずっと笑っているようにしてしまえば、永遠にハッピーな感じである。
しかしそんなものでは彼を殺人に駆り立てるなにかが満たされることはないから結局殺しは続くし家はいつまでも完成しない。
ジャックは子供の頃に見た雑草狩りの風景を夢想する。自然の中で自然のリズムに合わせて無心に労働に身を捧げる男たちがジャックの今を形作る原風景だ。
廃墟として価値を持つこと、とは建築物が人の手を離れて自然がその所有権を取り戻すことだろう。ジャックが地獄で垣間見た天国の風景はあの頃の自然だった。ナチスも自然回帰を志向していたし、自然にこそジャックの求める永遠があるんだろう。
だから建てるためというよりはむしろ、その建築は破壊され自然に還るための儀式なのである。自然回帰の願望はトリアーの作品群に通底するものだ。肉体は死んでも魂は死なないし、逆に肉体から解放されたら魂は自由になれるかもしれない。ジャックもトリアーも困ったことに極度のロマンティストなのであった。
俺が『ハウス・ジャック・ビルト』をおもしろく見られたのはトリアーの諦念が感じられたからでもあった。
権威や世間におもねらない鬼っ子トリアーも結局は鬼っ子キャラとして権威にも世間にも認められて取り込まれてしまった。そのポジションから何を繰り出そうとも、今はもはや少しの攻撃力も残ってない。残っているのは人々が求めるトリアー映画を生産する鬱映画製造マシーンとしてのトリアーだ。自然と繋がる芸術家の内発的な創作衝動はもうどこかに行ってしまったし、そもそも最初からそんなものがあったのかも疑わしい。

『ハウス・ジャック・ビルト』でトリアーはきっとそのことを受け入れたのだと思う。自分は自然に還ることはもうできない。自然に湧き上がるオリジナルな表現欲求もない。殺人鬼ジャックは様々な殺しをするが死体アートには創意がないし、その殺人のどれもが誰か他の殺人者の模倣に過ぎなかった。
そこにはトリアーの映画人生もなんとなく重なる。何を撮ってもトリアー映画だからの一言で(表面的なつまらない論争は一応呼びつつ)済まされて作品の本質的なところは相手にされなくなってしまった、芸術家に憧れる俗物映画監督の自虐と悲哀があった。
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