たとえ世界が終わるとしても君と一緒に居ることを僕は選ぶんだ的なセカイ系パッションは赤面と嘲笑待ったなしだとしてもそれはそれで美しいものだと俺は思いますよ。愛がどうのとかではなくてその個としての覚悟や無責任な意志の発露が美しい。
けれどもその美しさを、『天気の子』はホダカくんの決断を自然の定めと結びつけることでギッタギッタに弱めてしまう。
世界よりもヒナさんとのセカイを取ることを選んだからにはその代償だってあるはずだ。大雨と沈没でさんざん人も死んだでしょうからその被害、ちゃんと見せてくれたら良かったのに。あの老婆だって死んでいればよかった。自分の選択を現実として受け止めるために。
ぼくのせいでこんなに多くの犠牲者が出た。でもぼくはぼくの意志で彼女を選んだ。ホダカくんがその痛みを噛み締めることができないのであれば彼の決断の感動だって台無しじゃないですか。なんで定めだなんて言い訳を付けるんですか、映画的に。
といえば、そんなセカイ的な価値観は世界的には通用しないと新海誠を含むこの映画の作り手たちがよく知っていたからじゃないかと思う。日本は八百神の国だ、ずっとこうやって生きてきたんだ。そうとでも言っておけばセカイ系の臭みも取れて万人に受け入れられることだろう。
それ故にどこまでもコマーシャリズムに浸かった映画だ。保守思想がセカイ系やコマーシャリズムのATフィールドになることの好例として、たいへんきょうみぶかいものはありましたが。
既視感、見たことのある風景や聞いたことのある音、感じたことのある感覚や知っている物語の映画だったように思う。『天気の子』はみんなのための映画だ。みんなが知っているもの、知っているように感じられるものだけで構成された映画。だから安心してたのしめる。親しみも湧く。でもそれはたまらなく空虚な映画体験でもあった。