映画のタイトルになっている「靴ひも」、これは劇中で三度出てくるのですが認知能力を測るモノサシで、難しい靴ひも結びが自分でできればそれはその人が相応の認知能力を持っており一人で日常生活を送れるということ、これができないなら一人で暮らすのはちょっと難しいだろう、と判断されるわけですが、ガディさんは靴ひもテストをパスできなかった人でした。っていうんで補助必要。前は母親が一緒に暮らしていたが急に死んじゃったのでとりあえず入居可能な施設が見つかるまで母親とガディを捨てて出てった親父が保護者にさせられる。
なんせ一度は捨てたぐらいだしガディさん飯の主菜と副菜は皿分けてとかマッサージしてとか要求多いので親父はふざけんじゃねぇよって最初はなるんですが、一緒に暮らしたり一緒に障害者への世間の冷たい風を浴びたりしているうちに段々仲良くなってくる。まぁ何事も慣れですよ。障害者の枠に入れて外から眺めているうちは理解不能な別世界の他者でしかない人でも毎日同じ時間を過ごしてればこの人はこういう性格の人だからしょうがないくらいな感じで同じ世界の人としてフラットに見られるようになるというもんです。
この映画そこが良かったですね。直線的で劇的な関係性の変化っていうんじゃなくてもっとナチュラルで起伏のある関係性の変化が描かれていて。それはたとえばガディが働かされる整備工場には親父の右腕的な若者がいるんですが、こいつは親父の手前ガディを露骨に悪く扱うこともできないだろうってな事情があるにしても、結構ガディにやさしい。だけどガディのひどい歌を聴きながら障害者枠ならスター誕生的な番組に出れるなガハハっと笑ったりしてわりとバカにした感じでもある。
じゃあこの人が差別的な悪い人で、すみません私が悪かったですもうしませんと改心するかといったらそういうことはないしガディ含めて別にそれを求める人は出てこないんですよね。出てこないけれどもなんとなくの同じ時間を過ごすうちにやっぱりなんとなくバカにした態度もなくなってくるんですこの人は、段々と。でも、それは仲良しになるってことでもないんです。
他人ではなくなるけれどもこの若造とガディは友達になるわけじゃなくて、結局、当たり前のことなのですが、障害があろうがなかろうが社会に生きるすべての人間はそういう曖昧な関係性に生きているわけじゃないですか。自分以外の人を綺麗に敵と味方に分けることはできなくて、なんとなくの友敵グラデーションの中でなんとなくやってますよね。
そういうの地味に沁みましたね。長年の不摂生で臓器やられてた親父がドナー探して、でもやっぱ母親とガディ捨てた罪悪感があるからガディにドナーなってくれとは言えない、ところがガディの方は親父に死んで欲しくないからドナーなるよって言う、そしたらこいつ臓器提供の意味わかってねぇんじゃねぇか疑惑を臓器移植委員会的な人に持たれて意思確認のために例の靴ひもテストをさせられる…こう書けば実に泣ける感動作的な感じですが(実際クソ泣きますが)そうではないところっていうか、ガディのなんとなくの人間関係がなんとなくの感じで描かれていたのが。
なんか、キャラとしてじゃなくて人としてガディを見てくれてる気がするじゃないですか。ガディっていうか登場人物全員そうなんですよ。まぁ人間ろくでもないところもあればそう捨てたもんじゃないところもあって、良い人間とか悪い人間とか生産性があるとかないとかそんな簡単に測れるものではなくて、人生なんとなく流れていってその中でみんななんとなく変わったり変わらなかったりくっついたり離れたりするんですよ的な透徹した眼差しでガディを中心とした人間模様が描かれる。
最後のシーンなんか悲しいような喜ばしいような切ないような温かなような、なんかよくわからんのですけれども、まぁ人生そんなもんだろうというところで…そう思えば障害テーマとか病気テーマの映画というよりはもっと単純に人間の人生についての映画と言えるだろうし、で、単純に見えることの内実は靴ひもを結ぶことと同じようにたいへんで複雑なんだよね。