ドナルドダックじゃない方

たかが世界の終わりのドナルドダックじゃない方のレビュー・感想・評価

たかが世界の終わり(2016年製作の映画)
2.5
端的に言えばこれは自傷の物語であって、この家族は母親を除き誰もが自分の抱えている傷を見せびらかす。
前作の『Mommy/マミー』もそうだったのですがドラン映画を貫く政治力学というのは一言、弱い方が勝つ。これに尽きるわけで、だからこの家では誰がより傷ついているかのチキンレースが繰り広げられている。
それは乳児期の母子関係のアナロジーで、子供はただ泣くことしか外界に対する抵抗の手段を持たない弱い存在であるがために母親の全面的な庇護を受けることになる。この家には父親に相当する人間が存在せず、老いた母が犠牲的に中心で回っているというのは物語の上でも作劇上のテクニックとしても理に適っているわけです。
で、俺がめちゃくちゃ嫌だったのはそういう力学をですよ、そういう構造を、エモーションで糊塗して見えなくしてしまうドラン演出のある種のセコさ、そこですよそこ。
あの家の問題というのはつまりニーチェが奴隷道徳と呼んだようなものに支配されていて、そのルールの中でより弱くあるために(ということはより多くの権力を得るために)あえて外の世界に出て行かない=この家でしか生きていけないとの閉鎖性を誰もが進んで引き入れている、そのために新しい外部のルールを導入することが事実上不可能になってしまってただ自傷が自傷を呼ぶ構造的な悪循環にある。
これは主人公も例外ではなくて、外の世界に救いを求めることもできたのに結局はその場とその力学に囚われてしまっているというのが彼の本質的な悲劇のはず。悲劇というのは罪を負うことの悲劇で、血で血を洗う弱者の席取りゲームに身を投じている限り被害者は常に加害者であるし、そして加害者が被害者に転じようとする中でますます互いの傷は深くなっていく。こういう状況に主人公はいる。
ところがドランはさながら主人公を罪なき犠牲の羊として、兄を血に染まった暴君として、ある種の神話的な見せかけの中で個人の徳性の問題であるかのように情緒的に解決してしまう。いや解決しないのですが構造はなにも変わらないので。でもバッドエンドとはいえ解決した=セカイが終わった風には見えるという。
どうでしょうこれは、どうすかねこれ…。

まぁね、いまの世界のリアルを存分に焼き付けた傑作だともおもいます。なんの答えも出そうとしないという点でも完璧に今っぽい傑作だとおもいますよ。でもそれを無批判的に、エモーショナルに、ファッションの文脈で消費してしまっていいのかというのは思うわけで。
こういうのはちゃんといかがわしいものとか悪趣味なものとして理解しないとあぶないものなのではないかと思いました。
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