突然ですがモダニズム建築って俺そんなに惹かれないんですよね。もうそれ言っちゃったらなんで観たの?って話になりますけど、モダニズム建築おもしろくないんですよ。こう見ろ! って感じで。一応、6年間建築のことを学んできた上で強固にしてきた考え、偏見っちゃ偏見ですが。そういうモダニズムが志向したものが俺にはしっくり来ない。なんかね、見る側とか使う側に正しさを要求するんです。映画がじゃなくてモダニズム建築が。そこでは肉体的にも知性的にも均質な人間が利用者として想定されていて、むしろ利用者の側が建築の求める利用者像に合わせて諸々矯正していかないといけない。
この映画でさえも非常に正しくモダニズム建築をわかった人の目で建物を捉えてる。だからたとえばファサードをフィックスでしっかり撮ったりする。建築家がここを見てくれっていうポイントを的確に押えてくる。これがおもしろくない。
例えばル・コルビュジェの設計した国立西洋美術館に行ったりすると色んな斬新なアイデアが随所にはめ込まれてるわけじゃないですか。で、同時に、建物の保全と運用の両面からその斬新なアイデアが結局は使われることなく死んだ展示品と化してたりもするわけです。西美で言うと常設展入って吹き抜けのスロープ上がったところに大きな本道とは別に裏道みたいな小さな通路があって、そのどちらからもメイン展示室の回廊に入れる。
たぶんこれは自由な導線を志向したものだと思うんですが、小さい通路の方は接触事故を防ぐためか、今はロープ・パーテーションで塞がれちゃって通れない。台無しですよね。でもこういうところを見ると建物が生きてるなぁって気がして、美的には堕落だけれどもやっぱ心惹かれるんです。トマソン的なというかね。
それに完成品だけ見ればそれなりに調和が取れているように見える西美だって実際は相当な妥協の産物で、その設計図の変遷を見ればほとんどキメラといっていいような異様な美術館が現れる。俺は今の西美の建物を見たときよりもその破棄された設計図の数々を見たときの方が感動したし、コルビュジェはすごい人だったんだなぁって感じたのもその時だったんですよ。
だからこの映画を観ていて…やっぱわかんなかったな。ストーリーもわかんなかったですけど建物に向ける眼差しがわからなかった。結局そこなんですよね。わかるとかわからないとかっていうのは映画なんだから映像が提示する世界観がハマるかハマらないかっていうことで、俺はこの映画の、正しい建物を正しく撮ることに何の意味があるのかわからなかったし、それで何が面白いのかもわからなかった。そんなものはむしろ建築のアートとしての側面(仮定)を殺す行為なんじゃないかとすら思ってしまったな。