――その問いの「男」を「他者」と置き換えるとどのような回答になるのでしょうか。

鈴木:「男」にしろ「他者」にしろ、接近するということはわかり合えなさを感じるということです。そして、「わかり合う」ということが前提の議論は、他者に対しての寛容度は低いと思うんです。

男性でも女性でも「この人は私とは全く違う」と思う人、最近のわかりやすい例で言うと、自民党の重鎮の政治家のような人たちの差別的な発言に対して、当然女性たちは怒ります。そして怒りは、「分かり合える」という期待がなければ爆発しないように思います。

でも、「全くわからない」ところに他者がいるんだと思います。そして「全くわからない」という絶望を噛み締めて私は文章を書いてきました。わからない者に対して怒るだけでは社会は変わらないのではないかと。

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手に取りやすいフェミニズムを

――鈴木さんは「フェミニズムはカラフルなカーペットのようなもので、その糸は自分に接続されている」と表現し、フェミニズムを誰にとっても届きやすいものであって欲しいとしていますね。

鈴木:私自身は若い頃、フェミニズムをそれほど必要としていませんでした。むしろ、私たちの楽しさに水を差す、厄介なものだという意識すら持っていたこともあります。でも、25歳で夜の世界を一旦引退し、30歳をすぎ、35歳をすぎ、若い女の子ではなくなったとき、すっ飛ばしてきた議論が何を伝えたかったのか、考えるようになりました。かつて自分を価値ある存在に押し上げてくれていたその価値が手をすり抜けていった後、フェミニズムの議論は時に力になってくれます。

生きやすい時や楽しい時に無理にフェミニズムを意識する必要はないと思います。でも、かつて信じていなかったからといって、私のように若さという資本を謳歌して消費した女性たちが、そのまま距離を感じ続ける必要もない。かつて自分を生きやすく楽しくしていた武器が使えなくなった時に寄り掛かれるものであってもいいのではないかと。

生きづらくなった時に使えるものは何でもあった方がいい。女性学なので、女性にとっていつでもプラスになるものであって欲しいんです。

そして、フェミニズムと一口に言っても、ポルノグラフィーの自由を訴える人もいれば、女性の裸体の商品化自体を許さないという人もいます。身近な例だと専業主婦はダメだという人もいれば、専業主婦になる女の自由を謳うフェミニズムもある。女性たちが何に傷付いたかによって必要とされているフェミニズムは異なります

自分の若さや性的な価値と上手く付き合えない女性に役立つならそれでもいいし、加齢によるアイデンティティ・クライシスを迎えた人にとってそれが役立つならそれでもいい。

掴みたいのはそれぞれ違う糸であるし、その糸は広がっていて欲しいとも思います。フェミニズムはステレオタイプで誤解されることもありますが、もっと自由で可能性のあるものです。

SNS上では「こんなことを言っているからこの人の主張はフェミニズムではない」とその定義を厳格に求める人もいますが、定義付けによって救われるべき人の範囲が狭くなってしまうのはもったいない。属性に関係なく、誰もが手に取ることのできる開かれたものであって欲しいと思っています。