▼行間 ▼メニューバー
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

天正四年 隔世の感

190/190

千五百七十七年 六月上旬

とにかく時間を要した出陣とは対照的に、静子の帰還はあっさりとしたものだった。

元々期間が七日のみと定められており、途中で退場することが折り込み済みであったためか、戦後処理等を全て丸投げにして尾張へと帰投する。

本来であれば京に立ち寄って近衛前久(さきひさ)に報告をし、更には安土でも一泊して信長に謁見して報告をするべきなのだが、二人ともが静子の速やかな帰還を促したため電話での報告を済ませるのみで尾張へとたどり着いた。


「お帰りなさいませ静子様。諸々準備が整っておりますれば、まずは長旅の疲れをお流し下さい」


「ありがとう。お風呂が恋しかったところだから、早速頂かせてもらうね。留守中は変わり無かった?」


「特別にご報告差し上げねばならないようなことはございません」


留守を預かる彩の頼もしい言葉に安堵すると、静子は旅装を解いて風呂に浸かり、その間に準備されていた食事を取る。

食後のお茶を味わいつつ、深く息を吐き出してやっと自分の家に帰ってきたのだという実感がわいた。

自室に戻った静子は少々だらしないとは思いつつも、床に大の字に寝そべって思い切り手足を伸ばして天井を見上げた。

静子が全身を使って自宅の気楽さを堪能したころを見計らったかのように、小姓から来客を告げられる。


慌てて身繕いをした静子は、小姓に客を通すように返すと、それほど間を置かずに一人の男が穏やかな笑みを浮かべながら入ってきた。


此度(こたび)のご遠征まことにお疲れさまでした。調査の結果をご報告しても宜しいでしょうか?」


「ええ、構いません。お願いします」


静子に正対して座した男は、静子軍の諜報を一手に担う真田昌幸その人であった。彼はにこやかな表情のままにとんでもない爆弾発言を投下する。


「今回の騒動に於ける真の狙い、それは静子様の暗殺にあったようです」


「なるほど。矢面に出てこない私を引きずり出すため、教如に暴挙を起こさせたという訳ですか」


露骨に殺気を(にじ)ませる才蔵を静子が手で制しつつ、昌幸に続きを促した。彼は首肯すると今回の顛末を語りだす。


「従来五摂家の間にはそれほど大きな格差というものがなく、互いに絶妙な均衡を保っておりました。それが今や近衛家の完全な独り勝ち状態となり、他四家との間に明らかな格差が生まれております。また近衛家に近い鷹司家も影響力を伸ばしており、残る三家としては面白く無い状態となっています」


「それで近衛家が飛躍する端緒となった私を排除すると? 余りにも短絡的すぎますし、そもそも義父上を侮り過ぎです。確かに近衛家とは緊密な関係にありますが、たとえ私が命を落としたからと言って、その屋台骨が揺らぐようなことはありません」


近衛家は他の五摂家と異なり、静子の手掛けた産業に対して出資を行っており、確固とした経済基盤を築き上げている。

そこで得られた利益をさらに再投資して資金を増やし、今や公家の間では無くてはならない情報源となった『京便り』を発行するメディア王となった。

継続して利益を享受できる体制を構築し、かつこれまでに無い定期新聞による情報支配を勝ち得た近衛家は盤石だ。

この頃は軍備にも力を入れ始めた近衛家に隙は無く、直接的な暴力に訴えられても対処できる状況となっている。


「事前に掴んでいた情報では朝廷、()いては公家の復権を掲げていましたが、別口の交流手段を持っていたようで御身の暗殺を企てておりました」


「流石は権謀術数の渦巻く伏魔殿で生き抜いた方々ですね、我々はまんまと出し抜かれたという訳ですか。判り易い餌を目に付くところに置いて、本来の目的を隠すのは基本。しかし、彼らを出し抜いた気になっている我らには効果覿面(てきめん)でしたね。今後は気を引き締めて掛かりましょう。尤も彼らに『次』があればですが」


「はい、二条家当主の昭実(あきざね)は此度の騒動を画策したとして壱岐国(いきのくに)(現在の長崎県に属する離島。九州と対馬の間に位置する)へと島流しとなります。また九条家や一条家にも監査が入ることになり、二家の関与は証拠不十分(・・・・・)となる見込みです」


証拠不十分というのは表向きの物であり、当然のように前久は処罰に足りうる証拠を確保している。しかし五摂家の半数以上を巻き込んだ不祥事となれば、朝廷での力関係が一新されてしまい予測不可能な勢力の台頭を許しかねない。

そうした裏事情もあって九条家や一条家については意図的に見逃され、首謀者であった二条家のみにターゲットを絞っている。とは言え、お咎めなし等といったことは当然あり得ない。

九条家や一条家の持っていた各種利権や特権などの多くを取り上げられ、長きに亘って蓄財していた財産も吐き出させられている。その上に監査役という名のお目付け役が常駐することを飲まされていた。


流刑(るけい)ですか、それも壱岐とは随分遠いですね。天皇家とも縁戚関係にある五摂家の当主を死罪にする訳にはいきませんが、死罪よりも尚辛いと言われる流刑、それも西国の果てですから恩赦は無いのでしょうね」


「たとえ大赦(たいしゃ)があっても赦免されることは無いと言い含められての流刑となります。こうした場合、向かう途中で身包(みぐる)みを剥がされ辿りつけないこともあるのですが、足満殿が(こと)の外お怒りのようで精鋭を護衛に付けて送り届ける上に、壱岐国の有力者にも渡りをつけたそうです」


「足満おじさんは滅多なことで怒らないんだけれど……逆鱗(げきりん)に触れるような事をしたのかな? まあ、それは置いておくとして。三家は随分と大人しく沙汰を受け入れましたね」


「彼らも此度の一件で、我らの手が如何に長いかを思い知ったのでしょう。隠し事が通じないとなれば萎縮してしまうものですよ。捲土重来(けんどちょうらい)を期しての面従腹背ではあるのでしょうが、そう上手くは行きますまい。それにしても此度の本願寺攻めはお見事でございました。直々にお褒め頂いたと菊より聞き及んでおります」


「天の代理人たる帝に逆らうと、天罰が下るという事を知らしめることにはなったでしょう。上空からの攻撃があるという事が、常識の埒外(らちがい)だからこそ通じる一手です。何度も使える策ではありません」


(ちまた)でまことしやかに(ささや)かれる()では、日が姿を隠した暗中に天より劫火(ごうか)が降り注ぎ、水を掛けても消えぬ炎の壁となって一切合切の不浄を焼き払ったそうです」


都合の良いように噂を操作した張本人が抜け抜けと言い放つ。これは天罰であり、神仏に仕えるべき僧が天子に弓引くことがどのような結果を招くかを印象付けている。


「噂はそれで良いとして、教如たちが籠城を選んだ理由は判りましたか?」


「はい。元より石山本願寺は難攻不落の要害です。御身の助力を得られる期限を耐え忍べば、朝廷側より和睦の申し入れがある手筈だったようです」


武田を破った立役者たる静子をして落とせないのであれば、長期化するほどに戦費が重く伸し掛かることから帝を説得して和睦に同意させることも難しくはない。

本来籠城というのは援軍が来る当てがあって成り立つ戦法なのだが、僅か七日間を耐え忍べば良いのであれば十分に分の良い賭けである。


「先ほど齎された報告によりますと、教如たちは補給の用意すらなく持ち込んだ物資のみで耐える手筈だったようです。期限ありきで戦闘にも消極的であれば、十分に凌げる見込みだったのでしょう」


「如何に情報伝達が遅いとはいえ、そろそろ我が軍に対して城壁がそれほど堅固な防壁となり得ないことぐらい伝わりそうなものですが、彼らは情報収集を怠ったのでしょうね。二条家からすれば七日間さえ教如が耐えてくれれば、和睦はならずとも良かったのでしょう。食糧すらない懐事情は知られているわけですし、如何様にも料理できますね。知らぬは教如ばかりなりと言うわけですか……」


哀れですね、と静子は小さく呟いた。







後に『本願寺の乱』と呼ばれることとなる騒動は一段落した。戦後処理については信長と前久が請け負ってくれているため、静子は再び後方支援を総括することとなる。

因みにかつて信長が認めたように、宗教としての本願寺派は存続を許されているのだが、今回の騒動によって信徒は大きく二つに分かれることになった。

即ち顕如及び下間(しもつま)頼廉(らいれん)が率いる信長に従い政治的野心を放棄し、積極的な拡大政策をとらない西本願寺派が一つ。教如が唱えた思想に共感し、今は状況が悪いため雌伏しているが、いずれはかつての栄光を取り戻さんとする東本願寺派である。

しかし、今回の『本願寺の乱』が信徒に与えた影響は大きく、大多数が西本願寺派となり東本願寺派は少数の過激派が集う先鋭的な組織となった。

これに対して信長は本願寺そのものに対して既に興味を失っていた。政治に対して色気を出さないのであれば、二つに割れようが三つに割れようが構わない。

お目こぼしの範疇を超えた途端に、徹底的に弾圧すれば良いというのが彼のスタンスだ。武装勢力としての本願寺が潰えたことで、長く争い続けた織田家と石山本願寺との対立に終止符が打たれることとなる。

これによって朝廷を近衛家が主体となって掌握し、畿内に於ける織田家の支配は盤石なものとなった。


「とりあえず中央は押さえたけれど、西にも東にも課題が残るね。毛利を何とかしないと九州なんて、とてもとても」


「毛利も随分と粘ってはいるが、徐々に押されているようだな」


自室に備え付けた書棚を整理しながら呟いた静子の言葉に、居合わせた長可が軽い口調で応じる。日ノ本の勢力図は着々と織田家の色に染められている状況だ。

西国最大にして最後の大国と言われる毛利家も明らかに旗色が悪い。如何に強固な支配体制を築き、数多くの勇猛果敢な将兵を抱えていようとも、それだけでは今の織田家には抗しきれない。

現時点で積極的に毛利征伐に関与しているのは秀吉軍のみだが、これに対抗するために毛利は全軍で当たっている状態だ。毛利には余力が少ないが、織田軍には第二第三の矢を放つ用意がある。


「毛利家は配下の国人同士がそれぞれに力を持っていて、それらの意見を纏める合議制を取っている。でも、事態がここまで逼迫(ひっぱく)してくると上意(じょうい)下達(かたつ)で無いと対応が間に合わないのよ。乱世が終わり、いくさが遠くなれば合議制でも良いのだけれど」


「そんなものか」


「興味なさそうね、勝蔵君は」


「俺に政治的手腕を期待する方が悪い。そもそも森家は兄が継ぐのだ、弟の俺が政治に明るいとなれば良からぬ欲をかく輩も出てくるだろう」


「確かにそうね。上様の覚えが目出度く、色々な意味(・・・・・)で有名な君が政治に口を出せば、森家に火種を生むことになる気がするね」


「だろう? だから俺は政治に興味を持たず、兄貴の矛であれば良いのだ。兄貴が頭で俺は腕だ。それで良い」


「随分と勝手に動く腕だけれどね」


そう言って静子が苦笑していると、開け放たれた戸を叩く音がする。


「何やら楽しそうなところ悪いんだが、少しいいかい?」


静子と長可の会話に割り込んできたのは慶次であった。普段は会話が途切れた頃合いを見計らって声を掛ける慶次が割って入ってくるほどだ、緊急の要件なのかと思った静子は慶次へと向き直る。


「実は四六が角力(すもう)をやりたいと言い出してな。流石に本気で取り組むとなると怪我もするし、気を付けていても万が一の事があるからな。先に断っておこうかと……」


「制止するという選択肢は無いのですね?」


「俺がやらすのならまだしも、四六が自ら望んだことだ。それを危険だからという理由だけで静っちは止めないだろう?」


からかい混じりの静子の問いに慶次が見事に返してみせる。四六も元服を迎え、己の事は己で判断していかねばならない。親である静子がいちいち口を挟んでいては、彼の成長を阻害することとなる。

明らかに四六にとって害悪となるならば止めもするが、危険を認識した上でそれでも尚やりたいと思ったのであれば、安全対策を講じはしても止めることはしない。


「頸椎、首から頭にかけての大怪我だけはしないように気を付けてくださいね」


「ああ。四六次第ではあるが、加減が出来る者と取り組ませるし、最初は俺が胸を貸すからな」


了承を得た慶次は、軽く己の胸を叩いて静子の部屋を後にした。個人の武勇がそれほど重要とされない時代を前にして、四六が何を思って角力をしたいと考えたのかに静子は思いを馳せる。

しかし、女である自分には理解しづらい男の世界も有ろうと納得する。上下関係を超えた体のぶつかり合いで育まれる関係性もあるのかもしれない。そう思い直した静子は、目の前の仕事に立ち戻った。


「……何処でも食糧難が問題になっているね」


「毛利か?」


静子の部屋に置かれている各国の戦況を示した模型を動かしながら長可が問いかける。静子の許には兵站に関するあらゆる情報が集まってくる。

この処、動きが少なくなっている北条に対し、毛利に関する報告書は数倍に達する勢いで届けられていた。これは北条に関する情報を軽視しているのではなく、北条全体が機能不全を起こしており、報告すべき事象が少なく活動事態が緩慢になってきているためであった。

これに対して毛利は活発に動き回っていた。現時点での最前線は秀吉軍が攻めている強固な守りを持つ鳥取城となり、火砲を扱える兵のいない秀吉軍はこれに手を焼かされていた。

鳥取城を預かる城主は吉川(きっかわ)経家(つねいえ)であり、文武両道の優れた人物である。彼が鳥取城の城番を任されるに際して与えられた恩給は六百石の加増であり、死地へ向かうことを思えば(いささ)か心許ない。

しかし、領地経営に行き詰まり領土問題でも紛糾していた吉川はこれを承諾する。そして手勢の家臣数百名を従えて鳥取城に入った吉川は、たちまち問題に直面した。

それは城内に備蓄されていた兵糧が彼の予想を超えて少なかったことである。これでは籠城はおろか、兵を維持するのもままならないと焦った吉川が兵糧米を集めるよう配下に命ずるも、付近一帯は不作続きで思うように米が集まらなかった。

軍需物資の根幹である米が足りないのだから、矢玉や武具などは推して知るべしである。軍馬も多くは売り払われたのか、最低限の伝令を除けば騎馬隊を編成することすら出来ない有様だ。


「供給不足であるため米を売れば軍備は手に入る。代わりにただでさえ少ない米が底をついてしまう。しかし、吉川には秀吉軍が十月には撤退するであろうと言う目算があったの」


「例年通りであれば十月には初雪が降る。そのまま雪が降り続けば、秀吉軍とて兵を引かざるを得ない。静子の良く言う『希望的観測』って奴だな。愚かなり、天候が人の思うままになるはずが無かろう」


「朝廷が所持している資料や、間者たちにも調べて貰った結果を総合すると、ここ数年は十月頃には雪が降り始めていたそうよ。『二度あることは三度ある』って言うし、期待する気持ちも判るんだけどね。逆に『三度目の正直』って言葉もあるんだけどね」


「となれば、勝利を左右する要因は夏の終わりの収穫時期だな」


収穫された米を手に入れられれば、多少降雪が前後しても鳥取城側の粘り勝ちが見えてくる。逆にそれまでに鳥取城を落とせれば秀吉軍の勝利となる。

兵糧の備蓄に心配がなくなった鳥取城を、秀吉軍だけで攻略できると静子は思わない。元より地の利は相手にあり、更に時間的制限まで加われば焦って損害が増えるというものだろう。


「毛利家からの援軍が期待できない状況で、吉川が無理に打って出るとは思えない。鳥取城は天然の要塞だから、亀のように守りを固めていれば負けは無い」


「羽柴殿というか軍全体が、容易に常識外の戦果を挙げてしまう砲兵を嫌うからな。突破力に欠く状態では守りが崩せない。如何に羽柴殿の軍が勇猛だろうと、所詮人は雪には勝てない。積雪によって退路を断たれる前に退却せねば、全滅すらありうるだろう」


「そうね。故にこちらが取る手段は――」


「兵糧攻め」


静子と長可の言葉が期せずして重なった。兵糧攻めは読んで字の如く、敵の兵糧補給を断って飢えによる自滅を待つ戦法だ。

史実に於いても秀吉が取った『鳥取の(かつ)(ごろ)し』は有名であり。極限状態におかれた兵士たちは仲間の死体すら口にする飢餓地獄に陥ったという。

この時の秀吉も同様の思考を辿っており、後に控える毛利の本城、吉田(よしだ)郡山(こおりやま)城を考えれば多くの損害は許容できない。何より無駄な力押しを信長から禁じられており、秀吉の取りうる手段は少なかった。


「早い段階から兵糧の買い占めをすれば、相手に悟られて救援を呼ばれてしまう。逆に遅いと買占めに際して余計な金子(きんす)が嵩む。頃合いとしては北条攻めと同時期になる八月下旬から九月かな?」


「青田刈り(敵に兵糧を調達させないために、青い穂が実っている収穫前の田から稲穂を刈り取ってしまうという作戦)をしても旨みが無いから、収穫後を狙うのが最良だな。しかし、それと静子に何の関係があるんだ?」


長可は疑問を口にする。方面軍の司令官である秀吉がどのような作戦を取ろうとも、兵站の総司令である静子にはそれほど大きな影響がない。彼女は秀吉だけの面倒を見ているわけではなく、信長軍全ての兵站を統括する立場にあるからだ。

勿論毛利の動向に注意を払うのは当然だが、秀吉の行動を推測する必要はあるまい。長可に問われた静子は苦笑しながら答える。


「その羽柴様から緊急の依頼が届いたの。兵糧米を予定の倍融通してくれって」


「なんでまた米を? それも倍とは無茶苦茶だ。軍需物資はどの軍にも過不足ないように配布しているんだろう? 羽柴軍のみに追加を出すのはおかしいだろう」


「現地での兵糧調達が思ったよりも難しいようでね。現時点で既に今年の収穫量が少ないことが予想されていて、更に双方の軍が米を常に消費するからね」


米の収穫量に期待が持てないということは、即ち米の持つ価値が上昇することを意味する。織田軍に於いては米本位制度とは異なる貨幣経済に移行しつつあるが、それでもまだまだ米の多寡によって経済が動くことは否定できない。

寄り合い所帯である秀吉軍に於いてはこの影響が顕著であり、褒美などに米を望むものは決して少なくないのである。つまりいざとなれば食える米が最も重要であり、一度交換をしなければならない金子は訴求力に劣るのだ。


「軍全体で兵糧が枯渇気味なうえに、現地での収穫が不安定になったことで米を要求する配下が続出したみたいなの」


「なるほどな。羽柴殿は腹心が少ないから、下っ端であろうと下手に機嫌を損ねれば組織が崩壊しかねないのか」


「仕方なく、積極的に米を放出したところ冬までの備蓄が心許なくなったそうよ。羽柴様としては他領からの調達で賄うつもりだったのだけれど、何処もいくさの気配を感じてか総じて米の相場は高止まりしていて上手くいかなかったみたい。毛利攻めが頓挫しても困るから、融通はつけるつもりだけれどね」


もっと早い段階で相談して貰えれば、他にも打てる手があったのになと静子は嘆息した。







羽柴軍内では緊張感が高まっていた。他の方面軍はそれぞれに戦果を上げている。それに比べて自分たちはどうだろうか? 未だに鳥取城を攻略できないどころか、日に日に劣勢に追い込まれている気配すらある。

二進(にっち)三進(さっち)もいかない状況に秀吉は信長に泣きつこうかとも考えた。ここの処不手際続きにも拘わらず、挽回の機会を与え続けてくれている信長に泣きついたのでは流石に他の諸将に顔向けできない。


(何もかもが裏目裏目に出よる。ここが踏ん張りどころなのか、方針転換を図るべきか……)


秀吉は心中で葛藤を続けていた。彼に齎される報告はおしなべて悪いことが多く、一向に好転の兆しが見えない。その状況下でも長たる秀吉は、自信に満ち闊達(かったつ)にふるまわねばならない。

人の上に立つものが不安を晒していては、配下にもその不安は伝染して悪循環に陥ってしまうからだ。先の見えない状況で足掻くことに重い疲労を感じていた秀吉だが、そんな彼に転機が訪れた。

鳥取城攻め戦況が芳しくないことを知った信長から、詳細な戦況報告をせよという報せと共に文官が派遣されてきた。秀吉はついに信長から見限られたかと憔悴したのだが、文官より託された信長の文を見て(はら)が座った。


「サルよ、其の方は持たぬ立場からここまで成り上がった。その際に幾つも失敗はしたが、それに臆することなく果敢に挑み続けたのでは無かったか?」


思い返せば己はそもそも侍ですら無かったのだ。他者より目端が利くのと、頭の回転を活かした世渡りで成功してきたのだ。

事がここに至っても殿は己に期待をして下さっている。その一事が秀吉の萎えかけていた心に芯を通した。


「万事が滞りなく進んでおると伝えられよ」


「流石にそれだけでは納得できませぬ。この戦況下でそのように判断される理由を伺えますか?」


「確かに今の戦況は思わしくない。しかし、優秀な部下が知恵を絞って考え抜いた作戦よ。不測の事態に対する備えさえあれば、恐れることは何もない」


「不測の事態に対する備えとは?」


「今年は不作が予想される。それに備えて既に相談役殿に追加支援の要請を送り、了承を頂いておる。それもこの先何が起ころうと対処できる莫大な支援を願い出たが、それも快く了承して頂けた」


「承知致しました。羽柴様がそこまで勝利を確信しておられるのであれば、上様もお喜びになられるでしょう」


あくまでも現時点では劣勢に甘んじているが、挽回するに十分な対策を打ったという言葉と、静子よりの追加支援を送るとの文を見せて納得させた。

他者に頼っている姿を見せたがらない秀吉が、明らかに助力を求めた証拠すら示して自信を見せたのであればと考えた文官は、現時点の詳細な戦況と今後の方針を確認して帰途に就いた。


「しまった! 変に恰好をつけず火砲を回して貰うようにすべきであった……」


文官に対して大見得を切った僅か数日後にして、秀吉は後悔で頭を抱えてしまっていた。兵糧に関しては十分な量を送って貰える段取りがついたが、そもそも打撃力が足りないという根本的な問題に解が出ていないのだ。

秀吉とて信長軍の重鎮である。静子が擁する火砲がどれほどの戦果を上げているかは、それこそ耳にタコができるほどに聞き及んでいた。籠城する相手に防壁を超えて大きな被害を及ぼせる手段は、正直喉から手が出る程に欲しい。

そんな秀吉の窮状を見透かしたように静子からの支援が到着した。兵糧は依頼した量の更に倍が届けられ、軍資金や調略に使用できる物資の他、虎の子である『擲弾筒(てきだんとう)』までもが届けられた。


「ははは、流石は静子殿。わし程度の強がりなどお見通しと言うわけか。これでは負けられぬな」


ここまでのお膳立てを整えられては負けを想像することすら許されないだろう。


「しかし、これだけの物資をすぐさま用意出来るとは、相も変わらず恐ろしいお方だ……」


届けられた物資の目録を見ながら黒田官兵衛は静子の先見性と、別次元の調達能力に舌を巻くしかなかった。


  • ブックマークに追加
ブックマーク登録する場合はログインしてください。
ポイントを入れて作者を応援しましょう!
評価をするにはログインしてください。

感想を書く場合はログインしてください。
イチオシレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。

この小説をブックマークしている人はこんな小説も読んでいます!

異世界のんびり農家

●KADOKAWA/エンターブレイン様より書籍化されました。  【書籍十巻ドラマCD付特装版 2021/04/30 発売中!】  【書籍十巻 2021/04/3//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全707部分)
  • 15909 user
  • 最終掲載日:2021/07/30 16:10
聖者無双 ~サラリーマン、異世界で生き残るために歩む道~

地球の運命神と異世界ガルダルディアの主神が、ある日、賭け事をした。 運命神は賭けに負け、十の凡庸な魂を見繕い、異世界ガルダルディアの主神へ渡した。 その凡庸な魂//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全396部分)
  • 12340 user
  • 最終掲載日:2021/06/03 22:00
転生したらスライムだった件

突然路上で通り魔に刺されて死んでしまった、37歳のナイスガイ。意識が戻って自分の身体を確かめたら、スライムになっていた! え?…え?何でスライムなんだよ!!!な//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全304部分)
  • 19102 user
  • 最終掲載日:2020/07/04 00:00
公爵令嬢の嗜み

公爵令嬢に転生したものの、記憶を取り戻した時には既にエンディングを迎えてしまっていた…。私は婚約を破棄され、設定通りであれば教会に幽閉コース。私の明るい未来はど//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全265部分)
  • 15487 user
  • 最終掲載日:2017/09/03 21:29
くまクマ熊ベアー

アニメ2期化決定しました。放映日未定。 クマの着ぐるみを着た女の子が異世界を冒険するお話です。 小説17巻、コミック5巻まで発売中。 学校に行くこともなく、//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全678部分)
  • 12133 user
  • 最終掲載日:2021/08/15 00:00
とんでもスキルで異世界放浪メシ

❖オーバーラップノベルス様より書籍10巻まで発売中! 本編コミックは7巻まで、外伝コミック「スイの大冒険」は5巻まで発売中です!❖ 異世界召喚に巻き込まれた俺、//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全580部分)
  • 19360 user
  • 最終掲載日:2021/08/09 23:04
私、能力は平均値でって言ったよね!

アスカム子爵家長女、アデル・フォン・アスカムは、10歳になったある日、強烈な頭痛と共に全てを思い出した。  自分が以前、栗原海里(くりはらみさと)という名の18//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全527部分)
  • 16083 user
  • 最終掲載日:2021/08/17 00:00
魔導具師ダリヤはうつむかない

「すまない、ダリヤ。婚約を破棄させてほしい」 結婚前日、目の前の婚約者はそう言った。 前世は会社の激務を我慢し、うつむいたままの過労死。 今世はおとなしくうつむ//

  • 異世界〔恋愛〕
  • 連載(全350部分)
  • 12904 user
  • 最終掲載日:2021/08/14 20:58
アラフォー賢者の異世界生活日記

 VRRPG『ソード・アンド・ソーサリス』をプレイしていた大迫聡は、そのゲーム内に封印されていた邪神を倒してしまい、呪詛を受けて死亡する。  そんな彼が目覚めた//

  • ローファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全213部分)
  • 13874 user
  • 最終掲載日:2021/06/24 12:00
ありふれた職業で世界最強

クラスごと異世界に召喚され、他のクラスメイトがチートなスペックと“天職”を有する中、一人平凡を地で行く主人公南雲ハジメ。彼の“天職”は“錬成師”、言い換えればた//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全414部分)
  • 13990 user
  • 最終掲載日:2021/07/17 18:00
薬屋のひとりごと

薬草を取りに出かけたら、後宮の女官狩りに遭いました。 花街で薬師をやっていた猫猫は、そんなわけで雅なる場所で下女などやっている。現状に不満を抱きつつも、奉公が//

  • 推理〔文芸〕
  • 連載(全287部分)
  • 16072 user
  • 最終掲載日:2021/07/15 08:49
謙虚、堅実をモットーに生きております!

小学校お受験を控えたある日の事。私はここが前世に愛読していた少女マンガ『君は僕のdolce』の世界で、私はその中の登場人物になっている事に気が付いた。 私に割り//

  • 現実世界〔恋愛〕
  • 連載(全299部分)
  • 14610 user
  • 最終掲載日:2017/10/20 18:39
淡海乃海 水面が揺れる時

戦国時代、近江の国人領主家に男子が生まれた。名前は竹若丸。そして二歳で父を失う。その時から竹若丸の戦国サバイバルが始まった。竹若丸は生き残れるのか? 家を大きく//

  • 歴史〔文芸〕
  • 連載(全253部分)
  • 13808 user
  • 最終掲載日:2020/03/15 19:39
Knight's & Magic

メカヲタ社会人が異世界に転生。 その世界に存在する巨大な魔導兵器の乗り手となるべく、彼は情熱と怨念と執念で全力疾走を開始する……。 *お知らせ* ヒーロー文庫//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全184部分)
  • 14123 user
  • 最終掲載日:2021/08/15 01:20
デスマーチからはじまる異世界狂想曲( web版 )

2020.3.8 web版完結しました! ◆カドカワBOOKSより、書籍版23巻+EX巻、コミカライズ版12巻+EX巻発売中! アニメBDは6巻まで発売中。 【//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全693部分)
  • 15262 user
  • 最終掲載日:2021/07/09 12:00
無職転生 - 異世界行ったら本気だす -

34歳職歴無し住所不定無職童貞のニートは、ある日家を追い出され、人生を後悔している間にトラックに轢かれて死んでしまう。目覚めた時、彼は赤ん坊になっていた。どうや//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全286部分)
  • 15719 user
  • 最終掲載日:2015/04/03 23:00
異世界薬局

研究一筋だった日本の若き薬学者は、過労死をして中世ヨーロッパ風異世界に転生してしまう。 高名な宮廷薬師を父に持つ十歳の薬師見習いの少年として転生した彼は、疾患透//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全120部分)
  • 13106 user
  • 最終掲載日:2021/08/15 00:00
聖女の魔力は万能です

二十代のOL、小鳥遊 聖は【聖女召喚の儀】により異世界に召喚された。 だがしかし、彼女は【聖女】とは認識されなかった。 召喚された部屋に現れた第一王子は、聖と一//

  • 異世界〔恋愛〕
  • 連載(全145部分)
  • 14167 user
  • 最終掲載日:2021/06/27 14:55
人狼への転生、魔王の副官

人狼の魔術師に転生した主人公ヴァイトは、魔王軍第三師団の副師団長。辺境の交易都市を占領し、支配と防衛を任されている。 元人間で今は魔物の彼には、人間の気持ちも魔//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全415部分)
  • 13032 user
  • 最終掲載日:2017/06/30 09:00
本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~

 本が好きで、司書資格を取り、大学図書館への就職が決まっていたのに、大学卒業直後に死んでしまった麗乃。転生したのは、識字率が低くて本が少ない世界の兵士の娘。いく//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全677部分)
  • 17092 user
  • 最終掲載日:2017/03/12 12:18
生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい

☆★☆コミカライズ第2弾はじまります! B's-LOG COMIC Vol.91(2020年8月5日)より配信です☆★☆ エンダルジア王国は、「魔の森」のスタン//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全221部分)
  • 12967 user
  • 最終掲載日:2018/12/29 20:00
異世界食堂

しばらく不定期連載にします。活動自体は続ける予定です。 洋食のねこや。 オフィス街に程近いちんけな商店街の一角にある、雑居ビルの地下1階。 午前11時から15//

  • ローファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全127部分)
  • 15749 user
  • 最終掲載日:2021/05/08 00:00
神達に拾われた男(改訂版)

●2020年にTVアニメが放送されました。各サイトにて配信中です。 ●シリーズ累計250万部突破! ●書籍1~10巻、ホビージャパン様のHJノベルスより発売中で//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全255部分)
  • 13223 user
  • 最終掲載日:2021/08/10 16:00
八男って、それはないでしょう! 

平凡な若手商社員である一宮信吾二十五歳は、明日も仕事だと思いながらベッドに入る。だが、目が覚めるとそこは自宅マンションの寝室ではなくて……。僻地に領地を持つ貧乏//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全206部分)
  • 17865 user
  • 最終掲載日:2020/11/15 00:08
おかしな転生

 貧しい領地の貧乏貴族の下に、一人の少年が生まれる。次期領主となるべきその少年の名はペイストリー。類まれな才能を持つペイストリーの前世は、将来を約束された菓子職//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全317部分)
  • 14424 user
  • 最終掲載日:2021/04/20 23:00
転生して田舎でスローライフをおくりたい

働き過ぎて気付けばトラックにひかれてしまう主人公、伊中雄二。 「あー、こんなに働くんじゃなかった。次はのんびり田舎で暮らすんだ……」そんな雄二の願いが通じたのか//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全533部分)
  • 13239 user
  • 最終掲載日:2021/07/18 12:00
蜘蛛ですが、なにか?

勇者と魔王が争い続ける世界。勇者と魔王の壮絶な魔法は、世界を超えてとある高校の教室で爆発してしまう。その爆発で死んでしまった生徒たちは、異世界で転生することにな//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 連載(全588部分)
  • 19079 user
  • 最終掲載日:2021/02/12 00:00
フェアリーテイル・クロニクル ~空気読まない異世界ライフ~

 ゲームをしていたヘタレ男と美少女は、悪質なバグに引っかかって、無一文、鞄すらない初期装備の状態でゲームの世界に飛ばされてしまった。 「どうしよう……?」「ど//

  • ハイファンタジー〔ファンタジー〕
  • 完結済(全247部分)
  • 11908 user
  • 最終掲載日:2020/03/28 07:00