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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「普通」は難しい

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5.詐欺師の娘

「ふふ、白の女王(クイーン)をもらったわ」

騎士(ナイト)歩兵(ポーン)もあっさり封じられてしまったか。やれやれ、君は女王を働かせすぎだ」

「愚鈍な(キング)よりも、よほど身軽なんですもの」


 ヴァルツァー監獄。

 初夏の昼下がりであろうといつも薄暗いこの空間は、意外にも快適に整えられている。


 もともと独房だった場所を十室分貫いた、広々とした居間。

 丁寧に磨かれた床の上には、革張りのソファや重厚なテーブルセット、さらには天鵞絨の絨毯が配置されている。

 高い天井には、巨大なシャンデリアまでもが吊られていた。

 どれも手入れが行き届き、監獄というよりは、王城の一室とでも表現したほうがふさわしいほどである。


 今、その心地よいソファに背を沈めながら、二人の男女がチェスを楽しんでいた。


 ひとりは、豊かな黒髪と空色の瞳が印象的な、精悍な壮年の男性。

 もうひとりは、美しく年輪を重ね、頬杖を突く仕草すら艶めいて見える、銀髪の女性。


 十五の娘の母とはとても信じられない美貌を持った元娼婦――ハイデマリーは、ギルベルトから奪った白の女王にそっと口づけた。


「かわいいエルマも、今頃お城で女王様のひとりくらい陥落させているかしら?」

「ここを抜けたからと言って、王城に留まるとは限らないだろう」

「あら、あなたも賭ける? わたくし、賭け事は得意よ?」


 ふふっと笑いかけると、ギルベルトは無言で肩をすくめた。

 このヴァルツァー監獄という名の帝国で、彼女に賭け事で挑みにいく愚か者はいない。


 とそのとき、


「――お茶が入りましたよ」


 繊細な彫刻の施された扉が開き、銀のワゴンを押した男性が部屋にやってきた。


 白髪混じりの灰色の髪に、同色の瞳。

 質のよいシャツとパンツをまとい、細身のタイを締めたその姿は、柔和で知的な相貌とあいまって、まるで上位貴族に仕える執事のような上品さだ。


 滑らかな仕草でお茶のセットを運び込む彼に、ハイデマリーは細く整った眉を上げた。


「あら、珍しいことね、モーガン。【怠惰】のあなたが、自らお茶を淹れてくださるなんて」

「あなたが、私のかわいいエルマを追い出してしまったからでしょう。せっかく私が、紅茶の淹れ方を含め、私の後継者となれるよう大切に育ててきたというのに」


 やんわりと窘めるように言われ、ハイデマリーは傷ついたように胸を押さえた。


「追い出す? ひどいわ。無力な罪人が、無辜(むこ)の娘を解放せよとの勅命に逆らえるわけがないじゃない」

「表情筋が口調と仕草を裏切っていますよ。まったく……ヴァルツァーを掌握して並みの王族以上の権力を握っているあなたが、よくそんなことを言えたものです」

「『あなた』ではなくて、『私たち』の間違いでしょう? ここは、私たち七人のお城よ」

「――そうですね」


 モーガンは逆らわなかった。事実だからだ。


 十五年前、月の青褪める夜に彼らが静かに蜂起してから、この監獄はずっと彼らの快適な根城だ。


 狂戦士の規格外の膂力で獄内を改装し、狂博士の指令のもと医療と衛生水準を異常なまでに引き上げ、反乱分子は芽が出る前に、誘拐犯が洗脳を施した。


 モーガンはなにをしたか?

 ――なにもしなかった。面倒だからだ。

 彼はただ、おいしい紅茶を飲めるようになるならばと、他の仲間たちが躍動するのを「邪魔しなかった」だけ。


 ラトランド公国の寒村が生んだ稀代の詐欺師・モーガンは、かつて貧しさのために家族全員を失ったそのときから、生に熱意を燃やすことをやめていた。

 立身出世を夢見て蓄えた知識も、するりと人の心に入り込む術も、必要なときに間に合わなければまったくの無駄である。


 彼はただ淡々と、無為に贅をため込んでいる貴族たちを口車に乗せ、金を巻き上げることで暇つぶしをしてきた。

 けっして自らの手を汚しはしない。あくまで自分は「働きかけ」て、傍観するだけ。

 怠慢を罰するのに、こちらが勤勉になるのもおかしな話だからだ。


 ただ、そう。

 十五年前にこの場で生まれ、その日のうちに無垢な笑顔を見せてくれたエルマのことだけは、彼なりに愛情を注いで育ててきたつもりだ。


 コミュニケーションに不可欠な食事のマナー、心を解す紅茶の淹れ方。

 微表情の読み方までも。

 人の感情を掌握し、操作できるようになれば、彼女の人生はきっと、とても楽になる。

 今のモーガンの人生のように。


 ――高みの見物を決め込みながら、表情を読み、口先だけで人を動かす詐欺師。実に怠惰ね。


 出会ったばかりのころ、ハイデマリーはモーガンのことをそう評した。

 彼女が面白がって、自分を含む七人に大罪の名を当てはめたため、仲間内ではすっかり、罪の名で呼び合う習慣ができてしまった。

 エルマは律儀に、周囲のことを「【怠惰】のお父様」、「【貪欲】のお兄様」などと呼んでいたから、家族とはそういうものだと思い込んでいるかもしれない。


「そうそう、【暴食】のイザークも荒れていましたよ。せっかく、『その一撃、龍をも倒す』というレベルにまで仕込んだのに、なんということをしてくれるのかと。厨房の戦力が減ったから、しばらく肉料理はお預けだそうです」

「ねえ、待って? 人の娘に、彼はなにを仕込んでくれたの? 嫁の貰い手がなくなってしまうじゃないの」


 モーガンが紅茶を注ぎながら告げると、ハイデマリーはいかにも迷惑そうに銀の髪を掻き上げた。

 ほんの一瞬強張った眉間と上唇は、真実不快を呈しているようにも見えるし、しかしわずかに瞳孔を広げた猫のような瞳は、事態を面白がっているようにも見える。


 実はこの女性の表情だけは、モーガンも判別をつけかねることが多かった。

 それもまた、彼女の魅力のひとつだ。


「――ま、いいわ」


 ハイデマリーは、差し出された紅茶を礼の言葉とともに受け取ると、すうっと香りを楽しんだ。


「だからこその巣立ちですもの。課題は難しいほうが、あの子もやる気が出るでしょう」

「課題?」


 向かいで盤面を睨みつけていたギルベルトが、わずかに首を傾げる。

 するとハイデマリーは、カップに口づけながら、ふふっと静かに微笑んだ。


「ええ。『普通の女の子』がどういうものか、世界を見ていらっしゃい。それがわかるまでは、おうちに帰ってきちゃだめよ、って」


 彼女の吐息は琥珀色の紅茶を揺らし、淡く、ゆらりと、波紋を広げていった。

次話より、【大食】仕込みの料理回となります。

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