ベストアンサー
“細かめに”というリクエストに応え(笑)、少し“檀像”については長くなってしまいますが・・・。 1檀像とは、白檀などの“香木”で製作され、唇や眉などを除き、“白木のまま”で殆ど彩色せずに完成させる、比較的小さめの仏像。 または、携行用に作られた小さな白檀の仏龕(ぶつがん)内に収められる、“懐中仏”として作られてもいます。 希少な最高級の用材であるためと、木質のきめの細かさから、名人級の精密な彫りが施されている場合が多い。 なおそれらの檀像が比較的小ぶりなのは、白檀を初めとした檀木が大きく成長せず、極めて希少だったからです。 そのため、“丈六仏(じょうろくぶつ:立像で1丈6尺[4.85㍍]、坐像で8尺)”は、殆ど製作されていません。 また檀木は日本に自生しないため、輸入されたモノが大半。 なお飛鳥仏で“樟(くすのき)”を用いるモノがあるのは、檀木の代替品という位置づけからではナイかとの説もあります。 また檀仏としては奈良の門跡寺院の法華寺に、光明皇后をモデルとした11面観音像が有名です。 しかし実は、“榧(かや)”の木を用いたモノ。 これなどは、用材の入手が極めて困難だった証とも言えるでしょう。 ・・・・・※白檀の代用品としての“榧”:唐の時代に出来た“11面神呪心経義疏”では、11面観音像を作る場合には白檀を使えと記す。しかしソレが手に入らない場合は、“榧”でもよいと。・・・それは榧が甘い芳香性を有し、白檀の肌合いや色と似ているからかもと。・・・なお仏像に刻まれる場合、白檀は黄色の“心材”部を使用。それは、芳香性が木の辺材部になくて、中心部 あるからです。 ・・・・・※檀木:白檀(ビャクダン)、紫檀(シタン)、栴檀(センダン)、緑檀(パロサント)など。・・・例えば白檀は、インドや東南アジアから中国にかけて自生していたが、中国では既に白檀は絶滅。・・・最近のインドでは、全ての白檀木にシリアルナンバーをつけ厳重に管理し、保護に努めています。・・・なお香港(香る港)という地名は、白檀の積み出し港(珠江デルタの東莞周辺から集荷)であった事から命名されたもの。 2唐絵とやまと絵 “唐絵(からえ)”とは、中国からもたらされた(舶載)絵画の総称であると共に、日本人画家がソレを真似て作画した中国風の絵。 そして“中国風の絵”とは、中国の風景や中国風の人物、中国的なテーマを扱うモノ。 “大和絵”とは、遣唐使の廃止に伴って生まれた“国風文化”の中で発達。 その名称は、“唐絵”に対して生まれたジャンル名で、日本独自の絵画。 “唐絵”との違いは、日本の故事や人物、事物、風景などをテーマとする点です。 ただ元々は、日常で使用している道具などに対して四季の絵などを描いていたものが、“物語文学”を題材とする事で発展したと言われています。 その代表的な作品は、日本最古の絵巻物(12世紀前半)と言われる“源氏物語絵巻”。 なおこの絵巻物は、多くの人物が“引目かぎ鼻”で描かれていて。極めて人物が没個性的に描かれているのが大きな特徴。 鎌倉時代に入ると、宋や元で制作された“唐絵”が再び輸入され人気を取り戻し、中でも“牧谿”の水墨画は、日本が画壇に大きな影響を与え、雪舟の留学に繫がった。 しかしその様な中でも、室町時代には宮中の“絵所預(えどころあずかり)”であった“土佐派”の絵師たちが大和絵の伝統を継承していった。 そうした絵師たちの中で、土佐光信は大和絵の題材・技法・様式を拡大し、世に広く受け容れられる絵画に改革し、土佐派の地位を確立した。 またその様な中で水墨画と大和絵を融合させた、狩野派の絵も生まれた。 戦国時代に狩野派の絵師集団は、大名の城や館内の障壁画等に多くの作品を残し、江戸に入ると幕府のお抱え絵師となる者もいた。 大和絵はその様な状況下で衰退していったが、土佐派や琳派として復興していった。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございます!非常に勉強になりました!
お礼日時:7/31 11:09