この三位一体は、いかにもキリスト教の「父」と
「子」と「聖霊」という教義のように思わせる。
キリスト教では、父は、天なる神をいい、子は、
イエスキリストをいい、イエスのみが、神の
ひとり子だと言い、聖霊については、あまりの
多様性を展開したため、その表現があいまいだ。
ここでは、それを論じない。
第一の展開は、分割不可能な「唯一」が在り、
そこから、マーヤの世界に放射された無数の
「魂群」が在り、彼らはそれぞれの星を持つ。
それぞれの星を持つ「魂」は、マーヤの世界に
於ける主に「人」と接合する。
第二の展開は、魂が地上の人と接合するとき、
子供が生まれる。この子供が即ち心、マインドの
誕生だ。つまり、「魂」と「人」と「マインド」の
三位一体として地上へ展開される。
第三の展開は、心、マインドが立現れるとき、
マインドによって、宇宙というマーヤの物質
世界が投影され、不可知なる唯一と魂との
存在性が消滅したかのように展開される。
つまり、そこに現れるのは、「体」と「心」と
いう二元性である。魂が消し去られた時、
唯一も消し去られるは必然である。
インド宗教史において、とりわけヴェーダンタ
哲学は、「神との合一」を説いて、神と合一
するという「自我」を消し去り、神のみが
実在すると言う根本一元論を展開してきた。
そうであるからエゴ・自我は仮想であり、
神が自己であるという、初めから一元論を
説明すれば、教義の話しがややこしくは
ならなかった。
「わたしは、ふたり存在する」という人は
いないだろう。だが、この世には不思議が
生じている。どういう不思議か?
人の目には、不可知なる唯一こそ実在の魂の
自己であるにも関わらず、そこから投影された
身体と心の結合した観念自体(エゴ・自我)が
「わたしだ」とうそぶくという大いなる不思議。
この不思議は、魂が自分は身体だ、マインドだと
勘違いすることから生じている。
だから、「わたしは誰か?」と問わなければ
ならない。しかしながら、わたしは人間ですと
答えるのは間違いだ。それがエゴの答弁だから。
君は、この不思議を読み解けるかい?
永遠なる真実は、不可知なる唯一のみが実在し、
そこから展開する無数の魂群は、唯一のなかに
包含されており、無限数の魂群は、常に唯一の
中である。
皆さんが言うところの天空とか青空と言うのは、
実のところ唯一の姿なのだ。
これをヒンズー教では、ブラフマンと呼び、
無限なる者と呼び、霊的大宇宙とも呼んでいた
それである。大宇宙にある星々は、それぞれの
魂の位置と大きさを現している。唯一は霊的
大宇宙をも包含している。
皆さんが唯一に到達した時、「私の中に宇宙が
ある」と言えるのだ。だが「わたしは宇宙の中に
ある地上にいる」というのはエゴなのだ。
魂が人と接合さえしなければ、常に唯一のみが
実在である。無限数の魂も、個性のような違いを
持ちながら、唯ひとつの唯一に包含されている。
そこでは、私とか他者は、その異なる存在性を
認めない。なぜなら唯一であるから。
この唯一を破壊するかのような地上の展開が
なぜ生じたか?
すでに数百万年も繰り返し、マーヤの世界を
彷徨う魂達よ。この不思議を解読しなければ、
いつまでもマーヤを彷徨うしかない。
君は、この不思議を読み解けるかい?
これの解読を解脱したと言う。
すべての魂達は、マーヤをマーヤだと見破り、
身体は自己ではないと悟り、真の自己を取り
戻さなければならない。
このマーヤの世界に幻惑され、地上の身体に
束縛されたのは、神の業ではなく、使命でも
なく、それを魂が欲したからだ。
それゆえ、マーヤの世界に束縛されたすべての
不幸、悲嘆は、魂自体の自己責任に帰するので
ある。 それゆえ人生の全般が自己を封殺された
緊急事態であるが、人に生まれるとき、つい幸せ
ボケ、平和ボケしてしまい、自分(唯一)が緊急
事態にあることさえ完全に忘れ去る。
それが皆さんの日常生活なのだ。つまり仕事や
勉学、家庭、趣味、政治や宗教などなど。
それは、どういうことか?と言うならば、
朝目覚めてから、就寝までの行為すべてが、
魂(自己)不在のエゴの行為であるからだ。
それは、寝ても覚めても夢を見る平和ボケの
エゴの姿なり(笑)
緊急事態だから、笑い事じゃアないんだ。