前回は、「Jam」の歌詞や世界感について、私なりの解釈を書かせて頂きました。
「Jam」へのコメントをたくさん頂いて、この曲を好きな方が私が思っていたより随分多いということに気付き嬉しくなりました(笑)今日はタイトルにある通り、前回の「Jam」の続きと、このサウンドを担っている「ニュー・ジャック・スイング」やその背景についてお喋りしていきたいと思います。
「BAD」(1987年)アルバム同様に、「DANGEROUS」(1991年)の完成発表は遅れに遅れました。
私は「DANGEROUS」からリアルタイムで聴き始めたのですが、子供ながらに「まだかまだか」とソワソワしながら発売を待っていた記憶があります。
マイケルは予定していた発売日を2,3回すっぽかしていたのですが、痺れを切らしたSONYがプロモーションを始めると、いよいよ限界かとようやく「DANGEROUS」を仕上げました。
マイケルは昔、「レコード会社が完成を急かす時って凄いんだよね。『仕上げるか死ぬかどっちかにしろ』くらいに言うんだよ。」と嘆いていたのですが、「THRILLER」の後は、もはやマイケルにそんなことを言える人間はいなくなっていました。
しかし散々待たせてもったいぶった反動なのか、長い沈黙を破って再燃したマイケル・フィーバーの盛り上がりは凄まじく、「DANGEROUS」アルバムは世界中で大ヒットを記録して、「BAD」の3,000万枚を上回る3,300万枚の売り上げを記録しました。
「DANGEROUS」のジャケットは衝撃的なカッコよさですね。街中にドーーーーン!!と飾られているこのポスターを見て、ニヤニヤしていた自分を思い出します。
(このジャケット、アクリル絵の具で手描きされているってご存知ですか?以前どこかの海外サイトで、この絵を描かれたアーティストMark Rydenさんのインタビュー記事を見つけたのですが、マークさんはマイケルから直接アルバムのコンセプトなどについて説明を受けた上で、楽曲制作と同時進行で数ヶ月かけて完成させたのだそうです。マイケルから、自分の目をデザインに使うよう指定があったそうですよ。
このジャケットに描かれた様々なシンボルの意味については、ファンの間で今も様々に議論されていますが、マークさんご本人は詳細の説明を拒否しています。図像学の魅力というのは、それについて推測することの楽しさであり、決して明らかにならないからこそ神秘性があるんですよね。)
「DANGEROUS」のオープニングである「Jam」は、その楽曲においてもショート・フィルムにおいても、バスケット・ボールのイメージが全面に押し出されています。
スラム街の狭い場所でもゴールとボール1つあれば楽しむことの出来るバスケットボールは、貧しい地域に暮らしていた黒人たちにとって、誰もが楽しめるスポーツでした。マイケルも子供の頃、そして大人になってからも時々バスケをしていたそうですね。
「Jam」のショート・フィルムは、NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンとの共演で話題になりましたが、この派手なイメージのあるSFにも、しっかりマイケルのメッセージが込められています。
マイケルはジョーダンとお揃いのオレンジのシャツを着ていますが、右腕には白い腕章がプリントされています。この腕章が何を示すかというのはファンの皆さんはご存知かと思いますが、「若い世代の為に尽くす」という、マイケルが音楽活動をする基盤となっている信念です。「Jam」という曲は世界へ向けた強力なメッセージ・ソングですから、この腕章を着けているんですね。
「Jam」ショート・フィルム↓
https://youtu.be/JbHI1yI1Ndk
SFの展開について軽く振り返っておきたいと思いますが・・・・・まず最初に窓ガラスを割って外に飛び出してきたのは、ただのバスケット・ボールではなくて地球儀ですね。恐らく、この体育館の中から子供が放り投げたのでしょう。
地球儀はスラム街の通学路を転がり、若者が何か走っていく方向とは別の方角へ向かっていきます。そして地球儀はさらに少年に蹴られてしまい、もう誰の目にも留まらなくなってしまいました。
一方体育館の中には数人の少年たちがいますが、顔に生気がありません。暗い体育館に熱気は無く、埃くささしか感じませんね。最初に外を駆けていた少年たちが向かう先には、何があるのでしょうか?喧嘩なのか?それとも何か他の犯罪なのか・・・・?
そんな中マイケルは一人で、何か怒りながら踊っています。「愛はどうなってしまったんだ?」と歌いながら。
マイケルが指をさしている先にいるのは子供たちではない、ということは歌詞から察することができますね。「こうなったのは自分たち大人の責任なのだ」と怒っているようです。
そして暗闇からマイケル・ジョ―ダンも現れると、彼も一人でバスケを始めます。
この段階では、子供たちとマイケル・ジャクソン、マイケル・ジョーダンの映像はそれぞれ別々に切り取られ、映し出されています。
しかし、中盤から雰囲気が変わりますね。少年がトランペットを手にし、二人のMJが1 on 1を始めます。すると子供たちも息を吹き返したように踊り、バスケの試合が始まります。前半の雰囲気とは正反対で、どこから集まってきたのか体育館の中は子供たちの活気に溢れていますね。
最後のシーンで、最初に蹴り飛ばされていた地球儀を少年が拾い上げています。彼はこのボールを持って、また体育館に戻っていくのでしょう・・・・。個人的には、地球儀が拾い上げられる時にアフリカ大陸がこちらに向けられているが、何か意味ありげに感じます。
このSFの一連の流れを改めて観てみると、ヘヴィーDのラップや全体の歌詞とリンクしているんですね。バラバラになっている人々が結集する、そのエネルギーを表現しているのが「Jam」という曲なのです。
SFの最後には、二人のMJによるダンス・レッスンコーナーがおまけで加えられていますが、このSFの撮影が二人の初対面だったそうで、ジョーダンは「マイケルはすごいシャイだったけど、話しやすい奴だったよ。」と話しています。
(そういえばこのSFの撮影は日程がとてもタイトでキツかったそうなのですが、撮影途中でマイケルが「ランチに行く」といって現場を離れたことがあったそうなんですね。それでスタッフが「おいおい ‘ランチ’ かよ!!」って愚痴っていたら、実はランチの相手が当時現職のクリントン大統領だったそうで、びっくり仰天したというエピソードを語っていたスタッフがいました(笑)。大統領からのお誘いじゃ、断れないですよね・・・。クリントン元大統領はマイケルが亡くなった時に「個人的に親しくして頂いた」と追悼コメントを出したのですが、本当に「ランチ」する仲だったんですね。すごい交友関係です・・・。)
そして「Jam」といえば、もちろんライブ映像での迫力も物凄いですね。
「トースター」と呼ばれる装置でポーン!!とマイケルがステージに登場すると、もう観客は大騒ぎです。そしてそれから1分間仁王立ちして微動だにしないマイケルですが、その間に観客席ではすでに何人も気絶して運ばれていきます。そしてファンをじっくり焦らしたところで「Jam」が大爆音で鳴り響くと、さらにバッタバッタと気絶者続出。
「Jam」ライブ映像↓
https://youtu.be/Wh3iNFEsSHU
この曲でマイケルは、バック・ダンサーと共にブラック・パンサー(黒豹)党を模したファッションに身を包み、挑戦的なダンスを披露していますね。ラッパーの帽子にも「X」の文字があります。当時緊張感を増していたアメリカ国内の人種問題に対する、マイケルのメッセージが含まれていたのでしょう。
(ブラック・パンサー党とは、1960年代に公民権運動を行ったマルコムXやキング牧師の暗殺後に活動を広げ、アフリカ系アメリカ人が白人警官から自衛するために武装隆起を呼び掛けた組織です。「Black Or White」のSFのパンサー・ヴァージョンもこの繋がりです。)
一昨年でしたっけ?ビヨンセがスーパーボウルでこの「Jam」をオマージュしたのは記憶に新しいところです。
さてさて、ここからはアルバムの背景やニュー・ジャック・スイングについて話していきたいと思います。
マイケルが長期間にわたり「DANGEROUS」(1991年)制作に取り組んでいる間に、ミュージック・シーンはヒップホップ全盛期を迎えようとしていました。
「BAD」発売後に30歳を迎えていたマイケルは、続々と登場する10代や20代の年下シンガーやラッパーと競り合いチャートの上位に留まるためには何が必要か、真剣に考えを巡らせたのでしょう。
80年代から90年代にかけては、今とは比べものにならないくらい音楽業界の流れが速く、新しい才能が生まれては消えるというシビアな状況でした。
しかしそれでもマイケルは自身に後退を許さず、あくまでもミュージック・シーンのど真ん中で存在し続けることを望んだのです。
80年代前半は、それまでのディスコ・ミュージックの反動で、リック・ジェームスなどのファンクや「ブラック・コンテンポラリー」という、R&B、ジャズ、ファンクやソウルをよりアダルトで都会的に、耳なじみの良いテンポとメロディーで洗練させたスタイルが主流になっていました。
またデジタル機材の急激な進化により、スタジオ・ミュージシャンに頼るだけでなく、プロデューサーが打ち込みによるプログラミング技術を駆使することで、そのセンスを競うようになっていました。
プロデューサーと呼ばれる人たちが今のように注目を浴びるようになったのも、この頃からでしょうか?
この「ブラック・コンテンポラリー」の仕掛け人が、クインシー・ジョーンズですね。
マイケルも辿っていた「ジャクソン5」の60年代モータウンサウンド、そして「ザ・ジャクソンズ」の70年代フィラデルフィア・サウンドなどから、80年代に入りより人種間の距離を縮めた、ポップ色の強いオシャレなブラック・ミュージックに変化していたのです。
この先駆けのシンガーと言われているのがモータウンのスティーヴィー・ワンダーやダニー・ハサウェイですが、この括りに入るのはEW&F、フレディ・ジャクソン、ダイアナロス、ライオネル・リッチー、ホイットニー・ヒューストンなど挙げればきりがありませんね。(プリンスも入りますか。)
しかし何といっても一番の成功者はマイケル・ジャクソン、そしてプロデューサーのクインシー・ジョーンズですね。何となく、私がマイケルで「ブラコン」というと、「Human Nature」のキラキラした感じが思い浮かぶのですが。
あの「We Are The World」も1985年発売ですし、マイケルの「THRILLER」(1984年)発売により、ミュージック・ビデオなどのメディア戦略についての革命も起こっていました。
しかしその一方で、70年代後半にはストリートの若者の間でラップ(ヒップホップ)ミュージックが生まれていました。
ニューヨークの貧困にあえぐ地域のストリートでは、ディスコに行くお金のないアフリカ系アメリカ人が路上でレコード・プレイヤーを回していました。そして曲の間奏が一番盛り上がるということに気付いたDJが、その間奏部分だけを繋げて流し、ラップやダンスで盛り上がったのがヒップホップ・ミュージックの始まりですね。
マイケルはかつて20歳を迎える頃、78~79年頃に夜な夜な会員制のディスコに通い踊っていました。そこで客として生の音楽を吸収し「OFF THE WALL」のサウンドに生かされたわけですが、しかしストリートレベルで起こっていることについては、マイケルは(どれだけ本人が望んでいたとしても)肌で感じることは出来なかったのです。
一方、マイケルより10歳ほど年下のテディ・ライリーはまさにハーレムのストリート育ちで、ヒップホップに触れて育ちます。
当時は、若者が作り出したムーヴメントであるヒップホップと、古い歴史を持つR&Bは完全に対極にあるイメージでした。そしてヒップホップが台頭してくるにつれて、「ブラック・コンテンポラリー」というスタイルを持つシンガーの多くはチャートから押し出されるようになったのです。
以前の記事で、R・ケリーの自伝を紹介しましたが、その中にこういった記述がありました。
「ラッパーが『ラップをR&Bシンガーと一緒にすんな』とか言うのを聞くとガッカリするんだ。あいつらは『あれはソフトだ』とか抜かしやがる。この俺に『あいつはソフトだ。なんたってR&Bの人間だからな』なんて言ってみろ。喧嘩はしたくないが、俺は売られたもんは買うぜ。R&Bとラップが同類だと言うつもりはないが、両者を正しく掛け合わせれば最高の相性を見せるんだ。ラップだって一つの芸術様式なんだよ。」
R・ケリーの自伝は数年前に描かれたものですが、80年代前半頃までのヒップホップというのは、今とは比べものにならないくらい「ハード」な存在だったのでしょう。
ところがその両者の関係性が、マイケルが「BAD」を発売したのと同じ、1987年に大きく変わります。
当時ヒップホップのプロデュースなどを行っていたテディが、先ほど話したように当時進歩していたデジタル機材の技術を駆使して、横ノリの黒さを持つ「跳ねるグルーヴ」を、生楽器ではなくドラム・マシーンで作ったのです。そしてそこに、ラップと、ハーモニーを使ったメロディーを乗せました。
簡単に言ってしまえば「ヒップホップと合体したファンク、R&B」という感じでしょうか。
それにより、「ハード」な存在であったヒップホップと、ストリートから離れてしまっていた「ソフト」なR&Bともに光が当たり、ポジティヴなイメージの新たなダンス・ミュージックとして、脚光を浴びることになります。
(マイケルが「Jam」でラッパーに採用することになるヘヴィーDも、テディ・ライリーのプロデュースで1987年に人気が出たラッパーですね。彼は汚い言葉を使わずクリーンなイメージがありましたから、そういう意味でもマイケルは「Jam」に最適な人材だと判断したのかもしれません。)
そしてあるジャーナリストが、テディの生み出したサウンドを「ニュー・ジャック・スイング」(NJS )と名付けていますが、New Jackとはアフリカ系アメリカ人のスラングで「新入りの」みたいな意味ですね。
今でこそヒップホップとR&B、つまりラップと歌は一心同体のような関係ですが、最初にこの2つを融合させたスタイルをメジャーにしたのがテディ・ライリーでした。
そういえばテディ・ライリーは、マイケルからは「BAD」制作の時点で一度呼ばれていた、と後に話していたのですが、考えてみるとすごく興味深いですね。当時何か手違いがありその話は流れてしまったそうなんですが、その頃まだテディはプロデューサーとして成功する前ですから、声が掛かったというのが不思議な感じがしますね・・・・。「BAD」でテディと組んでいたら、アルバムの内容はどうなっていたのでしょうか・・・・?
NJS以前のR&Bというのは、音楽的にしっかりと練られて構成されていて、ブリッジもあって・・・・・というものだったわけですが、テディが作った打ち込みのドラム・パターンは最小限の音数で作られており、ストリートの粗い感覚を持ちつつ、自由に歌を乗せることが出来る機能を備えていました。
スネアドラムをわざと汚れた音色にして、バスドラムの音で細かく揺れる力強いグルーヴを作っているのは、マイケルの「Jam」も良い例ですね。
(スネアドラムとは、ドラムセットの中でドラマーの正面あたりにある太鼓です。よくマーチングバンドでタカタカ叩いているインパクトの強い太鼓で、弾けるような目立つ音が鳴ります。バスドラムは足でペダルを蹴って音を出す太鼓で、一番低い音が出ます。例を出すと、「Billie Jean」のイントロで、最初にドンと鳴る深い音がバスドラムで、強く弾ける音がスネア、「チキチキチキ」と細い音を刻んでいるのが、金属性の2枚重ねのハイハットです。「Jam」では、このハイハットの役割を「鈴の音」が担っています。言うまでもなく、「Billie Jean」は生ドラムを使っているわけですが。)
テディ自身のグループGUYの「Spend The Night」(1989年)↓
イントロで「カモンベイビー」の後「Yap Yo!!」と言っているのがテディです。ものすごいグルーヴ感ですね。
https://youtu.be/oxTXjnig4BA
マイケルはこの曲が気に入ったのだと言って、テディにこのサウンドをビート・ボクシングで聴かせたのだそうですが、同時に「これよりももっとハードな音が欲しい」と要求したのだそうです。
これもNJSの代表曲でテディのプロデュース↓
キース・スウェット「I Want Her」(1987年)
https://youtu.be/7YJc80Xgubk
当時「プロデューサー御三家」と言われていたのが、プリンス一派のジャム&ルイス、LA&ベイビーフェイス、そしてテディ・ライリーですね。
ジャム&ルイスも、ベイビーフェイスも、明らかにテディのNJSから影響を受けています。例えば、「HIStory」(1995年)でマイケルと一緒に仕事をすることになるジャム&ルイスは、マイケルも気に入っていた妹ジャネット・ジャクソンの大ヒット曲「Rhythm Nation」(1989年)をプロデュースしていますが、これはNJSを彼らなりのアプローチで仕上げたものですね。
ジャネット・ジャクソン「Rhythm Nation」↓
https://youtu.be/OAwaNWGLM0c
(ちなみに、ジャネットは前作「CONTROL」(1986年)からジャム&ルイスと組み一気にブレイクしていましたが、その後大人の事情でジャム&ルイスとの調整が難航し、プロデューサーを変えようか悩んでいたそうです。しかしジャネットが慕っていた兄マイケルに相談したところ、「せっかく上手くいってるのにプロデューサーを変えるのか?」と引き続きジャム&ルイスを使うよう諭され、ジャネットは兄のアドバイス通りに事を進めます。そしてアルバム「RHYTHM NATION 1814」はさらなる大ヒットとなり、「マイケルの妹」ではなく「ジャネット・ジャクソン」として、ジャクソン家で唯一マイケルに匹敵する人気を得る存在になったのです。ジャネットはこのアルバムで、兄のようにメッセージ性を持つ社会派の作品を作ることを望んだそうで、「Rhythm Nation」のSFにもマイケルの強い影響が見られますね。またマイケルも妹の成功を喜びつつ、「DANGEROUS」に向けて大きな刺激となったわけです。ですから私の中では、同じNJS系のメッセージ・ソングとして「Rhythm Nation」と「Jam」は兄妹のようなイメージを持っています。)
そういえば先ほど出てきたR・ケリーも、この頃NJSのサウンドを模倣してブレイクしていますね。彼はこの後「HIStory」でマイケルからお呼びがかかります。
またテディは、解散直前のジャクソンズのアルバム「2300 Jackson Street」(1989年)なんかにもプロデューサーとして参加しています。収録曲の中には、マイケルを含む兄弟姉妹8人が集結した曲もあるんですね。(マイケルは9人兄弟ですが、この時お騒がせ娘の姉ラトーヤが、ヌード写真を出したり様々な奇行により家族から総スカンを食らっていた為不参加。)残念ながらマイケル脱退後ジャクソンズの人気は復調することなく、アルバムセールスは不振に終わっています。
テディプロデュース、The Jacksons「She」↓
ヴォーカルはマイケルの弟ランディです。
https://youtu.be/VcNKmSo0reE
「DANGEROUS」アルバムの制作に入る時点で、ミュージックシーンはあっという間に「どこもかしこもNJS」といった具合に急激に変化し、メインストリームになっていました。
マイケルは90年の6月から1年半を掛け、テディ・ライリーを独占状態でアルバム制作をしていたわけですが、テディ不在の間にも業界ではNJSがどんどん模倣されていました。
マイケルは、始めからアルバム完成までに1年を掛ける想定ではいたそうですが、完全に「後追い」状態でNJSのサウンドを取り入れることに不安は無かったのでしょうか・・・・・?
そして当時は、NJSと相まって日本でもものすごいダンス・ブームだったのですが、その頃「キング・オブ・R&B」と言われていたボビー・ブラウンの真似をする「ボビ男」と、ダンスとラップを同時にやって一世を風靡したMCハマーの真似をする「ハマ男」が日本で社会現象になりました。懐かしいですね(笑)
ボビー・ブラウンの大ヒット曲「My Prerogative」(1988年)
テディ・ライリーのプロデュース↓
https://youtu.be/tA4qkCw2v3s
MCハマーといえば「U Can't Touch This」(1990年)↓
https://youtu.be/otCpCn0l4Wo
とんねるずのパロディ↓
https://youtu.be/_vKgt8tNJGs?list=PL93LkYC0ndaVir_pY5LxsMxJ8ixjw9k2g
昔のテレビは面白かったですね(笑)最後にご本人登場ってのが、凄いバブリーな雰囲気満載です。
元ネタは、先ほど出てきたリック・ジェイムスの曲「Super Freak」(1981年)でした↓
https://youtu.be/QYHxGBH6o4M
プリンス殿下ではありませんよ念のため。(実際にプリンスはリックの前座を務めていました。)
実は私、MCハマーの曲に元ネタがあるということを長い間知らなくて、リック・ジェームスという人の存在を10年前くらいに初めて知ったのですが、そのきっかけが中古店でジャケ買いしたこれ↓ でした。
聴いてみると、どファンクなサウンドで当たりだと喜んだのですが、そもそも彼はジェームス・ブラウンやスライから影響を受けていたそうなんですね。さらに動画を漁っていたところで「Super Freak」を見つけたわけですが、意外に可愛らしいウインクにキュンときて(笑)完全にハマってしまいました・・・。上の動画にちらっとテンプテーションズが登場することからわかると通り、彼はなんとモータウンのアーティストでした。ヒットを飛ばしていたものの品行方正とは程遠く、ドラッグをやりながらの監禁プレイで女性を怪我させて逮捕されるなど、あまりの素行の悪さにベリー・ゴーディを度々激怒させていたそう。そんなところもファンキーですね。
リックはMCハマーのサンプリングに憤慨したそうですが、使用料ががっぽり入ることを知って満足したとか・・・・(笑)そういえばリックが歌う女性像って、マイケルの「Dirty Diana」と全く同じですね。
MCハマーの「U Can't Touch This」はサウンドがNJSなのですが、この元ネタからのドラムサウンドの変化で分かりますね。
ところでMCハマーといえば、マイケルがいよいよアルバム発売となったときに、「俺様がムーンウォーク野郎を打ち負かしてやるぜ!」と言ってマイケルにダンス対決を申し込んだのを思い出します。「俺たちが対決すれば、お互いのアルバムの良い宣伝になるだろ」と大口を叩いたのですが、「U Can't Touch This」(お前は俺様にはかなわねえ)の曲名も相まって、マスコミの恰好のネタになり騒がれました。
実際に、MCハマーがマイケルの眼中に入っていたのかはわかりませんが・・・・。
10代や20代のファンの方には、その当時の雰囲気がイメージしにくいと思うのですが、懐かしい動画を見つけたのでこちらをどうぞ↓
これも「とんねるずのみなさんのおか〇でした」のコントですね。
https://youtu.be/tjjACosnW7Q
「あんなの騒いでるだけ、あっという間に消える。積み重ねてマイペースでやったものの勝ちポー!!」と言う、ノリさん扮するマイケルのセリフがいいですね(笑)
MCハマーの宣戦布告に対して、マイケルの広報スタッフは「MCハマーがやっているステップのほとんどは、マイケルが開発したものだ。相手にならないよ。」と鼻であしらい、マイケル本人に至っては完全無視でした・・・・・。何か一言言ってあげればよかったのに(笑)
MCハマーの勢いはほどなくして失速し、散々贅沢したおかげで自己破産してしまったようです。
でもこの人、90年にアルバムを何と1,000万枚も売ってるんですよ。同じ年にマドンナも同じ1,000万枚、そしてこの年に鮮烈デビューしたマライア・キャリーが900万枚ですから凄まじいです。確かに「U Can't Touch This」 はどこでも流れていましたし、教室でみんな真似してカニ歩きしてましたもん・・・・・。ムーンウォークは難しいですけど、カニ歩きは誰でも出来るんですよね。
ラップの腕前はというと、曲の後半を聴いてわかる通り残念な感じですが・・・・とにかくあのファッションとユニークなダンスであっという間にお茶の間まで浸透したのです。
マイケルにとって、この頃のライバルの一人が彼だったということは、もしかすると言い過ぎではないのかもしれません・・・・・。
(これは余談ですが、上の動画のマイケルの整形や肌の色についての扱いには気分を害される方もいらっしゃるでしょう。当時日本はバブル絶頂期で、テレビ業界もモラルは二の次で面白ければ何でもありというお祭り状態でした。人種差別についても意識が低く、顔を茶色く塗ることに何の抵抗もない時代でした。モノマネも、マイケルに限らず本人に遠慮が無く、とにかく全てが過剰だったんですよね。そんな時代ですから、マイケルの肌が変化した時に病気の可能性に配慮することなど、到底できるような風潮では無かったのです。整形についてはまあ事実だし、ブラック・ジョークということで良いんじゃないでしょうか。何より、マイケルのルックスだけをネタにしていた芸人なら話は別ですが、とんねるずの場合は、素人ながらしっかりダンスの練習をして、最後にはちゃんと「やっぱりマイケルカッコいいよね」と思えるコントを作っていました。ワイドショーでコメンテーターが平然と批判するのとは違いますし、私は肌のことは聞き流して楽しく観ていました。)
話が逸れてしまいましたが・・・・・そもそも「ヒップホップ」とは何を表すのか?ということですが、「ヒップ」とは「イケてる」みたいな感じのスラングで、「ホップ」は「跳ねる」ですね。
(30代~40代の方はお分かりいただけると思うのですが、ちょうど90年頃「ホッピング」っていう、竹馬にバネが付いたようなぴょんぴょん飛び跳ねる玩具、流行りましたよね?)
上のGUYのSFを見てもわかるのですが、軽快な、飛び跳ねるようなダンスのスタイルが「ホップ」の意味と繋がりますよね。他にも壁にスプレーを吹き付けて文字を書くグラフィティやファッションなど、いくつかの要素をひっくるめて「ヒップホップ文化」として認識されています。
NJSとは音楽のスタイルを指すわけですが、当時流行ったこのダンスのスタイル自体をNJSということもあります。
ちなみにマイケルはヒップホップについて、音楽は好きだがダンスは好きはでない、と言っています。その理由は本人曰く、「エアロビクスしているように見えるから」ということだそうですが・・・・(笑)そんなこと言われたらもう、皆でエクササイズしているようにしか見えなくなっちゃうから止めてください(笑)
(マイケルのダンススタイルをあえて言うならば、ポップダンスですね。「Pop」とは「弾ける」という意味で、筋肉が弾けるようなイメージなのだそうです。ガムを膨らませて弾けさせるのも英語で「Pop」と言いますね。)
音楽、ダンス、ファッションが絡んだかつてないほどのムーヴメントがおこり、テディが開発したNJSのサウンドはやみくもに量産され質が伴わないものも多く出回り始めたのですが、そんな中で1991年、ついにマイケル・ジャクソンが待望のアルバムを発売します。
本家テディ・ライリーのNJSは「キング・オブ・ポップ」のモンスターアルバム「DANGEROUS」に丸飲みされ、かつて「ブラック・コンテンポラリー」としてマイケルの「THRILLER」により頂点に立ったブラック・ミュージックは、「ニュー・ジャック・スイング」に形を変えて再び世界の隅々まで行き渡り、大衆音楽として正式に認知されることになります。
「DANGEROUS」は3,300万枚を売り上げ、アルバム史上15位の記録となります。(1位は「THRILLER」の1億枚超えですね。)
マイケルは、このアルバムの収録曲14曲中、「Jam」「Why You Wanna Trip On Me」「In The Closet」「She Drives Me Wild」「Remember The Time」「Can't Let Her Get Away」「Dangerous」の7曲でテディと共同でプロデュースを行っています。
「DANGEROUS」発売当時33歳になっていたマイケルは、クラブ・シーンを動かす10代、20代の若者との世代間ギャップを、テディ・ライリーという若いプロデューサーのサウンドを上手く利用し、自分の能力と掛け合わせることで克服したのです。
(とはいえ、シングルとして一番売れたのが、テディの関わっていない「Black Or White」だというのがマイケルの面白いところですね。アルバムからの先行シングルであったこの曲は、ニューヨークのラジオ局一社に数日間独占放送させた為、他のラジオ局から「早く使わせろ」とSONYに抗議が殺到しました。さらにこの曲の衝撃で、輸送中のアルバムが空港で強奪されたり、物凄い騒ぎになりました。)
マイケル・ジャクソンとテディ・ライリーのタッグともなると、やはりそのクオリティはまがい物のNJSとは比べものにならないほど洗練されていますね。「DANGEROUS」というアルバムによって、マイケルはNJSの有効性を独自のアプローチで示し、その価値をさらに高めたように思います。
当初、テディのNJSがどれくらい採用されるかということは、テディにもマイケル本人にも未知数だったといいます。実際に、マイケルはベイビー・フェイスやビル・ボットレイルなど他のプロデューサーとも曲作りをしていましたし、自身も多くの曲を制作していました。しかし最終的にアルバムの半分をNJSが占めたわけですから、相性の良さが伺えますね。
しかし「キング・オブ・ポップ」のアルバムの成功は、同時にNJSが出発地点であったストリートからは最も離れた存在になったということも意味しています。
その為、1987年に始まった「ニュー・ジャック・スイング」のムーヴメントは、テディ最高傑作と言われる「DANGEROUS」の「Remember The Time」で頂点を迎え、同時に終焉へと向かったとする見方がありますね。
「Remember The Time」は、ドラム・サウンドよりもむしろベース・ラインが一番強くグルーヴを作っているように思えます。この曲では生のジャズ・ベースが使われていますが、テディは「これこそまさにR&B」であり、「マイケルは作曲の美しさを僕に教えてくれた人」と話しています。
テディはヒップホップに触れて育ったドラム・マシーン時代の産物ですから、ソングライティングの方法について、マイケルと世代間ギャップがあったのだそうです。
テディはコンピューターでバック・トラックを作るところから始めるわけですが、マイケルはとりあえずピアノに向かってメロディーを作り、ビート・ボクシングでアレンジを考えてレコーダーに自分で録音し、それからスタジオに行くという昔からのやり方を通していました。
その為マイケルとの仕事初日、テディは自作のトラックをいくつかマイケルに聴かせると、すぐにピアノのある部屋に連れて行かれたのだと話しています。テディは「バック・トラックから作る音楽はダメなんだよ」と言われたのだそうです。
しかしテディはかなりピアノを弾くことが出来た為、自作のトラックのコードをピアノで弾いたのだそうです。すると、気に入ったマイケルが歌いながらメロディーをつける。そして更に気分がノッて来てビート・ボクシングを始めると、曲の「骨格」が出来上がる。テディはそこで初めて、マイケルの要望によりスタジオに向かいNJS色を合わせたのです。
そうして出来たのが「Remember The Time」でした。
一方「Jam」では、レコーディング・エンジニアのブルース・スウェディンらが作ってきたドラム・サウンドがベースになっていて、マイケルがそこにメロディーを付けた後でテディのNJS色が加えられたということを、前回紹介しましたね。
そのビフォー・アフターを比べてみたい気がしますが・・・・「Jam」って、バスドラムのグルーヴの揺れ感が物凄いんですよね。ヘッドフォンで大音量で聴いたときの、ズンズンと来る感じがたまりません。
でもマイケルが歌うNJSに関しては、あくまでもマイケルのヴォーカルありきで楽曲が成立しているということは、例えば「Can't Let Her Get Away」の最後で、サウンドが解体されていく様子からもわかりますね。
ファンク全開の弾けるグルーヴの中核にあるのが、テディのNJSからいつの間にかマイケルの声に変化していく様子は、流石としか言いようがありません。
ブリッジ部分で「Are You Ready!? Hoooo!!(準備はいいか!?行くぞー!!」と言ってポコパカ歌い出すと、もうラストまでマイケルの独壇場です。いつもの「ダッ、ダッ、ダッ」も「ドゥッ、ドゥッ」もキレッキレだし、音の粒のどれがデジタルでどれが生声なのか、よく聴かないと判別できないものもあったりするのが面白いですね。マイケルはそこをわざと惑わすように作っているのですが、それがこの曲の何とも言えない楽しさですね。
マイケルが歌入れの際に何気なく入れるフェイクの性能は、リズム・トラックよりも正確だったといいますが、マイケルの声自体がリズムやグルーヴの役割を担うことができるということを、この曲が存分に教えてくれています。
ジェームス・ブラウンを思わせる最高にファンキーなこの曲でも、マイケルはNJSの有効性を示したように思います。
そしてマイケルは「Can't Let Her Get Away」でも「Jam」でも限りなくラップに近いメロディーを歌っているのですが、この時代への適応力はもの凄いですね。
マイケルは、「Remember The Time」のように伸びやかに歌い上げるだけでなく、ビート・ボックスを得意としてスタッカートを多用したメロディー・ラインも好んでいました。前作「BAD」の「Smooth Criminal」とか「Speed Demon」、後の「Tabloid Junkie」も特徴的ですね。
一つ一つの音符を長くせず、細かくリズムを取ることが出来る譜面が向いているということに最初に気付いたのが、「OFF THE WALL」(1979年)でマイケルに数曲を提供したロッド・テンパートンですね。
ロッド・テンパートンは楽曲提供にあたり、マイケルがどういうシンガーかを知る為にジャクソンズのアルバムを聴いたそうですが、アップテンポの曲になるとマイケルのヴォーカルが走ることに注目したロッドは、「マイケル仕様」で作曲したと言います。音符を短くしスタッカートを多用したことでリズムも取り易くなり、マイケル独特のパーカッシヴな歌唱法(「ダッ」とか「パッ」とかフェイクを入れる)が完成したのです。
マイケルは昔、インタビューで「I'm a slave to the rhythm.(僕はリズムの奴隷なんだよ)」と言っていたのが印象的でしたが、マイケルはそれ故に、ラップ調のメロディーでもリズミカルに畳みかける独特な歌唱法になったんですね。
そのスタイルは後から続くR&Bシンガーも模倣していったわけですが、でもああいった感覚は真似しようと意識して捉えられるものではないし、さらにマイケルのように強い感情表現を織り込んで声自体がメッセージであるような質感を持つものには、今もなかなかお目にかかることはできませんね。
こういった曲はちゃんとCD音源で、大きいスピーカーかヘッドフォンで聴かないと全ての音の粒を聞き取るが出来ないわけですが、マイケルは同業者もびっくりして逃げてしまうほどの大音量で聴くのが常だったそうです。
マイケル自身も、そのことについて2001年に話しています。
「僕は音楽を大音響で聴くのが大好きなんだ。それにインターネットや小さなスピーカーを通して聴いても、同じようなパンチは得られない。だから君達も、CDを買わなきゃダメだよ。本物のパンチを聞き分けるためにはCDを買わなきゃ。そりゃとんでもない違いだよ。比較にならないほどさ。小さなスピーカーシステムじゃ、全ての音を聞き取ることはできないからね。」
そしてもちろん、ブルース・スウェディンの功績も忘れてはいけませんね。どれだけの労力をかけていい音を集めても、エンジニアが行う最後のトラックダウンがアルバムの良し悪しを左右するのですから。
ブルースは、「Jam」でグラミーのベスト作曲賞にマイケルらと共にノミネートされ、アルバム「DANGEROUS」では見事ベスト・エンジニア賞を受賞しています。(ベスト・エンジニア賞は、「THRILLER」「BAD」でも受賞。「HIStory」ではノミネートです。)
マイケルのアルバムの音が良いのは当然ですね。
ところでテディ・ライリーは、この後再び「INVINCIBLE」(2001年)でマイケルのパートナーとなり、「Heaven Can Wait」「2000 Watts」「Don't Walk Away」「Whatever Happens」といった楽曲を共作、プロデュースしています。
「INVINCIBLE」にはテディの弟子的存在であったロドニー・ジャーキンスも起用されているのですが、ロドニーについてはそもそもマイケルの方から声を掛けたわけでは無く、人を介して「会いたい」と懇願されて、「電話一本掛けてやってくれないか?」と頼まれたのがきっかけなんだそう。ロドニーは「Remember The Time」が大好きなんだと言っていましたね。
マイケルはロドニーの起用を決めると、「もっと革新的にならないとダメだ」と言ってプッシュしたのだそうです。「押して押して、押しまくった」と。
マイケルは「彼は忍耐強いんだよね」と言っているので、よっぽどイジメたんでしょうね(笑)。
でも10年前の「DANGEROUS」の時には、テディとの間にはこういうエピソードはなかったようですね。
マイケルはいつもテディに、「この曲、もう完成してると思う?」と訊き、テディは「大丈夫、完成してるよ」と言っていたのだそうです。テディがそう言ってくれないと、マイケルは永遠と作り続けますからね・・・・(笑)
テディについてマイケルは、「彼と仕事をするのは好きなんだ。いい奴なんだよ。」と言っています。
マイケルは、テディ・ライリーというプロデューサーの力を借りてシビアな時代の流れにしっかり乗りつつ、「あくまでもマイケル・ジャクソンである」という絶妙なバランス感覚で「DANGEROUS」を成功させました。
80年代後半から90年代前半にかけて大きなムーヴメントとなったNJSですが、現在もそのサウンドは完全に消え去ったわけでは無く、最近もマイケルのフォロワーであるビヨンセやブルーノ・マーズなどによって再び光が当てられています。
ヒップホップとR&Bを結びつけたテディ・ライリーの功績は、とても大きいと言えますね。
今日は最後におまけ映像のご紹介。
とんねるずのコントから「マイケルとバブルス君来日」↓
https://youtu.be/4dbUDUTeN2o
「とんねるずMJ 『MOONWALKER』」
(※モバイルデバイスでの再生が制限されているようなので、PCからしか観られないようです。)
元ネタがこちら↓「マイケルとバブルス君大阪市役所訪問」
https://youtu.be/k_lcmcNthAU
「1987 Michael and Bubbles MOONWALK」
こちら↓ には私のお気に入りの「Balck Or White」パロディあり
https://youtu.be/TJ2bds8zZVY
「追悼 マイケルジャクソン Michael Jackson とんねるず」
(※こちらもモバイルデバイスでの再生が制限されているようなので、PCからしか観られないようです。)
※次回は、「Privacy」を予定しています。
「Jam」へのコメントをたくさん頂いて、この曲を好きな方が私が思っていたより随分多いということに気付き嬉しくなりました(笑)今日はタイトルにある通り、前回の「Jam」の続きと、このサウンドを担っている「ニュー・ジャック・スイング」やその背景についてお喋りしていきたいと思います。
「BAD」(1987年)アルバム同様に、「DANGEROUS」(1991年)の完成発表は遅れに遅れました。
私は「DANGEROUS」からリアルタイムで聴き始めたのですが、子供ながらに「まだかまだか」とソワソワしながら発売を待っていた記憶があります。
マイケルは予定していた発売日を2,3回すっぽかしていたのですが、痺れを切らしたSONYがプロモーションを始めると、いよいよ限界かとようやく「DANGEROUS」を仕上げました。
マイケルは昔、「レコード会社が完成を急かす時って凄いんだよね。『仕上げるか死ぬかどっちかにしろ』くらいに言うんだよ。」と嘆いていたのですが、「THRILLER」の後は、もはやマイケルにそんなことを言える人間はいなくなっていました。
しかし散々待たせてもったいぶった反動なのか、長い沈黙を破って再燃したマイケル・フィーバーの盛り上がりは凄まじく、「DANGEROUS」アルバムは世界中で大ヒットを記録して、「BAD」の3,000万枚を上回る3,300万枚の売り上げを記録しました。
「DANGEROUS」のジャケットは衝撃的なカッコよさですね。街中にドーーーーン!!と飾られているこのポスターを見て、ニヤニヤしていた自分を思い出します。
(このジャケット、アクリル絵の具で手描きされているってご存知ですか?以前どこかの海外サイトで、この絵を描かれたアーティストMark Rydenさんのインタビュー記事を見つけたのですが、マークさんはマイケルから直接アルバムのコンセプトなどについて説明を受けた上で、楽曲制作と同時進行で数ヶ月かけて完成させたのだそうです。マイケルから、自分の目をデザインに使うよう指定があったそうですよ。
このジャケットに描かれた様々なシンボルの意味については、ファンの間で今も様々に議論されていますが、マークさんご本人は詳細の説明を拒否しています。図像学の魅力というのは、それについて推測することの楽しさであり、決して明らかにならないからこそ神秘性があるんですよね。)
「DANGEROUS」のオープニングである「Jam」は、その楽曲においてもショート・フィルムにおいても、バスケット・ボールのイメージが全面に押し出されています。
スラム街の狭い場所でもゴールとボール1つあれば楽しむことの出来るバスケットボールは、貧しい地域に暮らしていた黒人たちにとって、誰もが楽しめるスポーツでした。マイケルも子供の頃、そして大人になってからも時々バスケをしていたそうですね。
「Jam」のショート・フィルムは、NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンとの共演で話題になりましたが、この派手なイメージのあるSFにも、しっかりマイケルのメッセージが込められています。
マイケルはジョーダンとお揃いのオレンジのシャツを着ていますが、右腕には白い腕章がプリントされています。この腕章が何を示すかというのはファンの皆さんはご存知かと思いますが、「若い世代の為に尽くす」という、マイケルが音楽活動をする基盤となっている信念です。「Jam」という曲は世界へ向けた強力なメッセージ・ソングですから、この腕章を着けているんですね。
「Jam」ショート・フィルム↓
https://youtu.be/JbHI1yI1Ndk
SFの展開について軽く振り返っておきたいと思いますが・・・・・まず最初に窓ガラスを割って外に飛び出してきたのは、ただのバスケット・ボールではなくて地球儀ですね。恐らく、この体育館の中から子供が放り投げたのでしょう。
地球儀はスラム街の通学路を転がり、若者が何か走っていく方向とは別の方角へ向かっていきます。そして地球儀はさらに少年に蹴られてしまい、もう誰の目にも留まらなくなってしまいました。
一方体育館の中には数人の少年たちがいますが、顔に生気がありません。暗い体育館に熱気は無く、埃くささしか感じませんね。最初に外を駆けていた少年たちが向かう先には、何があるのでしょうか?喧嘩なのか?それとも何か他の犯罪なのか・・・・?
そんな中マイケルは一人で、何か怒りながら踊っています。「愛はどうなってしまったんだ?」と歌いながら。
マイケルが指をさしている先にいるのは子供たちではない、ということは歌詞から察することができますね。「こうなったのは自分たち大人の責任なのだ」と怒っているようです。
そして暗闇からマイケル・ジョ―ダンも現れると、彼も一人でバスケを始めます。
この段階では、子供たちとマイケル・ジャクソン、マイケル・ジョーダンの映像はそれぞれ別々に切り取られ、映し出されています。
しかし、中盤から雰囲気が変わりますね。少年がトランペットを手にし、二人のMJが1 on 1を始めます。すると子供たちも息を吹き返したように踊り、バスケの試合が始まります。前半の雰囲気とは正反対で、どこから集まってきたのか体育館の中は子供たちの活気に溢れていますね。
最後のシーンで、最初に蹴り飛ばされていた地球儀を少年が拾い上げています。彼はこのボールを持って、また体育館に戻っていくのでしょう・・・・。個人的には、地球儀が拾い上げられる時にアフリカ大陸がこちらに向けられているが、何か意味ありげに感じます。
このSFの一連の流れを改めて観てみると、ヘヴィーDのラップや全体の歌詞とリンクしているんですね。バラバラになっている人々が結集する、そのエネルギーを表現しているのが「Jam」という曲なのです。
SFの最後には、二人のMJによるダンス・レッスンコーナーがおまけで加えられていますが、このSFの撮影が二人の初対面だったそうで、ジョーダンは「マイケルはすごいシャイだったけど、話しやすい奴だったよ。」と話しています。
(そういえばこのSFの撮影は日程がとてもタイトでキツかったそうなのですが、撮影途中でマイケルが「ランチに行く」といって現場を離れたことがあったそうなんですね。それでスタッフが「おいおい ‘ランチ’ かよ!!」って愚痴っていたら、実はランチの相手が当時現職のクリントン大統領だったそうで、びっくり仰天したというエピソードを語っていたスタッフがいました(笑)。大統領からのお誘いじゃ、断れないですよね・・・。クリントン元大統領はマイケルが亡くなった時に「個人的に親しくして頂いた」と追悼コメントを出したのですが、本当に「ランチ」する仲だったんですね。すごい交友関係です・・・。)
そして「Jam」といえば、もちろんライブ映像での迫力も物凄いですね。
「トースター」と呼ばれる装置でポーン!!とマイケルがステージに登場すると、もう観客は大騒ぎです。そしてそれから1分間仁王立ちして微動だにしないマイケルですが、その間に観客席ではすでに何人も気絶して運ばれていきます。そしてファンをじっくり焦らしたところで「Jam」が大爆音で鳴り響くと、さらにバッタバッタと気絶者続出。
「Jam」ライブ映像↓
https://youtu.be/Wh3iNFEsSHU
この曲でマイケルは、バック・ダンサーと共にブラック・パンサー(黒豹)党を模したファッションに身を包み、挑戦的なダンスを披露していますね。ラッパーの帽子にも「X」の文字があります。当時緊張感を増していたアメリカ国内の人種問題に対する、マイケルのメッセージが含まれていたのでしょう。
(ブラック・パンサー党とは、1960年代に公民権運動を行ったマルコムXやキング牧師の暗殺後に活動を広げ、アフリカ系アメリカ人が白人警官から自衛するために武装隆起を呼び掛けた組織です。「Black Or White」のSFのパンサー・ヴァージョンもこの繋がりです。)
一昨年でしたっけ?ビヨンセがスーパーボウルでこの「Jam」をオマージュしたのは記憶に新しいところです。
さてさて、ここからはアルバムの背景やニュー・ジャック・スイングについて話していきたいと思います。
マイケルが長期間にわたり「DANGEROUS」(1991年)制作に取り組んでいる間に、ミュージック・シーンはヒップホップ全盛期を迎えようとしていました。
「BAD」発売後に30歳を迎えていたマイケルは、続々と登場する10代や20代の年下シンガーやラッパーと競り合いチャートの上位に留まるためには何が必要か、真剣に考えを巡らせたのでしょう。
80年代から90年代にかけては、今とは比べものにならないくらい音楽業界の流れが速く、新しい才能が生まれては消えるというシビアな状況でした。
しかしそれでもマイケルは自身に後退を許さず、あくまでもミュージック・シーンのど真ん中で存在し続けることを望んだのです。
80年代前半は、それまでのディスコ・ミュージックの反動で、リック・ジェームスなどのファンクや「ブラック・コンテンポラリー」という、R&B、ジャズ、ファンクやソウルをよりアダルトで都会的に、耳なじみの良いテンポとメロディーで洗練させたスタイルが主流になっていました。
またデジタル機材の急激な進化により、スタジオ・ミュージシャンに頼るだけでなく、プロデューサーが打ち込みによるプログラミング技術を駆使することで、そのセンスを競うようになっていました。
プロデューサーと呼ばれる人たちが今のように注目を浴びるようになったのも、この頃からでしょうか?
この「ブラック・コンテンポラリー」の仕掛け人が、クインシー・ジョーンズですね。
マイケルも辿っていた「ジャクソン5」の60年代モータウンサウンド、そして「ザ・ジャクソンズ」の70年代フィラデルフィア・サウンドなどから、80年代に入りより人種間の距離を縮めた、ポップ色の強いオシャレなブラック・ミュージックに変化していたのです。
この先駆けのシンガーと言われているのがモータウンのスティーヴィー・ワンダーやダニー・ハサウェイですが、この括りに入るのはEW&F、フレディ・ジャクソン、ダイアナロス、ライオネル・リッチー、ホイットニー・ヒューストンなど挙げればきりがありませんね。(プリンスも入りますか。)
しかし何といっても一番の成功者はマイケル・ジャクソン、そしてプロデューサーのクインシー・ジョーンズですね。何となく、私がマイケルで「ブラコン」というと、「Human Nature」のキラキラした感じが思い浮かぶのですが。
あの「We Are The World」も1985年発売ですし、マイケルの「THRILLER」(1984年)発売により、ミュージック・ビデオなどのメディア戦略についての革命も起こっていました。
しかしその一方で、70年代後半にはストリートの若者の間でラップ(ヒップホップ)ミュージックが生まれていました。
ニューヨークの貧困にあえぐ地域のストリートでは、ディスコに行くお金のないアフリカ系アメリカ人が路上でレコード・プレイヤーを回していました。そして曲の間奏が一番盛り上がるということに気付いたDJが、その間奏部分だけを繋げて流し、ラップやダンスで盛り上がったのがヒップホップ・ミュージックの始まりですね。
マイケルはかつて20歳を迎える頃、78~79年頃に夜な夜な会員制のディスコに通い踊っていました。そこで客として生の音楽を吸収し「OFF THE WALL」のサウンドに生かされたわけですが、しかしストリートレベルで起こっていることについては、マイケルは(どれだけ本人が望んでいたとしても)肌で感じることは出来なかったのです。
一方、マイケルより10歳ほど年下のテディ・ライリーはまさにハーレムのストリート育ちで、ヒップホップに触れて育ちます。
当時は、若者が作り出したムーヴメントであるヒップホップと、古い歴史を持つR&Bは完全に対極にあるイメージでした。そしてヒップホップが台頭してくるにつれて、「ブラック・コンテンポラリー」というスタイルを持つシンガーの多くはチャートから押し出されるようになったのです。
以前の記事で、R・ケリーの自伝を紹介しましたが、その中にこういった記述がありました。
「ラッパーが『ラップをR&Bシンガーと一緒にすんな』とか言うのを聞くとガッカリするんだ。あいつらは『あれはソフトだ』とか抜かしやがる。この俺に『あいつはソフトだ。なんたってR&Bの人間だからな』なんて言ってみろ。喧嘩はしたくないが、俺は売られたもんは買うぜ。R&Bとラップが同類だと言うつもりはないが、両者を正しく掛け合わせれば最高の相性を見せるんだ。ラップだって一つの芸術様式なんだよ。」
R・ケリーの自伝は数年前に描かれたものですが、80年代前半頃までのヒップホップというのは、今とは比べものにならないくらい「ハード」な存在だったのでしょう。
ところがその両者の関係性が、マイケルが「BAD」を発売したのと同じ、1987年に大きく変わります。
当時ヒップホップのプロデュースなどを行っていたテディが、先ほど話したように当時進歩していたデジタル機材の技術を駆使して、横ノリの黒さを持つ「跳ねるグルーヴ」を、生楽器ではなくドラム・マシーンで作ったのです。そしてそこに、ラップと、ハーモニーを使ったメロディーを乗せました。
簡単に言ってしまえば「ヒップホップと合体したファンク、R&B」という感じでしょうか。
それにより、「ハード」な存在であったヒップホップと、ストリートから離れてしまっていた「ソフト」なR&Bともに光が当たり、ポジティヴなイメージの新たなダンス・ミュージックとして、脚光を浴びることになります。
(マイケルが「Jam」でラッパーに採用することになるヘヴィーDも、テディ・ライリーのプロデュースで1987年に人気が出たラッパーですね。彼は汚い言葉を使わずクリーンなイメージがありましたから、そういう意味でもマイケルは「Jam」に最適な人材だと判断したのかもしれません。)
そしてあるジャーナリストが、テディの生み出したサウンドを「ニュー・ジャック・スイング」(NJS )と名付けていますが、New Jackとはアフリカ系アメリカ人のスラングで「新入りの」みたいな意味ですね。
今でこそヒップホップとR&B、つまりラップと歌は一心同体のような関係ですが、最初にこの2つを融合させたスタイルをメジャーにしたのがテディ・ライリーでした。
そういえばテディ・ライリーは、マイケルからは「BAD」制作の時点で一度呼ばれていた、と後に話していたのですが、考えてみるとすごく興味深いですね。当時何か手違いがありその話は流れてしまったそうなんですが、その頃まだテディはプロデューサーとして成功する前ですから、声が掛かったというのが不思議な感じがしますね・・・・。「BAD」でテディと組んでいたら、アルバムの内容はどうなっていたのでしょうか・・・・?
NJS以前のR&Bというのは、音楽的にしっかりと練られて構成されていて、ブリッジもあって・・・・・というものだったわけですが、テディが作った打ち込みのドラム・パターンは最小限の音数で作られており、ストリートの粗い感覚を持ちつつ、自由に歌を乗せることが出来る機能を備えていました。
スネアドラムをわざと汚れた音色にして、バスドラムの音で細かく揺れる力強いグルーヴを作っているのは、マイケルの「Jam」も良い例ですね。
(スネアドラムとは、ドラムセットの中でドラマーの正面あたりにある太鼓です。よくマーチングバンドでタカタカ叩いているインパクトの強い太鼓で、弾けるような目立つ音が鳴ります。バスドラムは足でペダルを蹴って音を出す太鼓で、一番低い音が出ます。例を出すと、「Billie Jean」のイントロで、最初にドンと鳴る深い音がバスドラムで、強く弾ける音がスネア、「チキチキチキ」と細い音を刻んでいるのが、金属性の2枚重ねのハイハットです。「Jam」では、このハイハットの役割を「鈴の音」が担っています。言うまでもなく、「Billie Jean」は生ドラムを使っているわけですが。)
テディ自身のグループGUYの「Spend The Night」(1989年)↓
イントロで「カモンベイビー」の後「Yap Yo!!」と言っているのがテディです。ものすごいグルーヴ感ですね。
https://youtu.be/oxTXjnig4BA
マイケルはこの曲が気に入ったのだと言って、テディにこのサウンドをビート・ボクシングで聴かせたのだそうですが、同時に「これよりももっとハードな音が欲しい」と要求したのだそうです。
これもNJSの代表曲でテディのプロデュース↓
キース・スウェット「I Want Her」(1987年)
https://youtu.be/7YJc80Xgubk
当時「プロデューサー御三家」と言われていたのが、プリンス一派のジャム&ルイス、LA&ベイビーフェイス、そしてテディ・ライリーですね。
ジャム&ルイスも、ベイビーフェイスも、明らかにテディのNJSから影響を受けています。例えば、「HIStory」(1995年)でマイケルと一緒に仕事をすることになるジャム&ルイスは、マイケルも気に入っていた妹ジャネット・ジャクソンの大ヒット曲「Rhythm Nation」(1989年)をプロデュースしていますが、これはNJSを彼らなりのアプローチで仕上げたものですね。
ジャネット・ジャクソン「Rhythm Nation」↓
https://youtu.be/OAwaNWGLM0c
(ちなみに、ジャネットは前作「CONTROL」(1986年)からジャム&ルイスと組み一気にブレイクしていましたが、その後大人の事情でジャム&ルイスとの調整が難航し、プロデューサーを変えようか悩んでいたそうです。しかしジャネットが慕っていた兄マイケルに相談したところ、「せっかく上手くいってるのにプロデューサーを変えるのか?」と引き続きジャム&ルイスを使うよう諭され、ジャネットは兄のアドバイス通りに事を進めます。そしてアルバム「RHYTHM NATION 1814」はさらなる大ヒットとなり、「マイケルの妹」ではなく「ジャネット・ジャクソン」として、ジャクソン家で唯一マイケルに匹敵する人気を得る存在になったのです。ジャネットはこのアルバムで、兄のようにメッセージ性を持つ社会派の作品を作ることを望んだそうで、「Rhythm Nation」のSFにもマイケルの強い影響が見られますね。またマイケルも妹の成功を喜びつつ、「DANGEROUS」に向けて大きな刺激となったわけです。ですから私の中では、同じNJS系のメッセージ・ソングとして「Rhythm Nation」と「Jam」は兄妹のようなイメージを持っています。)
そういえば先ほど出てきたR・ケリーも、この頃NJSのサウンドを模倣してブレイクしていますね。彼はこの後「HIStory」でマイケルからお呼びがかかります。
またテディは、解散直前のジャクソンズのアルバム「2300 Jackson Street」(1989年)なんかにもプロデューサーとして参加しています。収録曲の中には、マイケルを含む兄弟姉妹8人が集結した曲もあるんですね。(マイケルは9人兄弟ですが、この時お騒がせ娘の姉ラトーヤが、ヌード写真を出したり様々な奇行により家族から総スカンを食らっていた為不参加。)残念ながらマイケル脱退後ジャクソンズの人気は復調することなく、アルバムセールスは不振に終わっています。
テディプロデュース、The Jacksons「She」↓
ヴォーカルはマイケルの弟ランディです。
https://youtu.be/VcNKmSo0reE
「DANGEROUS」アルバムの制作に入る時点で、ミュージックシーンはあっという間に「どこもかしこもNJS」といった具合に急激に変化し、メインストリームになっていました。
マイケルは90年の6月から1年半を掛け、テディ・ライリーを独占状態でアルバム制作をしていたわけですが、テディ不在の間にも業界ではNJSがどんどん模倣されていました。
マイケルは、始めからアルバム完成までに1年を掛ける想定ではいたそうですが、完全に「後追い」状態でNJSのサウンドを取り入れることに不安は無かったのでしょうか・・・・・?
そして当時は、NJSと相まって日本でもものすごいダンス・ブームだったのですが、その頃「キング・オブ・R&B」と言われていたボビー・ブラウンの真似をする「ボビ男」と、ダンスとラップを同時にやって一世を風靡したMCハマーの真似をする「ハマ男」が日本で社会現象になりました。懐かしいですね(笑)
ボビー・ブラウンの大ヒット曲「My Prerogative」(1988年)
テディ・ライリーのプロデュース↓
https://youtu.be/tA4qkCw2v3s
MCハマーといえば「U Can't Touch This」(1990年)↓
https://youtu.be/otCpCn0l4Wo
とんねるずのパロディ↓
https://youtu.be/_vKgt8tNJGs?list=PL93LkYC0ndaVir_pY5LxsMxJ8ixjw9k2g
昔のテレビは面白かったですね(笑)最後にご本人登場ってのが、凄いバブリーな雰囲気満載です。
元ネタは、先ほど出てきたリック・ジェイムスの曲「Super Freak」(1981年)でした↓
https://youtu.be/QYHxGBH6o4M
プリンス殿下ではありませんよ念のため。(実際にプリンスはリックの前座を務めていました。)
実は私、MCハマーの曲に元ネタがあるということを長い間知らなくて、リック・ジェームスという人の存在を10年前くらいに初めて知ったのですが、そのきっかけが中古店でジャケ買いしたこれ↓ でした。
聴いてみると、どファンクなサウンドで当たりだと喜んだのですが、そもそも彼はジェームス・ブラウンやスライから影響を受けていたそうなんですね。さらに動画を漁っていたところで「Super Freak」を見つけたわけですが、意外に可愛らしいウインクにキュンときて(笑)完全にハマってしまいました・・・。上の動画にちらっとテンプテーションズが登場することからわかると通り、彼はなんとモータウンのアーティストでした。ヒットを飛ばしていたものの品行方正とは程遠く、ドラッグをやりながらの監禁プレイで女性を怪我させて逮捕されるなど、あまりの素行の悪さにベリー・ゴーディを度々激怒させていたそう。そんなところもファンキーですね。
リックはMCハマーのサンプリングに憤慨したそうですが、使用料ががっぽり入ることを知って満足したとか・・・・(笑)そういえばリックが歌う女性像って、マイケルの「Dirty Diana」と全く同じですね。
MCハマーの「U Can't Touch This」はサウンドがNJSなのですが、この元ネタからのドラムサウンドの変化で分かりますね。
ところでMCハマーといえば、マイケルがいよいよアルバム発売となったときに、「俺様がムーンウォーク野郎を打ち負かしてやるぜ!」と言ってマイケルにダンス対決を申し込んだのを思い出します。「俺たちが対決すれば、お互いのアルバムの良い宣伝になるだろ」と大口を叩いたのですが、「U Can't Touch This」(お前は俺様にはかなわねえ)の曲名も相まって、マスコミの恰好のネタになり騒がれました。
実際に、MCハマーがマイケルの眼中に入っていたのかはわかりませんが・・・・。
10代や20代のファンの方には、その当時の雰囲気がイメージしにくいと思うのですが、懐かしい動画を見つけたのでこちらをどうぞ↓
これも「とんねるずのみなさんのおか〇でした」のコントですね。
https://youtu.be/tjjACosnW7Q
「あんなの騒いでるだけ、あっという間に消える。積み重ねてマイペースでやったものの勝ちポー!!」と言う、ノリさん扮するマイケルのセリフがいいですね(笑)
MCハマーの宣戦布告に対して、マイケルの広報スタッフは「MCハマーがやっているステップのほとんどは、マイケルが開発したものだ。相手にならないよ。」と鼻であしらい、マイケル本人に至っては完全無視でした・・・・・。何か一言言ってあげればよかったのに(笑)
MCハマーの勢いはほどなくして失速し、散々贅沢したおかげで自己破産してしまったようです。
でもこの人、90年にアルバムを何と1,000万枚も売ってるんですよ。同じ年にマドンナも同じ1,000万枚、そしてこの年に鮮烈デビューしたマライア・キャリーが900万枚ですから凄まじいです。確かに「U Can't Touch This」 はどこでも流れていましたし、教室でみんな真似してカニ歩きしてましたもん・・・・・。ムーンウォークは難しいですけど、カニ歩きは誰でも出来るんですよね。
ラップの腕前はというと、曲の後半を聴いてわかる通り残念な感じですが・・・・とにかくあのファッションとユニークなダンスであっという間にお茶の間まで浸透したのです。
マイケルにとって、この頃のライバルの一人が彼だったということは、もしかすると言い過ぎではないのかもしれません・・・・・。
(これは余談ですが、上の動画のマイケルの整形や肌の色についての扱いには気分を害される方もいらっしゃるでしょう。当時日本はバブル絶頂期で、テレビ業界もモラルは二の次で面白ければ何でもありというお祭り状態でした。人種差別についても意識が低く、顔を茶色く塗ることに何の抵抗もない時代でした。モノマネも、マイケルに限らず本人に遠慮が無く、とにかく全てが過剰だったんですよね。そんな時代ですから、マイケルの肌が変化した時に病気の可能性に配慮することなど、到底できるような風潮では無かったのです。整形についてはまあ事実だし、ブラック・ジョークということで良いんじゃないでしょうか。何より、マイケルのルックスだけをネタにしていた芸人なら話は別ですが、とんねるずの場合は、素人ながらしっかりダンスの練習をして、最後にはちゃんと「やっぱりマイケルカッコいいよね」と思えるコントを作っていました。ワイドショーでコメンテーターが平然と批判するのとは違いますし、私は肌のことは聞き流して楽しく観ていました。)
話が逸れてしまいましたが・・・・・そもそも「ヒップホップ」とは何を表すのか?ということですが、「ヒップ」とは「イケてる」みたいな感じのスラングで、「ホップ」は「跳ねる」ですね。
(30代~40代の方はお分かりいただけると思うのですが、ちょうど90年頃「ホッピング」っていう、竹馬にバネが付いたようなぴょんぴょん飛び跳ねる玩具、流行りましたよね?)
上のGUYのSFを見てもわかるのですが、軽快な、飛び跳ねるようなダンスのスタイルが「ホップ」の意味と繋がりますよね。他にも壁にスプレーを吹き付けて文字を書くグラフィティやファッションなど、いくつかの要素をひっくるめて「ヒップホップ文化」として認識されています。
NJSとは音楽のスタイルを指すわけですが、当時流行ったこのダンスのスタイル自体をNJSということもあります。
ちなみにマイケルはヒップホップについて、音楽は好きだがダンスは好きはでない、と言っています。その理由は本人曰く、「エアロビクスしているように見えるから」ということだそうですが・・・・(笑)そんなこと言われたらもう、皆でエクササイズしているようにしか見えなくなっちゃうから止めてください(笑)
(マイケルのダンススタイルをあえて言うならば、ポップダンスですね。「Pop」とは「弾ける」という意味で、筋肉が弾けるようなイメージなのだそうです。ガムを膨らませて弾けさせるのも英語で「Pop」と言いますね。)
音楽、ダンス、ファッションが絡んだかつてないほどのムーヴメントがおこり、テディが開発したNJSのサウンドはやみくもに量産され質が伴わないものも多く出回り始めたのですが、そんな中で1991年、ついにマイケル・ジャクソンが待望のアルバムを発売します。
本家テディ・ライリーのNJSは「キング・オブ・ポップ」のモンスターアルバム「DANGEROUS」に丸飲みされ、かつて「ブラック・コンテンポラリー」としてマイケルの「THRILLER」により頂点に立ったブラック・ミュージックは、「ニュー・ジャック・スイング」に形を変えて再び世界の隅々まで行き渡り、大衆音楽として正式に認知されることになります。
「DANGEROUS」は3,300万枚を売り上げ、アルバム史上15位の記録となります。(1位は「THRILLER」の1億枚超えですね。)
マイケルは、このアルバムの収録曲14曲中、「Jam」「Why You Wanna Trip On Me」「In The Closet」「She Drives Me Wild」「Remember The Time」「Can't Let Her Get Away」「Dangerous」の7曲でテディと共同でプロデュースを行っています。
「DANGEROUS」発売当時33歳になっていたマイケルは、クラブ・シーンを動かす10代、20代の若者との世代間ギャップを、テディ・ライリーという若いプロデューサーのサウンドを上手く利用し、自分の能力と掛け合わせることで克服したのです。
(とはいえ、シングルとして一番売れたのが、テディの関わっていない「Black Or White」だというのがマイケルの面白いところですね。アルバムからの先行シングルであったこの曲は、ニューヨークのラジオ局一社に数日間独占放送させた為、他のラジオ局から「早く使わせろ」とSONYに抗議が殺到しました。さらにこの曲の衝撃で、輸送中のアルバムが空港で強奪されたり、物凄い騒ぎになりました。)
マイケル・ジャクソンとテディ・ライリーのタッグともなると、やはりそのクオリティはまがい物のNJSとは比べものにならないほど洗練されていますね。「DANGEROUS」というアルバムによって、マイケルはNJSの有効性を独自のアプローチで示し、その価値をさらに高めたように思います。
当初、テディのNJSがどれくらい採用されるかということは、テディにもマイケル本人にも未知数だったといいます。実際に、マイケルはベイビー・フェイスやビル・ボットレイルなど他のプロデューサーとも曲作りをしていましたし、自身も多くの曲を制作していました。しかし最終的にアルバムの半分をNJSが占めたわけですから、相性の良さが伺えますね。
しかし「キング・オブ・ポップ」のアルバムの成功は、同時にNJSが出発地点であったストリートからは最も離れた存在になったということも意味しています。
その為、1987年に始まった「ニュー・ジャック・スイング」のムーヴメントは、テディ最高傑作と言われる「DANGEROUS」の「Remember The Time」で頂点を迎え、同時に終焉へと向かったとする見方がありますね。
「Remember The Time」は、ドラム・サウンドよりもむしろベース・ラインが一番強くグルーヴを作っているように思えます。この曲では生のジャズ・ベースが使われていますが、テディは「これこそまさにR&B」であり、「マイケルは作曲の美しさを僕に教えてくれた人」と話しています。
テディはヒップホップに触れて育ったドラム・マシーン時代の産物ですから、ソングライティングの方法について、マイケルと世代間ギャップがあったのだそうです。
テディはコンピューターでバック・トラックを作るところから始めるわけですが、マイケルはとりあえずピアノに向かってメロディーを作り、ビート・ボクシングでアレンジを考えてレコーダーに自分で録音し、それからスタジオに行くという昔からのやり方を通していました。
その為マイケルとの仕事初日、テディは自作のトラックをいくつかマイケルに聴かせると、すぐにピアノのある部屋に連れて行かれたのだと話しています。テディは「バック・トラックから作る音楽はダメなんだよ」と言われたのだそうです。
しかしテディはかなりピアノを弾くことが出来た為、自作のトラックのコードをピアノで弾いたのだそうです。すると、気に入ったマイケルが歌いながらメロディーをつける。そして更に気分がノッて来てビート・ボクシングを始めると、曲の「骨格」が出来上がる。テディはそこで初めて、マイケルの要望によりスタジオに向かいNJS色を合わせたのです。
そうして出来たのが「Remember The Time」でした。
一方「Jam」では、レコーディング・エンジニアのブルース・スウェディンらが作ってきたドラム・サウンドがベースになっていて、マイケルがそこにメロディーを付けた後でテディのNJS色が加えられたということを、前回紹介しましたね。
そのビフォー・アフターを比べてみたい気がしますが・・・・「Jam」って、バスドラムのグルーヴの揺れ感が物凄いんですよね。ヘッドフォンで大音量で聴いたときの、ズンズンと来る感じがたまりません。
でもマイケルが歌うNJSに関しては、あくまでもマイケルのヴォーカルありきで楽曲が成立しているということは、例えば「Can't Let Her Get Away」の最後で、サウンドが解体されていく様子からもわかりますね。
ファンク全開の弾けるグルーヴの中核にあるのが、テディのNJSからいつの間にかマイケルの声に変化していく様子は、流石としか言いようがありません。
ブリッジ部分で「Are You Ready!? Hoooo!!(準備はいいか!?行くぞー!!」と言ってポコパカ歌い出すと、もうラストまでマイケルの独壇場です。いつもの「ダッ、ダッ、ダッ」も「ドゥッ、ドゥッ」もキレッキレだし、音の粒のどれがデジタルでどれが生声なのか、よく聴かないと判別できないものもあったりするのが面白いですね。マイケルはそこをわざと惑わすように作っているのですが、それがこの曲の何とも言えない楽しさですね。
マイケルが歌入れの際に何気なく入れるフェイクの性能は、リズム・トラックよりも正確だったといいますが、マイケルの声自体がリズムやグルーヴの役割を担うことができるということを、この曲が存分に教えてくれています。
ジェームス・ブラウンを思わせる最高にファンキーなこの曲でも、マイケルはNJSの有効性を示したように思います。
そしてマイケルは「Can't Let Her Get Away」でも「Jam」でも限りなくラップに近いメロディーを歌っているのですが、この時代への適応力はもの凄いですね。
マイケルは、「Remember The Time」のように伸びやかに歌い上げるだけでなく、ビート・ボックスを得意としてスタッカートを多用したメロディー・ラインも好んでいました。前作「BAD」の「Smooth Criminal」とか「Speed Demon」、後の「Tabloid Junkie」も特徴的ですね。
一つ一つの音符を長くせず、細かくリズムを取ることが出来る譜面が向いているということに最初に気付いたのが、「OFF THE WALL」(1979年)でマイケルに数曲を提供したロッド・テンパートンですね。
ロッド・テンパートンは楽曲提供にあたり、マイケルがどういうシンガーかを知る為にジャクソンズのアルバムを聴いたそうですが、アップテンポの曲になるとマイケルのヴォーカルが走ることに注目したロッドは、「マイケル仕様」で作曲したと言います。音符を短くしスタッカートを多用したことでリズムも取り易くなり、マイケル独特のパーカッシヴな歌唱法(「ダッ」とか「パッ」とかフェイクを入れる)が完成したのです。
マイケルは昔、インタビューで「I'm a slave to the rhythm.(僕はリズムの奴隷なんだよ)」と言っていたのが印象的でしたが、マイケルはそれ故に、ラップ調のメロディーでもリズミカルに畳みかける独特な歌唱法になったんですね。
そのスタイルは後から続くR&Bシンガーも模倣していったわけですが、でもああいった感覚は真似しようと意識して捉えられるものではないし、さらにマイケルのように強い感情表現を織り込んで声自体がメッセージであるような質感を持つものには、今もなかなかお目にかかることはできませんね。
こういった曲はちゃんとCD音源で、大きいスピーカーかヘッドフォンで聴かないと全ての音の粒を聞き取るが出来ないわけですが、マイケルは同業者もびっくりして逃げてしまうほどの大音量で聴くのが常だったそうです。
マイケル自身も、そのことについて2001年に話しています。
「僕は音楽を大音響で聴くのが大好きなんだ。それにインターネットや小さなスピーカーを通して聴いても、同じようなパンチは得られない。だから君達も、CDを買わなきゃダメだよ。本物のパンチを聞き分けるためにはCDを買わなきゃ。そりゃとんでもない違いだよ。比較にならないほどさ。小さなスピーカーシステムじゃ、全ての音を聞き取ることはできないからね。」
そしてもちろん、ブルース・スウェディンの功績も忘れてはいけませんね。どれだけの労力をかけていい音を集めても、エンジニアが行う最後のトラックダウンがアルバムの良し悪しを左右するのですから。
ブルースは、「Jam」でグラミーのベスト作曲賞にマイケルらと共にノミネートされ、アルバム「DANGEROUS」では見事ベスト・エンジニア賞を受賞しています。(ベスト・エンジニア賞は、「THRILLER」「BAD」でも受賞。「HIStory」ではノミネートです。)
マイケルのアルバムの音が良いのは当然ですね。
ところでテディ・ライリーは、この後再び「INVINCIBLE」(2001年)でマイケルのパートナーとなり、「Heaven Can Wait」「2000 Watts」「Don't Walk Away」「Whatever Happens」といった楽曲を共作、プロデュースしています。
「INVINCIBLE」にはテディの弟子的存在であったロドニー・ジャーキンスも起用されているのですが、ロドニーについてはそもそもマイケルの方から声を掛けたわけでは無く、人を介して「会いたい」と懇願されて、「電話一本掛けてやってくれないか?」と頼まれたのがきっかけなんだそう。ロドニーは「Remember The Time」が大好きなんだと言っていましたね。
マイケルはロドニーの起用を決めると、「もっと革新的にならないとダメだ」と言ってプッシュしたのだそうです。「押して押して、押しまくった」と。
マイケルは「彼は忍耐強いんだよね」と言っているので、よっぽどイジメたんでしょうね(笑)。
でも10年前の「DANGEROUS」の時には、テディとの間にはこういうエピソードはなかったようですね。
マイケルはいつもテディに、「この曲、もう完成してると思う?」と訊き、テディは「大丈夫、完成してるよ」と言っていたのだそうです。テディがそう言ってくれないと、マイケルは永遠と作り続けますからね・・・・(笑)
テディについてマイケルは、「彼と仕事をするのは好きなんだ。いい奴なんだよ。」と言っています。
マイケルは、テディ・ライリーというプロデューサーの力を借りてシビアな時代の流れにしっかり乗りつつ、「あくまでもマイケル・ジャクソンである」という絶妙なバランス感覚で「DANGEROUS」を成功させました。
80年代後半から90年代前半にかけて大きなムーヴメントとなったNJSですが、現在もそのサウンドは完全に消え去ったわけでは無く、最近もマイケルのフォロワーであるビヨンセやブルーノ・マーズなどによって再び光が当てられています。
ヒップホップとR&Bを結びつけたテディ・ライリーの功績は、とても大きいと言えますね。
今日は最後におまけ映像のご紹介。
とんねるずのコントから「マイケルとバブルス君来日」↓
https://youtu.be/4dbUDUTeN2o
「とんねるずMJ 『MOONWALKER』」
(※モバイルデバイスでの再生が制限されているようなので、PCからしか観られないようです。)
元ネタがこちら↓「マイケルとバブルス君大阪市役所訪問」
https://youtu.be/k_lcmcNthAU
「1987 Michael and Bubbles MOONWALK」
こちら↓ には私のお気に入りの「Balck Or White」パロディあり
https://youtu.be/TJ2bds8zZVY
「追悼 マイケルジャクソン Michael Jackson とんねるず」
(※こちらもモバイルデバイスでの再生が制限されているようなので、PCからしか観られないようです。)
※次回は、「Privacy」を予定しています。
この記事へのコメント
はるちゃん
とも
難しい曲なので自分では理解できなかったのですがテトさんのお陰で長年の疑問が解消されて、一言感謝のコメントをと思い失礼しました。
JAMについても楽しく読ませていただきました。長文書かれるのはご苦労だと思いますが、これからも楽しみにしています。
テト
テト
ちた
とんねるず面白かったです!!(←そこ?)
どのパロディもマイケル愛を感じられてクスッと笑えるのがいいですよね。懐かしくて嬉しかったです。
バブルスをたしなめるギャグとかマイケル好きじゃないと思いつかないですよね!w あのマイケルのしぐさ、大好きです。
音楽の歴史や流れを知りたくて独自に調べたことがあります。その中でスティーヴィー・ワンダーやマービン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ、スライを好きになってよく聴いていました。テトさんの記事でジェームス・ブラウンも聴いてみようと思いました。
ドラムの解説もうれしかったです。スネアって言葉、よく聞くけど理解できなかったのでw
まだ観ていない動画もあるしNJS についてもっと知りたいので何回も読みます。いつも本当にありがとうございます!
あ、リック・ジェイムスをジャケ買いとかウィンクにキュンとか、テトさん許容範囲広いな~と思いました!
しんじろう
先日こちらのブログさんをたまたま通りかかりまして、JAMについて興味深く読ませて頂きました。
実は僕は長年プリンスのファンでして、正直言いましてマイケルはなんと言うかBADの時点でお腹一杯だったんですね。まあマスコミがゴシップ流しすぎたせいもあるんでしょうけども。マイケルはクインシーまでだろ、と思っていました。(皆さんお気を悪くされたら申し訳ない)しかし最近マイケルをちゃんと聴いてみようかなと思ってデンジャラスに手をつけたところです。JAM とDANGEROUS 、爆音で聴くと音が最高ですね。あとcan't let her get awayも。食わず嫌いでしたが、これから聴き込んでみたいと思っています。
ちなみにこちらの記事でプリンスについてちらっと触れられていらっしゃいますが、テトさんはプリンスはお嫌いですね?あの世界観は、駄目でしょうか?笑
マイケルとプリンスは、実は友達だったと言う話がありますね?プリンスのスタッフがプリンスの家に行ったら、そこにマイケルがいてビビったという話がありましたが、同い年だし何か通じるものがあったんでしょうかね・・・・・。今は二人とも居ないのが残念ですが。
とりとめもない話を失礼ししました。
またお邪魔します。
しんじろう
まるまる
テト
マイケルのアルバムでも「BAD」まではほとんど生ドラムなので、そこに注目して聴くのも楽しいですね。
あのジャケットのリック・ジェームス、ものすごく野性的でセクシーじゃないですか?私だけ?(笑)
テト
テト
お勧めアルバムですか・・・・。実は私もあまりジャネットは聴く方じゃないのですが(笑)もしまだジャネットのアルバムをあまりお持ちでないなら、マイケル没後に発売された「THE BEST」という2枚組のベスト・アルバムは如何でしょうか?これは何らかの形でナンバー・ワンを獲った楽曲が収録されていて、「Rhythm Nation」はもちろんマイケルとの「Scream」も入っています。さらにボーナス・トラックとして新曲だった「Make Me」も入っていますが、これはマイケルへのオマージュ作品で、「Don’t Stop ‘Til You Get Enough」がサンプリングされています。プロデューサーもマイケルの遺作を手掛けたロドニーを採用していますね。しかもこのMVの世界観は「Scream」によく似ています。「Don’t Stop~」と同じくダンス・フロアの為の曲で、歌い方もマイケルそっくり、兄への愛の詰まった曲です。個人的には、ジャネットの楽曲で一番好きなのはダントツで「Someone To Call My Lover」ですね♪
しんじろう
DIAMONDS AND PEARLSって、まさにプリンスにとって転換期のアルバムなんですよ。このアルバムの前に、プリンスがマイケルに「路線を変えようと思う」という話をしたという逸話があります。僕は80年代初期からずっとプリンスを聴いていたのですが、このアルバムに幻滅してプリンスから離れた友人も随分いました。「プリンスがラップやっちゃダメだろう!」と。2000年代に入って戻ってきた人もいますがね。テトさんがおっしゃる通り、プリンスもマイケルもあの状況で90年代に生き残るために、ヒップホップを取り入れざるを得なかったんでしょう。二人ともラップ調の歌メロに挑戦しているわけですが、マイケルは完全に自分のモノにしてる。そりゃ、売れるわけだ(笑)でも、プリンスはもともと色物扱いでしたがサウンド的にも唯一無二の魅力があって、粘っこい中毒性が強みだったんですよ。それなのに中途半端な感じでラップに手を出した為に、90年代の低評価に繋がったのだと思います。「Gett Off」も、序盤は期待させる感じなのに後半がつまらないというか、次第にダサく感じるんですよ。テトさんがおっしゃるのはそういうことではないですか?まあ、あの時無理にでも流れに乗らなかったらその後生き残れたか分からないわけですから難しいのですが。ただ皮肉なことにプリンスの90年代で一番売れたのがこのアルバムで、それまでプリンスなんて気色悪いぜ、とそっぽ向いてた新しい層を取り込んだという側面もあるんです。良くも悪くも「聴き易く」なっちゃった。だから3121が出た時は歓喜しましたよ(笑)プリンスの音楽はマイケルと違って一貫性が無いので、ファンの中でもどこから入ったかでアルバムの評価が大きくブレるわけですが、初期から聴いていた僕としては、頑固ですが80年代が最高なんですよ。・・・・なんだか突然お邪魔して長々と失礼しました。
テト
まるまる
テト
「Scream」は、ジャム&ルイスがベースになるものを作って、そこにマイケルとジャネットが一緒に歌詞などを付けたものですね。
ジャム&ルイスにマイケルから直接「妹と一緒に歌える歌を書いてほしい」と依頼が来たそうです。それで、彼らは5パターン用意して、それを全部ジャネットが先に聴いていたそうなんですね。
そしたらその中で一つ、ジャネットが「お兄ちゃんが選ぶのは絶対これよ。」と言ったのがあって、それがまさに「Scream」になったあのトラックだったそうです。ジャネットはジャム&ルイスに「お兄ちゃんのことは何でもわかるもの。」と言ったそうですから、仲の良さが伺えますね。
ちなみに、ジャネット自身が一番気に入ったのは別のもので、それはいつか一人で歌いたい思っていたそうです。「きっとお兄ちゃんはこれは選ばないから大丈夫。」と。それが確か「Runaway」だったと思います。
綾子
テト
私も観ましたよ!良かったですよね。マイケルもちらっと出ていたし(笑)。フレディ役の俳優さんの顔に慣れるのにちょっと時間掛かりましたが・・・・・(そこまで前歯強調するか?っていう。笑)、ブライアン役が本人に瓜二つでビックリしません?仕草とかギターの弾き方も本人にしか見えなかった(゜ロ゜)
個人的にはQUEENといえば「Another one Bites The Dust」なので、それも出てきて満足でした(*^-^*)でも流石に2時間の映画だと「マイケルに提供するはずだった云々」の話までは出てきませんね。
リック・ジェイムス流れてましたね!やっぱりああいうシーンに流す音楽なんだなーと笑っちゃいました。
綾子
JAMの記事見ていて思い出したのだけど今年売れた「USA」のダンスに 、MCハマーのカニ歩き出てきますね!テトさんあのPV見ました?あれ聞くと頭から離れなくなっちゃうーー笑
しかも、ダンスが上手いからつい見ちゃうのー!
テト
もしも当時、「マイケルは歌いたかったのに、クインシーというおじさんがダメって言ったんだよ。」とか父に吹き込まれていたら、多分クインシーのことが大っ嫌いになっていたと思います。いや、実は今も根に持っていますが(笑)。
「U.S.A.」もちろん知ってますよ。MCハマーは、30代以上じゃないとわからないでしょうね・・・・(笑)。
私は確かISSAと同じ歳なので、大怪我を乗り越えて、よくあそこまで戻して再ブレイクしたなと、そういう意味で感動しました。武道館ライブまでやった人が、ショッピングセンターでどさ周りしてましたからね・・・。元々歌もダンスも上手い人ですから、次は本気のR&Bを披露して、実力ひけらかして欲しいなと期待してます。
綾子