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タリバン
Taliban(注1)

アフガニスタンで活動するスンニ派過激組織。アフガニスタン政府や同国駐留外国軍を主な標的としてテロを実行。

別称:
①「アフガニスタン・イスラム首長国」(The Islamic Emirate of Afghanistan,Emarat-e Eslami-ye Afghanistan, Da Afghanistan Islami Imarat) (注2),②「アフガニスタン・タリバン」(Afghanistan Taliban, Afghani Taliban),③ Taleban

(1) 設立時期

1994年11月(注3)

(2) 活動目的・攻撃対象

ア 活動目的

駐留外国軍の撤退及び「米国の傀(かい)儡(らい)」とみなすアフガニスタン現政権の打倒を当面の目標とし,その後,「アフガニスタン・イスラム首長国」による政府を樹立し,シャリーアに基づく統治体制の確立を目指す。

イ 攻撃対象

主な攻撃目標として,声明などで,①駐留外国軍及び外国公館,②アフガニスタン国軍,警察及び情報機関,③政府高官,国会議員,④外国人,などを挙げている。

(3) 活動地域

アフガニスタンのほぼ全域で活動が見られる。また,「タリバン」幹部の多くは,パキスタン南西部・バルチスタン州クエッタ,北西部・カイバル・パクトゥンクワ(KP)州ペシャワールなど,パキスタン側のアフガニスタンとの国境地帯に潜伏しているとされる。

(4) 勢力

総数は,約6万~6万5,000人(注4)とされる。「タリバン」が支配し又は影響力を有する地域やパキスタンのマドラサ(イスラム神学校),難民キャンプなどから戦闘員を確保しているほか,国軍兵士や警察官など戦闘経験を有する者を積極的に勧誘しているとされる。

(5) 組織・機構

ア 指導者,幹部等

(ア) ハイバトゥッラー・アーフンドザーダ(Haibatullah Akhundzada)
別名:
ムッラー・ハイバトゥッラー・アーフンザーダ(Mullah Haibatullah Akhunzada),マウラウィ・ハイバトラ・アクンドザダ(Mawlavi Haibatullah Akhundzadah), シェイフ・サーヒブ・ハイバトゥッラー・アーフンザーダ( Sheikh Sahib Haibatullah Akhunzada), ハイバトッラー・アーホンドザーデ( Haibatollah Akhondzade)など

最高指導者(三代目)。1967年10月19日生まれ。アフガニスタン南部・カンダハール州出身。パシュトゥン人ドゥッラーニー部族連合ヌールザイ族の出自。ソ連軍のアフガニスタン侵攻を受け,一家でパキスタンに移住し,同地で宗教教育を受けた。2016年5月,「タリバン」最高指導者アフタール・モハンマド・マンスール(後述)の死亡に伴い,副指導者から最高指導者に就任し,「アミール・ウル・モミニーン」(「信仰者たちの指導者」)の地位を継承。

同人は,宗教学者で戦闘経験は少ないものの,長く宗教教育に携わった経歴を持ち,多くの教え子が戦闘員となっていることから,「タリバン」内で広く尊敬されているとされる。「タリバン」政権下では,司法委員会委員長として,「タリバン」の戦闘行為を正当化するファトワ(法学裁定)の大半を発行した。

(イ) モハンメド・オマル(Mohammed Omar)(死亡)
別名:
ムッラー・モハンマド・オマル(MullahMohammedOmar),ムハンマド・ウマル(Muhammad Umar)

設立者・初代最高指導者。1960年生まれ。カンダハール州ハクリーズ郡出身(注5)。パシュトゥン人ギルザイ部族連合ホタキ族の出自。

ソ連のアフガニスタン侵攻に対する「ジハード」が活発化した1980年代,カンダハール州マイワンド郡シンゲサルでマドラサを開いたとされる。1994年11月,同州で「タリバン」と称するグループを設立し,州都カンダハールを制圧した後,1996年には首都カブールを制圧し,「タリバン」政権を樹立した。

2001年12月,米軍主導の連合軍によって「タリバン」政権最後の拠点となったカンダハールが制圧された後は,パキスタン南西部・バルチスタン州都クエッタ,南部・シンド州の州都カラチなどに潜伏していたとされるが,2013年4月に死亡していたことが2015年7月に明らかになった。

(ウ) アフタル・モハンマド・マンスール・シャー・モハンマド(Akhtar Mohammad Mansour Shah Mohammad)(死亡)
別名:
アフタル・ムハンマド・マンスール・ハーン・ムハンマド(Akhtar Muhammad Mansor Khan Muhammad)など

前最高指導者。1968年生まれ。カンダハール州出身。パシュトゥン人ドゥッラーニー部族連合イシャクザイ族の出自。2015年7月,最高指導者オマルの死亡発表に伴い,最高指導者及び「アミール・ウル・モミニーン」の地位を継承。「タリバン」政権下で航空・運輸相,カンダハール州空軍司令官を務めた。2010年2月にアブドゥル・ガーニ・バラーダル副指導者がパキスタン当局に拘束された後は,同人の後任の一人として,「指導者評議会」を主導した。

2015年6月,「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)最高指導者アル・バクル・アル・バクダディに対し,「タリバン」副指導者兼「指導者評議会」責任者の肩書で,アフガニスタンに関与しないよう求める書簡を発出した。2016年5月,パキスタン領内で実施された米軍の空爆を受けて死亡した。

(エ) シラージュッディン・ジャラーロウディン・ハッカーニ(Sirajuddin Jallaloudine Haqqani)
別名:
シラージュッディーン・ハッカーニー(Sirajudin Haqqani),シラージ・ハッカーニ(Siraj Haqqani),セラージュッディン・ハカニ(Serajuddin Haqani),サラージ・ハカニ(Saraj Haqani),ハリファ(Khalifa)など

副指導者の一人(2015年7月就任)。1973~1978年の生まれ。パキスタン北西部・KP州北ワジリスタン地区ミランシャー又はアフガニスタン南東部・パクティア州出身。パシュトゥン人カルラニ部族連合ザドラン族の出自。「ハッカーニ・ネットワーク」(HQN)(後述)指導者も務める。

20代前半までは目立った活動はなかったが,その後,積極的に武装闘争に関与してきたとされ,現在も「アルカイダ」との関係を維持しているとされる。

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2007年9月,同人を制裁対象に指定した。

(オ) モハンマド・ヤクーブ(Mohammad Yaqoob)
別名:
ムッラー・ムハンマド・ヤアクーブ(Mullah Muhammad Yaqoob/Yaqoub/Yaqub),エミール・ムッラー・ヤクブ(Emir Mullah Yaqub)

副指導者の一人(2016年5月就任)。1990年生まれ。「タリバン」初代最高指導者オマルの息子。

2015年7月,マンスールの最高指導者就任に反発して,叔父アブドゥル・マナン(Abdul Manan,初代最高指導者オマルの弟)と共に指導部と距離を置いていたが,後にマンスールと和解した。2016年5月,マンスールの死亡に伴い,副指導者の一人に就任した。

(カ) ムッラー・アブドゥル・ガニ・バラーダル(Mullah Abdul Ghani Baradar)
別名:
ムッラー・アブドゥル・ガニー・バラーダル(Mullah Abdul Ghani Baradar),ムッラー・バラダール・アーフンド(Mullah Abdul Akhund)

政務担当副指導者兼在カタール政治事務所代表(2019年1月24日就任)。1968年生まれ。アフガニスタン南部・ウルズガン州出身。パシュトゥン人ドゥッラーニー部族連合ポパルザイ族の出自。「タリバン」政権下で防衛副大臣を務めた。

「タリバン」設立者の1人であり,2001年以降,最高指導者(当時)オマルが潜伏していたことから,副指導者としてその任務の多くを代行していたとされる。

2010年2月にパキスタン当局に拘束されたが,2018年10月に釈放された。

「タリバン」は,声明で同人の政治事務所代表就任を「米国と進行中の交渉を強化し,適切に対処するために採られた措置である」と発表した。

(キ) モハンマド・ラスール・アーフンド(Mohammad Rasul Akhund)
別名:
アユーブ・モハンマド・ラスール(Ayyub Mohammad Rasul),ムッラー・モハンマド・ラスール・ヌールザイ(Mullah Mohammad Rassoul Noorzai)

「タリバン」反主流派「アフガニスタン・イスラム首長国高等評議会」指導者。1958~1965年の生まれ。カンダハール州又はアフガニスタン西部・ファラ州出身。パシュトゥン人ドゥッラーニー部族連合ヌールザイ族の出自。「タリバン」設立当初から,最高指導者(当時)オマルの信任が厚く,「タリバン」政権では,アフガニスタンの南部・ニームローズ州及び西部・ファラ州の州知事を務めた。「タリバン」政権崩壊時にイランへ逃亡したが,政権崩壊後もオマルと緊密な関係を保っていたとされる。

2015年11月,マンスールの最高指導者(当時)就任に反対する勢力によって,同「評議会」指導者に選出された。現在,パキスタン当局に拘束されているとされる(注6)

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2001年4月,同人を制裁対象に指定した。

(ク) アブドゥル・カビール・モハンマド・ジャン(Abdul Kabir Mohammad Jan)
別名:
マウラヴィ・アブドゥル・カビール(Maulavi Abdul Kabil),A・カビール(A Kabir)

「指導者評議会」メンバー。1963年頃の生まれ。アフガニスタン北東部・バグラーン州又は南東部・パクティア州出身。パシュトゥン人カルラニ部族連合ザドラン族の出自。

「タリバン」政権下で,閣僚評議会第二副議長(経済担当),東部・ナンガルハール州知事,東部地区作戦司令官などを歴任した。

HQNと強い関係を持つとされる。これまで,パキスタン当局に2回(2005年,2010年)拘束されたが,いずれも釈放されている。

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2001年2月,同人を制裁対象に指定した。

(ケ) シェール・モハンマド・アッバス・スタネクザイ(Sher Mohammad Abbas Stanekzai)

在カタール政治事務所副代表。1963年生まれ。アフガニスタン中央部・ローガル州出身。パシュトゥン人ギルザイ部族連合スタネクザイ族の出自。「タリバン」政権下で外務副大臣及び保健副大臣を務めた。

2001年の「タリバン」政権崩壊後は目立った活動はなかったが,2012年,在カタール政治事務所設立のため,カタールに渡った後,同政治事務所設立とともに副代表に就任した。その後,2015年8月にタイヤブ・アガ政治事務所代表が辞任したことから,代表代行に就任し,同年11月,正式に代表に就任した。その後,2019年1月に,バラーダルの「タリバン」副指導者及び同事務所代表就任と同時に,副代表に戻った。

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2001年2月,同人を制裁対象に指定した。

(コ) アブドゥル・ワセイ・ムタシム・アガ(Abdul Wasay Mu'tasim Agha)
別名:
ムタシム・アガ・ジャン(Mutasim Aga Jan),アガ・ジャン(Agha Jan),アブドゥル・ワセイ・アガ・ジャン・モタセム(Abdul Wasay Agha Jan Motasem)

元政治委員会委員長,元財務委員会委員長。湾岸諸国における資金調達役であったとされる。1968年又は1971年生まれ。カンダハール州出身。「タリバン」政権下では財務大臣に就いた。最高指導者(当時)オマルとは義理の親子関係にあるとされる。

「タリバン」内部で,武装闘争よりも政治的アプローチの必要性を主張していたことから,2011年8月頃,パキスタン南部・シンド州カラチで,「タリバン」内の強硬派に銃撃された後,全役職を解任され,療養先のトルコを拠点に活動していたとされる(注7)。2014年4月には,滞在先のアラブ首長国連邦(UAE)で,同国当局に拘束され,アフガニスタンに送還された。

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2001年2月,同人を制裁対象に指定したが,和平交渉に向けた動きを推進させるためとして,2012年7月,同人に対する制裁を解除した。

イ 組織形態・意思決定機構

最高指導者の下に,意思決定機関として「指導者評議会」(別名「クエッタ評議会」,「クエッタ・シューラ」),執行機関として軍事委員会,財政委員会などを設置しているとされるが,初代最高指導者オマル死亡後の後継者問題から,組織の分裂が進んでいるとされる。

(ア)指導部
a 最高指導者など

最高指導者ハイバトゥッラー・アーフンドザーダの下,現在は,シラージュッディーン・ハッカーニ,モハンマド・ヤクーブ及びムッラー・アブドゥル・ガニ・バラーダルの3人の副指導者が配置されている。バラーダルが政務担当として,米国との和平交渉を含む外交を担当し,シラージュッディン・ハッカーニが軍事や財政など主要委員会を支配下に置いており,最高指導者ハイバトゥッラー・アーフンドザーダの影響力は限定的とされる(注8)

b 「指導者評議会」

意思決定機関である「指導者評議会」は,15人前後の幹部で構成されているとみられる(注9)。これまでパシュトゥン人(注10)のみで構成されていたが,2015年11月,タジク人,ウズベク人,トルクメン人のメンバーが加わったとされる。

(イ) 各派閥

主な派閥は以下のとおりである(注11)

a 「ハッカーニ・ネットワーク」(HQN)(注12)

最強硬派グループであり,独自にテロを計画・実行しているとされる。「タリバン」副指導者シラージュッディン・ハッカーニが指導者を務めており,構成員は最大1万人とされ(注13),アフガニスタン国内には2,000~5,000人が活動しているとされる。パキスタン北西部・KP州北ワジリスタン地区ミランシャーに拠点を構えており,アフガニスタン南東部及び中央部で活動している。

b ペシャワール派

パキスタン北西部・KP州都ペシャワールに拠点を構えている。シラージュッディンの叔父又は従兄弟(いとこ)とされるハリル・ハッカーニが代表を務め,アフガニスタン東部及び中央部の諸州において,テロを実行している。

c バダフシャーン派

アフガニスタン北東部・バダフシャーン州を拠点とする一派であり,北東部や中央部・カピサ州の支配権を主張している。2015年末にペシャワール派から分裂して組織されたとされる。「指導者評議会」の指揮に服していないとされるが,他の派閥と緩やかな協力関係を維持している。

d マシュハド派

イラン北部・マシュハドを拠点とする一派であり,アフガニスタン西部の支配権を主張している。「指導者評議会」の指揮に服していないとされるが,他の派閥と緩やかな協力関係を維持している。

e 「アフガニスタン・イスラム首長国高等評議会」

マンスールの最高指導者(当時)就任に反発する勢力がモハンマド・ラスール・アーフンドを指導者として立ち上げた一派である。ラスール派とも呼ばれる。アフガニスタン全土の支配権を主張しており,他の「タリバン」勢力と武力衝突を起こしている。

(ウ) 地方組織(注14)

アフガニスタン各州には,「タリバン」の統治機構が設置されている。州ごとに任命される「州知事」(注15)は,非戦闘員の投降者及び捕虜の処遇決定,紛争事案の裁定などの権限を有しているとされ,また,「州軍事司令官」は,各州における軍事活動を計画・指揮するとともに,①敵兵の投降者及び捕虜の処遇決定,②スパイの処罰,③略奪品の管理や配分の決定,④「タリバン」の「行動規範」に違反した者の処罰,などに関する権限を有しているとされるほか,「州知事」,「州軍事司令官」の下には,それぞれ「郡長」,「郡軍事司令官」が置かれている。

そのほか,各州には,シャリーアによる統治の推進のほか,聖職者や地方司令官では解決できない論争の仲裁,解決などを行うための「イスラム法廷」が設置され,「タリバン」の「判事」が任命されている。

(6) 沿革

カンダハール州マイワンド郡シンゲサルでマドラサを開いていたオマルは,共産党政権崩壊(1992年)後に始まったムジャヒディン同士の勢力争いが激化する中,1994年11月,「タリバン」と称する武装グループを組織し,同州都カンダハールを制圧した。その後,アフガニスタンやパキスタンから多くのイスラム神学生が加わり,勢力を拡大して全土の南半分を掌握した「タリバン」は,1996年9月,政府軍を破って首都カブールを制圧し,「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言した。さらに,全土の北半分のハザラ人,ウズベク人,タジク人などの少数民族による武装勢力を次々と破り,1998年8月に北部・バルフ州都マザリシャリフを制圧したことで,アフガニスタンの大部分を支配するに至った。

「タリバン」は,元々,欧米諸国に対して明確な敵意を有してはいなかったが,1997年にオサマ・ビン・ラディンらを保護下に入れた後,次第にその世界観に影響され,欧米諸国や国連に対し,ビン・ラディンの使う挑発的な言葉を用いた声明を発出するようになった。また,1998年9月には,偶像崇拝の禁止を徹底すべく,世界遺産に登録されていた中央部・バーミヤン州の仏教遺跡群の石像を一部破壊した。一方,「タリバン」政権を承認していたサウジアラビアは,「タリバン」によるビン・ラディンの保護に反発して,援助及び外交関係を停止した。

国連安保理は,1999年10月,米国によるビン・ラディンの引渡要求を再三にわたり拒否する「タリバン」に対し,アフガニスタンへの民間航空機の乗り入れ禁止や「タリバン」関係の銀行口座の凍結などを定めた安保理決議第1267号を採択したほか,2000年12月には,同年10月にイエメン・アデン港で発生した米駆逐艦コール爆破テロ事件に関連し,改めてビン・ラディンの身柄引渡しを求める安保理決議第1333号を採択した。しかし,「タリバン」は,客人であるビン・ラディンを追放することはパシュトゥン人の伝統に反するとして拒絶し続け,2001年3月には,「アフガニスタンの仏像は,偶像崇拝に用いられるものであり,全て破壊されなければならない」などと宣言した上で,再び,バーミヤンの仏教遺跡群の石像を破壊した。

「タリバン」は,2001年9月の米国同時多発テロ事件後もビン・ラディンの身柄引渡しを拒否したため,米国主導の連合軍は,同年10月,安保理決議第1368号による自衛権の発動として,アフガニスタンへの攻撃を開始した。「タリバン」政権は,同年12月,連合軍の攻勢に後退を重ねた末,最後の拠点であるカンダハールを放棄して崩壊した。

しかし,カンダハールを追われた「タリバン」の生き残りは,隣国パキスタンの部族地域に活動拠点を移して勢力を回復させるとともに,2002年には武装活動を再開し,2005年以降は,自爆攻撃や即席爆発装置(IED)などによる攻撃を採用した上で,アフガニスタン東部から南部にかけてテロを拡大させていった。

(7) 最近の主な活動状況

ア 概況

「タリバン」は,例年,気候の安定する春に特定の作戦名を冠した春季攻勢の開始を宣言し,夏場を中心に攻撃を拡大し,降雪がある冬季には北部及び北東部を中心に活動を停滞させる。

2014年以降,「タリバン」の戦術は,即席爆発装置(IED)など爆発物の威力強化のほか,数百人単位で一定の地域を占領する襲撃事案の増加がみられ,2015年9月には,「タリバン」政権崩壊後初めて,地方の主要都市であるアフガニスタン北東部・クンドゥーズ州都クンドゥーズを数日間占拠した。また,北部,南部の農村部及び山岳部を中心に支配地域を拡大しており,2019年12月18日時点で,アフガニスタン全郡の17%(407郡中68郡)を支配し,また,全郡の48%(407郡中196郡)で支配をめぐり政府と争っている(注16)。2017年の後半以降,空爆などを回避するため,土地を占拠する大規模戦闘から,治安部隊などに対して攻撃を仕掛けて逃走するヒット・エンド・ラン戦術に回帰しているとの指摘がある(注17)(注18)

「タリバン」は,アフガニスタン国内での攻撃を継続する一方で,2015年7月,パキスタン首都イスラマバード近郊で,アフガニスタン政府との初めての公式和平協議を行った。しかし,同月末に予定されていた第2回協議の直前,最高指導者オマルが死亡していたことが明らかになり,それに伴う指導者交代及びその後の組織内の混乱から,同国政府との和平協議は中断した。2018年に入り,「タリバン」は,6月,停戦を求めるファトワ(法学裁定)及びアフガニスタンのガーニ大統領の要求に応じ,ラマダンの終了に際して3日間停戦したほか,7月には,米政府高官と「タリバン」幹部がカタール首都ドーハで協議を行ったと報じられた。その後,11月及び12月にも,「タリバン」政治事務所代表スタネクザイと米国のアフガニスタン和平担当特別代表ザルメイ・ハリルザドは,ドバイ及びUAE首都アブダビで協議を実施した。なお,「タリバン」は,2019年1月,カタールでの米国との協議中に,2018年10月にパキスタン当局から釈放された「タリバン」設立者の1人であるバラーダルを米国と進行中の交渉を強化するとの理由で在カタール政治事務所代表に任命した。以降,協議がドーハで断続的に実施され,直近では2019年12月7~12日に開催された。

このほか,「タリバン」は,2015年1月に設立されたISILの「ホラサン州」が,アフガニスタン東部を中心に活動範囲を広げつつあったことを受け,同年6月,ISIL最高指導者アブ・バクル・アル・バクダディに対し,「タリバン」副指導者名で同国への干渉をやめるよう求める書簡を発出した。以降,両勢力は,アフガニスタン東部及び北部を中心に国内各地で衝突を繰り返したが,2018年以降は,東部・ナンガルハール州及びクナール州での衝突に限定されている。

イ 資金獲得活動

2018年の麻薬関連での年間収入は,4億米ドルとされる(注19)。また,湾岸諸国など外国からの資金調達,鉱物の発掘・販売,地元住民からの「税金」の徴収などによっても資金を獲得しているとされ,近年の年間収入は15億ドルに達するとの指摘がある(注20)

ウ リクルート活動

「タリバン」は,政権掌握の過程で,パキスタンの部族地域に所在するマドラサから数千人の学生をリクルートしたとされるが,近年では,当時のような大規模なリクルートを行うことは困難になっているため,近年では,①住民に「脅迫状」(ナイト・レター)を配布し,「タリバン」への参加を強要する,②警察官など治安機関職員に対してムスリムの義務や愛国心を説き,「タリバン」側に離反させる,③駐留外国軍などとの戦闘を記録した動画を配信した上で,参加を呼び掛ける,④農村地域で反外国人感情に訴え,「タリバン」の正当性を主張する,⑤少年を誘拐した上で洗脳する,などの手法を中心にリクルート活動を展開しているとされる。

エ プロパガンダ活動

「タリバン」は,政権掌握時,国内の自由なメディア報道を規制し,海外メディアの取材にも消極的であった。政権崩壊後は,アフガニスタン国内や国際社会に対する情報発信に努めており,国内外の報道メディアの取材にも応じるほか,インターネット,携帯電話などの通信機器を使用して主張を広めている。

(ア) 公式ウェブサイトの開設・運営

多言語によるウェブサイト「ジハードの声」を開設・運営しており(注21),同サイトを利用して声明を発出している。

(イ) SNSによる発信

広報担当のザビーフッラー・ムジャーヒド及び在カタール政治事務所広報担当のソヘイル・シャヒーンらが,ツイッターで戦闘成果や声明など発信している。特にムジャーヒドは,日中,1時間に数件程度の頻度で発信している。

(ウ) 機関誌の発行

アラビア語機関誌「アル・ソムード」を毎月発行している。同機関誌の主な内容は,①駐留外国軍に対する「ジハード」の呼び掛け,②「州知事」や「州軍事司令官」への取材,③アフガニスタン政府及び駐留外国軍に対する攻撃の様子,④殉教者のプロフィール,などであり,2019年12月時点で,第166号まで発行されている。

パシュトゥー語を母語とするパシュトゥン人を主体とする「タリバン」が,アフガニスタン国内の公用語ではないアラビア語の機関誌を発行する背景には,湾岸諸国のアラブ人から活動に対する理解や共感を得ることで,資金調達を容易にするためとされる。

(8) 他勢力との連携

ア 「アルカイダ」及び「インド亜大陸のアルカイダ」(AQIS)

2001年の米国同時多発テロ事件以前から,ビン・ラディンら「アルカイダ」指導部をアフガニスタンで保護下に置き,テロ資金やテロリストの訓練などを通じて協力関係を深めたとされる。「アルカイダ」は,2008年4月,当時ナンバー2であったアイマン・アル・ザワヒリ(現「アルカイダ」最高指導者)がビン・ラディンを「オマルの『一兵卒』」と表現したほか,「タリバン」最高指導者となったマンスール(2015年8月)及びアーフンドザーダ(2016年5月)に対してそれぞれ忠誠を表明した。一方,「タリバン」は,2011年5月のビン・ラディン死亡時に同人に対する追悼声明を発出したほか,2015年8月には,「アルカイダ」による忠誠表明に対し,最高指導者マンスールが忠誠を受け入れる旨の声明を発出した。2016年6月,ザワヒリは,新しく最高指導者に就任したハイバトゥッラー・アーフンドザーダに忠誠を誓うビデオメッセージを公表した。「アルカイダ」は,「タリバン」の庇(ひ)護の下で,アフガニスタン国内での活動を活発化させており,過去数年間が最も活発との指摘がある(注22)

「タリバン」報道担当は,これまで,アフガニスタンにおける「アルカイダ」指導部の存在や支援を否定する声明を度々発出しているが,アフガニスタン南部,東部,北東部などの地域では,「アルカイダ」戦闘員とされる者が,駐留外国軍やアフガニスタン治安部隊に殺害・拘束される事例が散見されているほか,2015年10月には,カンダハール州内の「タリバン」支配地域で,「アルカイダ」が運営していたとされる複数の訓練キャンプが発見された。また,2017年12月には,南東部及び南部において「インド亜大陸のアルカイダ」(AQIS)副司令官オマル・ヘタブほかAQIS戦闘員80人が殺害,27人が拘束された。2019年10月には,AQIS指導者とされ,「タリバン」戦闘員らと共にいたアシム・オマルが南部・ヘルマンド州での空爆作戦で死亡したとアフガニスタン国家保安局(NDS)が発表した。

イ 「パキスタン・タリバン運動」(TTP)

「パキスタン・タリバン運動」(TTP)初代最高指導者であったベトゥラ・メスード(2009年死亡)が「タリバン」及びオマルに忠誠を誓っていた経緯もあり,「タリバン」は,TTPから資金や戦闘員の提供などの申出を受けていたとされる。また,2013年10月には,当時のTTP報道担当シャヒドゥッラー・シャヒードが,「タリバン」から資金面で支援を受けていること及びTTP幹部マウラナ・ファズルッラー(前TTP最高指導者)が「タリバン」によってアフガニスタン東部・クナール州でかくまわれていることを明らかにしており,一定の関係があることがうががわれる。

ウ 「ラシュカレ・タイバ」(LeT)

2010年7月,国際治安支援部隊(ISAF)は,ナンガルハール州で「タリバン」司令官を拘束した際,「拘束した『タリバン』司令官が,『ラシュカレ・タイバ』(LeT)戦闘員の同州への流入を支援していた」と発表した。また,2014年5月の西部・ヘラート州所在のインド総領事館に対する襲撃事件では,LeTが関与したとされるほか,2016年には,米国国防総省が米国議会に宛てた報告書で,LeTが「タリバン」と共闘している旨指摘している(注23)。2018年には,国連安保理制裁委員会のモニタリング・チームが,LeTが「タリバン」とISILとの間を仲介しようとしたものの,後にLeTがISILから距離を置いたと指摘している(注24)

年 月 日 主要テロ事件,主要動向
94.11  南部・カンダハール州で,モハンメド・オマルが「タリバン」と称する武装グループを設立し,州都カンダハールを制圧
96.9  首都カブールを制圧し,政権を掌握
97年  ビン・ラディンをカンダハール州で保護
99.10  ビン・ラディンの身柄引渡しに応じない「タリバン」に経済制裁を課す国連安保理決議第1267号採択
00.12  「タリバン」にビン・ラディンの身柄引渡しを要求する国連安保理決議第1333号採択
01.10.7  米軍主導の連合軍がアフガニスタンに進攻
01.12  最後の拠点となったカンダハール州を喪失し,政権崩壊。潜伏活動を開始
02.3  南東部・パクティア州で,国際治安支援部隊(ISAF)の掃討作戦に対する武装抵抗活動を開始
05.5.10  アフガニスタン政府からの恩赦の申出を拒否し,駐留外国軍に対する攻撃継続を表明する声明をオマル名で発出
07.7.19  南東部・ガズニ州で,韓国人宣教者団体23人を誘拐。2人が殺害され,同年8月30日までに残る21人が解放
08.1.14  カブールで,外国人が利用する高級ホテルを襲撃し,米国人及びノルウェー人を含む8人が死亡
08.2.17  カンダハール州で,闘犬会場で自爆テロを実行し,80人以上が死亡,約90人が負傷
08.7.7  カブールで,インド大使館を標的とした自爆テロを実行し,同大使館関係者4人を含む41人が死亡,140人が負傷
09.1.17  カブールで,ISAF基地付近で自爆テロを実行し,米軍兵士1人を含む5人が死亡,ドイツ大使館関係者を含む20人以上が負傷
09.9.17  カブールで,駐留イタリア軍の車列を標的とした自爆テロを実行し,イタリア軍兵士6人を含む16人が死亡,58人が負傷
09.10.28  カブールで,国連職員宿舎を襲撃し,同職員5人を含む8人が死亡
10.2.初  パキスタンが副指導者のアブドゥル・ガーニ・バラーダルを拘束
10.2.26  カブールで,外国人ゲストハウスを襲撃し,18人が死亡,38人が負傷
10.5.18  カブールで,国軍施設付近で駐留外国軍車列を標的とした自爆テロを実行し,米軍兵士5人,カナダ軍兵士1人を含む18人が死亡,47人が負傷
11.6.28  カブールで,外国人が利用する高級ホテルを襲撃し,スペイン人1人を含む19人が死亡,約20人が負傷
11.8.6  中央部・マイダン・ワルダック州で,駐留外国軍の兵員輸送ヘリを撃墜し,搭乗していた米軍兵士30人を含む38人が死亡
11.9.20  カブールで,ラバニ高等和平評議会議長(元大統領)を標的とした自爆テロを実行し,同議長を含む4人が死亡,大統領顧問ら数人が負傷
12.4.15  カブール,ナンガルハール州,パクティア州及び中央部・ローガル州で,同時多発テロを実行。カブールでは,外国公館や国会庁舎などを対象に市内3か所で同時テロを実行し,住民3人を含む11人が死亡,65人が負傷。在アフガニスタン日本国大使館事務所棟にも被害が発生
12.9.14  南部・ヘルマンド州で,英国のヘンリー王子が配属されたISAF基地を襲撃し,米軍兵士2人が死亡,米軍兵士ら9人が負傷しとたくほか,戦闘機6機及び基地施設が破損。「タリバン」が「預言者ムハンマド冒涜映像への報復」であるとする犯行声明を発出
13.4.3  西部・ファラ州で,州裁判所を襲撃し,自爆及び襲撃テロを実行し,裁判所関係者8人を含む54人が死亡,100人以上が負傷
13.6.18  「タリバン」報道担当が,カタール首都ドーハに政治事務所を開設した旨の声明を発出
14.1.17  カブールで,外国人が利用するレストランを襲撃し,自爆及び襲撃テロを実行し,国連職員ら外国人13人を含む21人が死亡,5人が負傷
14.11.23  南東部・パクティカ州で,バレーボールの試合会場を標的とした自爆テロを実行し,約60人が死亡,少なくとも60人が負傷
14.11.27  カブールで,英国大使館の車両を標的とした自爆テロを実行し,英国人大使館員1人を含む5人が死亡,少なくとも30人が負傷
14.12.31  ISAFの任務が終了
15.1.1  アフガニスタン治安部隊がISAFから治安維持権限の移譲を受けるとともに,北大西洋条約機構(NATO)の「確固たる支援任務」(Resolute Support Mission: RSM)が開始
15.6.16  「タリバン」副指導者兼「指導者評議会」責任者マンスール名で,ISIL 最高指導者アブ・バクル・アル・バクダディに対して,ISILのアフガニスタンへの不干渉やリクルート活動の中止などを求める書簡を発出
15.7.7~8  アフガニスタン政府及び「タリバン」が,パキスタン首都イスラマバード近郊のマリーで,初の公式和平協議を開催
15.7.30  最高指導者オマルが2013年4月に死亡していたと発表。翌31日,副指導者アフタール・モハンマド・マンスールが新最高指導者に就任したことを発表
15.8.7  カブールで,警察学校を標的とした自爆テロを実行し,警察訓練生ら27人が死亡,26人が負傷。また,駐留外国軍基地を襲撃し,米軍兵士1人,米国人民間業者8人が死亡,20人が負傷したほか,国軍施設を狙ったとみられる自動車爆弾が,居住地で爆発し,住民15人が死亡,248人が負傷
15.9.28  クンドゥーズ州都クンドゥーズを襲撃し,数日間,占拠。警察官70人以上を含む289人が死亡,559人以上が負傷
16.4.19  カブールで,NDSの要人警護部門庁舎を標的とした自爆及び襲撃テロを実行し,64人が死亡,347人が負傷
16.5.21  パキスタン領内で実施した米軍の空爆で最高指導者マンスールが死亡。同25日,副指導者ハイバトゥッラー・アーフンドザーダを後継指導者に選出
16.9.5  カブールの国防省付近で,遠隔操作型の爆弾が爆発した直後,被害者救護などのために警察関係者が集まったところに別の爆弾が爆発し,41人が死亡,100人以上が負傷
17.4.21  北部・バルフ州で,国軍基地を襲撃し,兵士140人が死亡,60人が負傷
17.10.17  パクティア州で,州警察本部を襲撃し,警察官ら41人が死亡,158人が負傷したほか,ガズニ州で,郡議会事務所を襲撃し,20人が死亡,34人が負傷
17.10.19  カンダハール州で,国軍駐屯地を襲撃し,兵士43人が死亡,9人が負傷
18.1.20  カブールで,高級ホテルを襲撃し,外国人15人を含む40人が死亡,12人が負傷
18.1.27  カブールの旧内務省庁舎付近で,自動車爆弾による自爆テロを実行し,103人が死亡,235人が負傷
18.6.15~17  停戦を求めるファトワ(法学裁定)に沿う形で,3日間の一時停戦を実施
18.11.15  ファラ州で,国軍及び警察の共同基地を襲撃し,兵士ら38人が死亡
19.1.14  カブールの外国人居住区「グリーン・ビレッジ」付近で,自動車自爆テロを実行し,7人が死亡,113人が負傷
19.1.21  中央部・マイダン・ワルダック州で,国家保安局(NDS)訓練施設を襲撃し,126人が死亡
19.1.24  ムッラー・アブドゥル・ガニ・バラーダルが政務担当副指導者に就任
19.5.8  カブールで,米国系NGO事務所を襲撃し,民間人3人を含む9人が死亡,約20人が負傷
19.9.2  カブールで,外国人居住区の「グリーン・ビレッジ」に対する自動車自爆テロを実行し,ルーマニア大使館幹部など外国人8人を含む16人が死亡,外国人25人を含む119人が負傷
19.9.5  カブールのRSM本部付近で,自動車自爆テロを実行し,RSM所属の米国軍兵士及びルーマニア軍兵士の計2人を含む12人が死亡,42人が負傷
19.9.17  中部・パルワーン州チャーリカール郡で,治安当局車両に取り付けられた爆弾が,ガーニ大統領の選挙演説集会場で爆発し,24人が死亡,30人が負傷
19.11.18  アフガニスタン政府が,「ハッカーニ・ネットワーク」(HQN)幹部3人(アナス・ハッカーニ,ハージー・マリー・ハーン及びハーフィズ・ラシード)をバグラム空軍基地経由で釈放

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