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患者の望んでいる医療とは何か 透析中止を提案したある医師の独白 - 高山義浩

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はじめて、患者さんに透析中止の提案をしたのは、私が研修医のときのことでした。患者さんは中止を希望され、そして5日後に亡くなりました。病院で内科医をやっていれば、誰しも、そういう経験は重なっていきます。

高齢社会の医療現場では、治療の差し控え(尊厳死)を提案することは、もはや日常的なことです。むしろ、ここで紹介する患者さんでは、当初、その選択肢を「僕」が示さなかったことが問題ですらありました。治療のメリットとデメリットを理解していくためにも、治療しないことの説明は必要なのです。

大切なことはプロセスです。帰結は同じでも、患者さんはもちろん、家族も、医師も納得する必要があります。その意味で、当時の「僕」には、これが精一杯でした。いまの私なら、もっと上手く対話できるか?それは分からないけれど・・・。

以下、研修医時代に書いた文章です。個人情報保護の観点から、患者背景等は一部加工しています。

「診断して治療する」ことだけが、医療の使命だと信じていた

写真AC

♪ わたしゃ久留米の機織り娘 化粧ほんのり 花ならつぼみ
わたしゃサイノ 久留米のひばた織りでございますモンノ
私がっサイ ひばたば織りよりますとサイノ 村の若い衆が来て
遊ばんのじゃん 遊ばんのじゃんと 言いますモンノ
一緒に遊びたいよかばってん ひばたがいっちょん織れまっせんモンノ
惚れちゃおれども まだ気が付かんかね

507号室のヒサノさん。機嫌のよい午後は、この民謡を歌いながら、その日の点滴を提げてくる僕を待っている。ヒサノさんは福岡県南部の直方の機織り娘だった。そして、戦争が終わった15歳から、嫁いだ20歳までの、その機織り娘時代が、ヒサノさんにとって一番幸せなときだったという。

「戦争も辛いですノ、でも嫁入りも辛いもんですノ。いまの若い人は幸せですノ」

戦時下は小倉の兵器工場に動員され、朝から晩まで鉄砲の弾を磨いたり、運んだりする毎日を過ごしていた。食事は三食とも、おから御飯に大根と漬物。夜は宿舎に戻るが、50畳ぐらいの広間に一学年の40人が押し込められ、落ち着いた時間などどこにもなかった。

「小倉大空襲の夜は忘れられまっせん。宿舎の防空壕に逃げ込もうとしたら、前日までの雨が腰まで溜まっていて、虫がいっぱい湧いとりました。それでも、後ろから押されて、放り込まれるようにバシャバシャと・・・ 人がはいってくるに連れて水嵩(みずかさ)がまして、頭の上ではドガーンドガーン、でも自分は溺れて死ぬるんと思いましたノ」

戦争は15歳の夏に終わった。

帰ってきた直方の村は戦後の大混乱にあったという。当時、直方は炭鉱で栄えており、終戦時には大勢の連合軍捕虜がそこで働かされていた。しかし、玉音放送の直後、捕虜を監視していた日本軍兵士たちが逃走してしまったため、捕虜たちが金網を倒して、村へとなだれ出てきたのだ。

「ガリガリに痩せとりましたが、大きな図体の白いのやら、黒いのやらが出てきましたモン。村人はみんな震えあがっておりました。若い娘はみんな土蔵に隠せとのことで、私も何日間かは真っ暗な土蔵に隠れとりました。そりゃあ、怖ろしいことでした」

戦争が終わった数日後、艦載機がゆうゆうと直方の空に舞い、沢山のビラをまいて飛び去っていった。ビラにはこう書かれていた。

「明日、落下傘にて連合軍兵士への補給物資を投下する。日本人のいかなる手出しも無用。横領せし者には、厳しい懲罰を科す」

翌日、爆撃機が直方の空に現れた。

「小倉で見たんと同じでしたノ。でも、竹槍投げたら届きそうなほど低空でした。見上げていたら。機体の腹がパカーと割れて、七色の落下傘が落ちてきました。綺麗でしたノー。沢山のドラム缶がゆらゆら、ゆらゆら」

それから、直方の村は平静を取り戻しはじめた。元捕虜たちにも規律が戻り、礼儀正しく農家を訪ねてきて、チョコレートと卵を交換してほしい等、村人との交流がはじまった。しかし、ある日、忽然と彼らはいなくなった。そして、ようやく直方にも戦後がやってきたのだった。

「戦争が終わったんは、嬉しかったですノ。お国が勝った負けたは、関係ござんません。故郷に帰れる。私にとってはそれだけの意味でしたノ」

そして、ヒサノさんは機織り娘として働きはじめた。

「楽しく幸せでした。妹と弟の面倒をみながら、熱心に働きました。でも、それが今から考えれば、いけんかったんでしょうね。急がしか家に嫁がされたんですモン」

村でも働き者の娘として有名になったヒサノさんのもとへ、縁談がもちあがった。隣村の地主の長男の嫁にということで、これは名誉なことではあったが、でも現実は「不満も言えん、逃げもでけん人手が増えただけ」だったと。

毎朝5時に起きて、一家の朝食を作り、野良に出て、昼食を作り、また野良に出て、夕食を準備する。その合間に家の片付けと洗濯。食事を取るのは、働きながらの台所。そうしたなか息子と娘を育てあげた。

「おしんのごたぁ 生活でした。毎日毎日がおしんでしたノ」

娘は博多に嫁いでいった。幸せそうだったが、ヒサノさんは寂しかった。結婚式では、とにかく寂しさを悟られまいとしていたという。息子は家に留まったが、農業を継がずに会社勤めとなった。やがて嫁が来たが、学校の先生だった。

「大学出のお嬢さんには、野良はさせられませんですノ。一度、どーしても手伝いたいと申しますけん、田んぼに入れたことがありますモン。でも、その夜から熱を出して、往診先生に来てもろうたり、そりゃあ大騒ぎでした」

ヒサノさんにとっては愉快な思い出なのだそうだ。いつしか夫も持病を抱えるようになり、ヒサノさんだけが農業をつづけることになっていた。

そして20年の月日が流れた。家族が気がついたとき、すでにヒサノさんの足は太くむくんでいた。

◇        ◇        ◇

「こうやって街の病院に連れてきてもらっただけで、私は十分ですノ。こんな親孝行をしてもろうて、私は幸せです。私の両親が亡くなったときも、お医者は一度きり往診に来てもろうただけでしたノ」

血液検査の結果では、腎臓に何らかの障害が起きていることが明らかだった。しかし、CT検査や大腸カメラを含めた詳しい検索では、原因となるような異常がみあたらない。ヒサノさんの腎臓は、別の用事に気をとられたかのように、ふっつりと仕事をやめてしまったままである。

それでも僕は、まだ「診断をつける」ということに固執していた。診断をつけなければ治療はできない。治療しなければ患者は助からない。そして、医師は患者を助けなければならない。視野の狭窄した医師が陥りがちな3段論法である。しかし、患者はそれだけを医療に期待しているとは限らないのだ。それが僕には見えていなかった。だから、ご家族にも集まっていただいて、こう僕は説明した。

写真AC

「ヒサノさんの腎臓自体に何らかの異常があると考えています。診断をつけるためには、腎生検という検査こそが一番早く、そして正確に知ることができるでしょう。ヒサノさんの腰から長めの針を刺して、腎臓の一部分を削ってくるのです。痛みはあまりありません。麻酔をしますので、その麻酔の針を刺すときにチクリとするぐらいです」

ヒサノさんの夫をはじめ、家族の皆がこの提案に賛成した。ところが思いがけないことに、ヒサノさんが「うん」と言わなかったのだ。

「先生、わたしはもういいよ。先生にはようしてくれました。感謝しとります。こんなに私の体を真剣に考えてくれて・・・。でも、わたしゃ、もう疲れたノ。十分に長生きさせてもろうたノ。わたしゃ、これ以上に長生きせんでいいんです」

ヒサノさんは、時折咳き込みながら、力をふりしぼるようにしてこう言った。それまで何でも「うん、うん」と同意してきたヒサノさんの反対だけに、これは重みのある言葉だった。僕は一瞬たじろいだが、しかし家族の手前もあって、つづけて定型的な説得を試みた。

「ヒサノさん。まだまだ元気に過ごせるようになると思いますよ。そのためにも、きちんと診断して、一番いい治療をしましょうよ」

しかし、ヒサノさんの意思は固かった。「元気になっても、またじきに死ぬるでしょう。ねえ先生。私はいまとっても苦しいノ。こんな苦しい思いは一度で十分。何度も治って、何度も苦しんで、結局死ぬるなら、今回の一回だけにしてほしかとですよ」

さすがに僕は何も言えなかった。ヒサノさんが、ここまで断固と腎生検を拒否するとは思っていなかった。僕はじっとりと冷や汗を浮かべていたに違いない。僕はヒサノさんの腎臓をあきらめて、いのちを助ける提案をすることにした。

「ヒサノさん。わかりました。では、ヒサノさんの体を楽にすることを考えてみましょう。透析って、知ってます?」

「ああ、ヤスユキさんとこの息子がやってるやつだノ」と、ヒサノさんは長男に確認した。

「そうそう、母さん。トシハルくんがしてるだろ。トシハルくんは透析しながら元気に仕事までしてるからね」と長男が調子を合わせてくれた。

「ヒサノさんの体がつらいのは、ヒサノさんの腎臓が仕事しなくなって、体の悪いものが溜まってきてるからなんですよ。透析をすれば、そういう悪いものを体の外に出してしまえるし、足のむくみも少しずつとれて楽になれますよ」と無理に笑顔を作りながら僕は言った。

このときばかりは家族総出で説得が繰り広げられ、結局、ヒサノさんは透析導入に合意してくれたのだった。もっとも、その時の僕には、多少彼女の体調を戻してから、改めて腎生検の説得を試みるという下心もあったのだが・・・。

2日後、初回の腎透析を実施。透析が終わったヒサノさんの手を僕は握って、「なんにも辛くなかったでしょう」と聞いた。

「先生・・・、辛くないさ。でもね、わたしの人生は幸せだったから、辛くなければよいってわけではないですノ。わたしゃ幸せやったと思ってます。だから、いつ死んでもいいですノ。幸せだから・・・」

この言葉で、ヒサノさんと話し合えていなかったことが、ようやく僕にも分かりはじめたのだった。たしかに世間話はたくさんしていた。しかし、肝心の話を僕は避けてきたのだ。そして、僕はボタンを掛け違えてしまったのかもしれない。

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