- 2019年03月20日 12:22
患者の望んでいる医療とは何か 透析中止を提案したある医師の独白 - 高山義浩
2/2「積極的治療の拒否」にはじめて同意するも、不思議と敗北感はなかった
ベッドサイドに丸イスを運んで、僕はヒサノさんと話をすることにした。ヒサノさんの声はすでにかれていたが、精一杯の笑顔を彼女は作りながら話をしてくれた。夕焼けがシーツをほのかに赤く染めてゆき、つづいて夕暮れがフワリと降りてきた。対話の終盤にさしかかって、僕にもようやく「ヒサノさんが人生に満足している」ことが理解できるような気になっていた。
「ヒサノさんは幸せだったんですね。これまでずっと・・・?」
「幸せだったよ。先生」
「なにが、一番幸せだったんでしょう?」と僕は聞いてみた。ヒサノさんは少し考えこんでいたが、意を決したようにこう言った。「やっぱり、子供たちに恵まれたことだねぇ」
今度は僕が考え込んだ。子供のいない僕には、それをどのように受け止めればよいのか分からなかった。ただ、それは死を覚悟した人らしい答えのようにも思われた。最後に、僕は準備してきた質問をヒサノさんに投げかけた。
「ヒサノさん、透析やめますか?」
この言葉と同時に僕たちは深い沈黙につつまれた。それは長い沈黙だった。しかし、やがてヒサノさんが沈黙を破ってこう言ったのだった。
「先生、透析はいやだ。私は幸せなまま死にたいノ」
◇ ◇ ◇
こうして、僕はヒサノさんが積極的治療を拒否していることを理解した。医療の撤退に同意したはじめての経験だった。ただ、不思議なことに敗北感はなかった。
長男にヒサノさんの意思を伝えると、あっさりと長男も了承した。当然のことだが、ヒサノさんは長男にも意思を伝えていたのだ。すぐに僕は病棟看護師と臨時ミーティングを開いて、鎮痛剤を除いて医療的介入を行なわないことを確認した。
翌朝、僕が病室に入ると、管をすべて抜き去られたヒサノさんがベッドの端に座っていた。再びむくみはじめた足をさすっている。僕が入ってきたことに気がつくと、ヒサノさんはすっきりした表情で僕を見上げた。
「ああ、先生、よく来てくれましたノ。もう来てくれんのじゃないかと思っとりました」
「そんなことはないでしょう」と僕は言った。ヒサノさんは、息苦しそうな咳を何度かした。しかし、笑顔をとりもどして、僕に昔話を聞かせてくれた。
小倉での勤労動員と大空襲、その戦火をかいくぐって彼女は生き延びた。ようやく戦争が終わり、彼女は故郷の直方へと帰ってきた。そして苦労の多い結婚。しかし、子供の存在が彼女を支えた・・・。
「戦争は辛かったノ。でも、それで幸せを教えられたノ」
僕はロバート・キャパの写真を思い出した。戦場となった街の人々が見せる「生活くささ」と「笑顔」・・・。人間性というものは驚くべき回復力をもっているのだ。それは、生死とは次元の異なる人間の強さである。
◇ ◇ ◇
さらに4日が経過した。ヒサノさんのむくみは再び全身に広がりはじめ、息苦しさの訴えが強くなってきた。そこで僕は、意識が失われない程度にそっと麻薬を増量した。僕が病室に入っても、横たわったヒサノさんはもはや目を開けることはしなくなった。ただ、声をかけると「ああ、先生・・・」と言って、手のひらを広げてくれた。その手を握り返して、僕はこう言った。
「苦しくないですか?」
すると、ヒサノさんは絶え絶えな声で、ゆっくりとこう言った。
「苦しいノ、先生。でも、私は幸せだからよかよ。心配せんで・・・」
「素敵なお子さんに恵まれたからね」と僕は言った。
「いいやぁ 先生。子供たちじゃなかったノ。子供たちは遠くへ行った。いまは、子供たちは遠くにいる」
「どういうこと?」
「いまはね。先生。おかあちゃんが傍にいるんだノ。おかあちゃんと一緒にいたときのことが、まるで昨日のごたある・・・」
そう言うと、ヒサノさんは微かな笑みを浮かべた。
「おかあちゃんって、ヒサノさんのお母さん?」
「そうだノ、先生。わたしがね、幸せだったのは、子供たちなんかより、もっともっと、おかあちゃん。おかあちゃんだったノ」
「ヒサノさんのおかあちゃんって、どんな人だったんです?」と僕は聞いた。
「しっかり者だったノ。慌てない人だった。騒がない人だった。でも、あったくて、優しい人だったノ」
「おとうちゃんは?」
「おとうちゃんは・・・、暴君だった」
「そうなんだ」
「でも、そんなおとうちゃんと一緒にいるけんが、おかあちゃんやった」
「へー」と僕は真剣にうなずいた。
「わたしはね、今になって気がついたんだノ。先生。おかあちゃんとこうして一緒にいるのが一番幸せ。とらわれがない。あれこれ考えなくていい。あの頃んごつして死ねたら、それが一番幸せ・・・」
そう言うと、ヒサノさんは寝息を立てはじめた。僕は静かに病室を出た。ヒサノさんが言いたかったことは何だろう。そのことを反芻しながら、僕は階段を歩いていた。ただ、確かなことは、ヒサノさんが彼岸へと渡りはじめたということだ。そして僕に与えられた役割は、それを静かに見送ることだけだ。もはや僕にも迷いはなかった。
その翌朝、ヒサノさんは永眠した。まさに妣(はは)の国へと帰られたのだろう。彼女が遺したものは、とらわれのない穏やかな顔だった。
患者との対話を重ねることでのみ、私たちは”正解”へと近づける
これで物語は終わりです。最後に少しだけ・・・、いまでは研修医を指導する側となった立場から追記いたします。
まず、この文章を紹介することで、私は決して、安楽死を推奨しようとしているわけではありません。そもそも、ここで紹介している事例は、実は「安楽死」ではなく「尊厳死」に該当します。以下、死に帰結する医療の分類です。
安楽死: 患者が死ぬことになる行為を医師が直接遂行すること
自殺幇助: 患者が死ぬことになる薬剤等を患者の希望により処方すること
尊厳死: 生命維持に必要な治療を差し控えること
これは行為の様態に基づく分類ですが、さらに、患者さんの意向に基づいて分類することができます。
自発的安楽死/自殺幇助/尊厳死: 判断能力のある患者の要求に基づく場合
非自発的安楽死/尊厳死: 患者に意向を表明する能力がない場合
反自発的安楽死/尊厳死: 判断能力のある患者の要求に反する場合
このうち、「反自発的安楽死/尊厳死」は優生思想のもとに障がい者などへ行われた暗い歴史はありますが、これは殺人にも等しく、もちろん現代では認められません。そして、同様に「非自発的安楽死」も認められるべきではありませんが、「非自発的尊厳死」についてはグレーゾーンながら、実際には家族の同意のもとに医療現場で実施されることがあります(議論が必要な領域)。「自発的安楽死/自殺幇助」については認める国も増えているようですが、いまの日本では認められていません。
残された「自発的尊厳死」のみ、日本では(法整備は遅れているものの)慣習的に認められてきました。今回紹介した事例もまた、この尊厳死に該当すると振り返ります。もちろん、十分な対話と合意、そして撤回の保証をもって、患者さんの権利として認められるものだと私は考えています。
ただし、「自発的尊厳死」であっても、次の事項について、主治医は十分に吟味しなければなりません(現在の私のチェックリスト)。
(1)誤診の可能性はないか。取返しのつかないことをすべきではない。
(2)「死にたい」のではなく、「死にたいほど苦しい」のではないか。
(3)うつ病などの精神疾患を治療すれば、死を望まなくなるのではないか。
(4)経済的な問題など、疾患以外の問題で死を望んでいるのではないか。
(5)死を望んでいる本人だけでなく、家族などへの配慮ができているか。
つまり、そう容易には尊厳死も選択できないということです。倫理的な正解はありませんが、不断に患者さんと対話を重ねることによってのみ、私たちはそこへと近づけるのかもしれません。
著者プロフィール高山義浩(たかやまよしひろ)
福岡県生まれ。東京大学医学部保健学科、山口大学医学部医学科卒。佐久総合病院、厚生労働省などを経て、2010年より沖縄県立中部病院において感染症診療に従事。また同院に地域ケア科を立ち上げ、主として悪性腫瘍患者の在宅緩和ケアに取り組んでいる。日本医師会総合政策研究機構非常勤研究員、沖縄県在宅医療介護連携推進事業統括アドバイザー、沖縄県地域包括ケアシステム推進会議部会長。著書に『アジアスケッチ 目撃される文明・宗教・民族』(白馬社、2001年)、『ホワイトボックス 病院医療の現場から』(産経新聞出版、2008年)、『地域医療と暮らしのゆくえ 超高齢社会をともに生きる』(医学書院、2016年)など多数。
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